[竹下雅敏氏]当事者しか知り得ない、皇室関係者からのきわめて重要な情報提供

竹下雅敏氏からの情報です。
 時事ブログで掲載した皇室の情報に、一部誤りがあることを関係者の方から指摘されました。情報を精査すると、確かに今上天皇が三笠宮崇仁の子とする部分に誤りがありました。今回の記事で訂正をしたいと思います。
 系図は、以下に紹介する滝山善一氏の情報から作成したものです。これらの情報は、当事者しか知り得ないもので、きわめて重要なものです。文中にある(注)は、こちらで付けたものです。滝山氏からいただいた情報を読みやすくするために、句読点を調整したり、明らかな誤字は修正しています。また細かな情報などは少し省いていますが、情報の大部分はそのままの形にしています。
 途中1か所、時間が明記されていない情報がありますが、これは滝山氏の情報が私の所に転送される際に、順序が逆になっていたためです。情報が送られて来た順序で掲載しています。
 この中で、滝山氏はBの人物を大正天皇と考えておられますが、私が調べたところそうではないようです。どうも石垣純二氏は伏見宮家の血筋のようです。北白川智成は17歳で亡くなっているのですが、娘が1人居たようです。この女性がイギリス人男性と結婚し、彼らから生まれたのがBの男性ではないかと私は考えています。
 昨日は天皇誕生日で、これらの情報を出す予定でいたのですが、滝山氏との調整で今日になりました。これらの極めて貴重な情報を提供して下さった滝山善一氏に感謝します。
 これからの時代は、あらゆる事柄に光が当たり、真実が露わになると考えています。地球上の人々が嘘や隠し事をする必要の無い、平和な社会でなければならないと思います。今日の情報が、そうした社会への扉になれば良いのだがと思っています。
(竹下雅敏)
――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――
滝山善一氏からシャンティ・フーラに送られた情報
2015年12月14日 0時29分
天皇家の真実。 
大正天皇は世界大戦に反対しておられ軍縮も行いましたので、城を留守に外出した折にテロに遭遇した。陛下は頭部に重症を負われた。彼は西郷家の分家筋に匿われ存命したが怪我が元で記憶を無くしており、すぐには帰城出来なかった為不覚にも、その隙に裕仁が天皇に即位した。これが昭和の成立。大正帝には正室と側室12家と彼女らとの間の子供たちが城中に住まいをしていたが、昭和元年以降退去した。

 大正上皇は徳川慶喜の子に拉致軟禁され北陸に住まいを移した。ここにはその昔、乃木希典がテロの追っ手を撒いて避難した家が近所にあった。慶喜の子、徳川五郎衛門=中田九松は裕仁帝を脅しゆすって自分の娘を皇族家に嫁がせた。昭和10年頃ようやく上皇の病が治り、上皇は帰りたいと主張したが、上皇のかつての部下たちが口々に、もしもあなたが今、城に帰ればあなたの子供の部下たちに殺されますよと諭さし諌められました。後々、三日三晩なきはらして、私の子が天皇になったのだからそれで良いと悟られました。

 父親を差し置いて即位した裕仁帝には男子の子は出来ず仕方なく皇太子家を創設したが皇族テロにより多数の死傷者を出して候補の男系男子2名が次々惨殺された。昭和天皇家は急遽、大正上皇側室家の皇統女子の子を迷わず選び、父母妹と別れさせて宮中に上げ、3人目の皇太子として教育と訓練を受けさせた。後、今上陛下となられた、現明仁陛下の祖父は大正上皇、祖母は京都に住まいしたイギリス系日本人。実の父母はドイツ系日本人科学者家族です。

 私の母の実の父は陛下の実の母の兄と聞いております。大正上皇は中田と改姓させられ徳川五郎衛門の身内として戸籍を作られて、長き年月を口の利けないオシのふりをして草むしりや畑仕事縄ないや、カマスつくりわらじ編みに注連飾り作りなどして、過ごされた。待遇は悪く農家の納屋の土間に暮らし、わらの布団に寝泊りし、蚤や虱、藪蚊と同居した。食が貧しいのでかつての部下たちがバナナなどを差し入れしていた。側室家と正田家側での温情を彼ら日本人たちは裏切った。上皇は晩年、九松の子に毎日の様になぐられ続けて後に亡くなられた。その後、美智子皇后の娘と九松のひ孫とを取り替えて人質にしたので、あの紀宮は水戸徳川の家系でした。美智子様の実の娘は,京都大学を卒業後、意に染まぬ奈良県庁への就職を振り捨てて、惚れた男と共に北海道に転居しています。

 竹下様の情報の一部は間違っています。私の話は、要介護5になってしまった、母がまだ元気だったときに聞かせられた話の一部をお伝えしています。事の真偽はあなたがお確かめになればわかるでしょう。 

(注)紀宮清子内親王…黒田 清子(くろだ さやこ、1969年4月18日 - )は、日本の元皇族。今上天皇の第1皇女。東京都職員(現・東京都建設局第5建設事務所用地課長)の黒田慶樹と結婚 

2015年12月14日 15時58分
 石垣姓は私の母方の実の祖父、医事評論家の故石垣純二氏から取っています。彼は今上陛下の家庭教師の一人でした。日本国の裏の特捜のドンでもありました。マッカーサー元帥やケネデイ家とも親交があり彼らとは親友だったと聞いております。また内務省出身という立場で国内外の悪人退治を昭和50年病で倒れるまで行っていました。彼の直接の死因は輸血の失敗、血液型不適合。けれどこれは、医療テロです。祖父の死後、アメリカのギャングたちマフィアが祝賀パーテイを開いて、これでジャパンを盗める大儲けが出来ると前祝をしていたそうですから。そして、彼を失った日本はその後坂道を転げるように国力が落ち込み貧乏になりだします。
 大正上皇は裕仁を自分の子供と信じておりました。祖父は水戸徳川方に、さらに実の娘、実の孫たち、そして姪までもと次々に盗まれていきました。まあもう過ぎた事ではあります。昭和の世は彼と、徳川を含む彼の支援グループによって、今日の国民国家の礎が築かれていったのです。
 人物名称など 私の母 瀧山澄子。 母の養父母名 瀧山勇作は故人 志げ。旧姓中田志げは故人。父古川榮徳は故人。


2015年12月18日 13時06分
 私の父方の血筋が加賀前田家です。昭和13年、私の祖父の古川善二の没後、古川本家に全資産を接収されるまでは富山県の領主でした。古川善二の所領は呉西地区の旧東砺波郡でした。この地域は、江戸中期以降頻発した農民一揆を加賀藩で処罰した際に、領地没収した地域です。前田家において維持管理していました。それが明治時代以降もそのまま続いていたのです。ですから有栖川宮家に嫁入りした親戚がいることになります。公開資料によるとこの宮家との間で大正上皇そして徳川慶喜が友人知人敵同士であったようです。それと、徳川方の狙いが何だったのかお分かりになりますか。徳川将軍家を再建したいという願望怨念がそれですよ。現に私と徳川の姫さん方とくっつけて出来た子を皇太子の子にするという無茶なプランもありましたが、8割方実行寸前に私が潰しました1997年のことです。
 書類上は、私は前田家と徳川家側の親戚筋です。それと、明仁陛下の実の妹には、昭和天皇家側からの殺害命令が出ておりましたが密かに徳川方で預かり養育しています。私の母の妹として瀧山治子と名づけられ、東京に出て、辻調理師専門学校の校長にまでなりましたが病気のため退職。後1982年10月23日頃、私の母に看取られ死去しました。実の妹の死去のことは明仁陛下に報告されています。まだ慶喜の怨念が残っているかも。徳川方では、明仁を天皇にはしたくなかったと聞いておりますので。 
 追記。家系図に関して補足。故瀧山勇作は西郷隆盛の孫と伝わる。私の母の実母は実父のもともとの恋人だった女性。志げが離縁されて帰郷する際に母を皇居から攫ってきたのです。昭和天皇の娘として育てられるはずでしたが一般国民として養育されました。徳川家側は預かった娘を返却する際に別人物の娘を偽って渡したという。ですから昭和6年産まれの宮様は、本当は徳川方でした。その後母が実の父と再会したのは昭和45年以降になります。故石垣純二、医事評論家。故武見太郎日本医師会長とは、いとこ。故三木総理は明治天皇の孫と伝わります。私には、実の妹も一人いますが、311の放射能被曝地域に住んでいますし、とうに発病していますので長くは生きられないでしょう。

(注)昭和6年産まれの宮様…池田 厚子(いけだ あつこ、1931年3月7日 - )は、日本の元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第四皇女。旧名、順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう)。池田隆政夫人。 

2015年12月18日 18時54分
まとめと補足事項。
 中田志げは、昭和帝を脅した徳川五郎衛門=中田九松によって石垣純二のもとに嫁いだが子ができぬまま時の皇太后の命で離縁され帰郷した。大正上皇は中田姓を名乗らされ九松の弟として戸籍が作られて、乃木希典が住んだ家の近所に生活していた。隣村には昔々武田信玄公が隠れ住んだという伝説もありましたがその家系は昭和の御世に絶えています。
 大正上皇は村で嫁を貰い子もなしましたが、ここでもテロがあり妻子を失っています。失意のときに孫娘が皇居から攫われてきたのです。皇居から返すよう要請されても徳川方は自分の親戚縁者の子を身代わりに出しました。これで、嘉仁上皇とあわせて人質=かねづるは二人になりました。そうして、皇太子明仁殿下の実妹も手に入れて徳川の時代が復興するかの如くになりました。
 さて、明仁殿下の実の母の旧姓は石垣という事になりますが、名と嫁入り先の苗字は聞きそびれましたので知りません。だんなさんは日本の石油化学合成物質の開発者の一人だったと聞いていています。ヨーロッパ系故に昭和の戦争時は刑務所に収監されていたそうです。
 1982年天候雪の10月23日今上陛下の実の妹、瀧山治子が病死。末期の水を取ったのは私の母、瀧山澄子です。治子が退職後ずっと母に自分の世話をさせていました。母の貯金を全額使わせた人物です。

2015年12月18日
 私宛のメールの家系図。Bの人物は大正上皇と理解しています。石垣家は、日本に移住したイギリス系の家系と聞いています。ただ大正上皇よりも遡る方たちの名は、母からは、聞いておりません。石垣純二は日本国内よりも外国で有名だったそうで国内ばかりか外国にも不動産や事業を持つ富豪だったそうです。私は家庭の事情で彼の遺産相続からは漏れましたが、その後の私の人生はそれでよかったと今では、喜んでおります。命有ってのこの時です。情報公開は構わないから全員実名でしてください。終らせれば良いのです徳川の夢はこれでしまいです。

2015年12月22日 10時30分
 私が聞いている話は、皆々昔話ですが真実を踏まえているなら現在の事象の解明に役立つでしょう。
 その他、マスコミ筆頭の読売新聞社はGHQの指導で成長したと本で読みましたがここの、オーナー一族は、日本に帰化した元フランス王族の方たちです。ほとんどが富山県西部地区に在住しています。故にこの新聞社の本拠は、富山県です。そのファミリーの中に笹川良一の娘が嫁入りしています。萩山教厳元自民党国会議員、かれは正力松太郎の子。彼らは、私のことを知っています。

Comments are closed.