青年会議所の広報委員長だった私が振り返る21世紀初頭
〜2001年 特集記事『 道しるべを探して…』7月号を題材に(中)〜

 1997年に臓器移植法が成立施行、1999年2月臓器移植手術。移植法施行後の日本で初めてのつまり公的合法とされる移植手術の実施です。その後、移植法は2009年に改正されます。理由は臓器提供者数が少ないからその対処のためで、その施行後、移植実施数は5倍以上に増え15歳未満からの脳死臓器提供も可能になり現在に至っています。
 臓器移植は脳死移植が主ではありません。世界全体での臓器売買の実態はすさまじく、日本でも闇に隠れ実数は表に上がりませんが、臓器売買施術が相当に実施されているのは想像できます。公的合法的に、そして秘密裡に医師が執刀し、その臓器移植手術を待ち望む夥しい人々の群れ。私にすれば昔それを見るのがいやだった「光景」です。
 日本社会ではメディア中心に人類の不老長寿の願望を成就すること、そのためには「どういうことであっても」賛美される傾向は今も顕著にあります。不老長寿への試みを私は否定しません。しかし安易に医療の発展だとか人類の進歩とかの言葉が、疑いなき至高の善でまるで錦の御旗として、無批判に検証なしに受け入れる体質、日本社会にそれが確かに機能しているように見受けられ、それが本当に問題だと見えるのです。この見方は特集記事作成当時も現在の私も同じです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————

pixabay[CC0]



特集記事 「道しるべを探して・・・2」  2001年7月号掲載  中 

現代医療から 

 不老長寿、健康で長生き。古から現代にいたるまでわれわれほとんどの人達が望んできたことでありましょう。世界的な視野から見れば、一部の人たちがその恩恵を受けたのだと言わねばならないでしょうが、科学の発展に伴う医療技術の進歩は私達の不老長寿の望みを随分と叶えてきてくれました。(中略)

 しかし、ここにある疑念を持たざるを得ません。それは、「同じ人間でありながら圧倒的大多数の人には関わりなく、ごく少数の人にしか、その恩恵を受けることが出来ないではないか。」といったことより、不老不死の生存要求の充足が、果たして本当に人間の幸福であるとイコールで繋がるのだろうか?ということです。

 生存要求そのものは全ての人が等しく持っており、この人間の自然な要求にもとづいて、その要求を叶えるべく医療技術、そして文明は進歩してきました。その歩み自体は批判や否定できるものではありません。しかし、全てがそれで許され、片付けていってもいいのかとの疑念も残るのです。それは際限のない要求を満たすことが、本当に幸福に繋がっていくのだろうか、むしろ、人間だけのエゴを助長し、かえって自らの首をしめる結果になるのではないか、との疑念です。

 自らの要求充足にあまりにも懸命になる時、見落としやすいことがあります。それは全てのものはそれ一つ単体で成り立っているものはなく、様々な繋がり支えあいで成り立っているあるがままの姿であり、人間もまた様々な繋がり支えあいの、自然の生態系の一員として生かされている事実です。産業革命以降、人間中心主義、正確にはヒトという種の生存要求を、至高のものとして中心に据える動きは、科学技術を進歩させ、20世紀は史上かつてない豊かな物質文明が花開きました。しかし反面、この20世紀は「戦争と火の世紀」であったとも評されてもいます。人間中心主義にもとづく文明、それはまた、繋がりの感覚を失念させ、地球規模での温暖化と砂漠化、そして人々の精神的砂漠化をも進行させたようにも感じるのです。



脳死・移植問題に見られる問題の本当の本質。


 非人間化と表現し、「精神的な空白感、飢餓感」が現代社会の諸問題の背後にあるのでは?と指摘してきました。今回はそれを「際限のない要求」「人間だけのエゴ」「生存要求を、至高のものとして中心に据える動き」と表現しています。違う表現をしましょう。至高で中心とは神として崇める意味です。飢餓感に基づく生存欲求が「科学技術人類の進歩」を顔とする神となっていませんか?

(ここでいう神とは無論神聖の意でなく人間が制御できず縛られ支配される存在の意味です。自らが生みだした欲望に自らが支配されることです。)

 こうなるとそれにまつわる諸々の行為は全て神に仕え神に供物を捧げる行為、いわば無批判でよいとされる神聖行為となりかねません。しかしそれこそが問題の本質で、神聖行為の筈が幸福に繋がるどころか、地球環境の砂漠化、人間の精神の空白・飢餓を精神砂漠にまで進行させ人類を深刻な危機に追いやっているのではないか?との問いかけです。


pixabay[CC0]



 私にはこのエゴ際限なき欲求を「装った顔」に置き換えて、神として崇め供物を捧げる行為、この姿が「脳死・移植問題」の上に端的に見えてしまったのです。「臓器移植は医療進歩(の顔の神)に捧げるための神聖行為」の意味、そしてそれと少し違う意味もあります。


脳死問題、すり替えられた本当の問題と論点


 記述内容は私個人の見解です。これに批判や非難はあって当然です。不快に感じる方もいるでしょう。ただし、「脳死・臓器移植」施術の際、脳死者に麻酔と筋弛緩剤が投与される事実はご存知でしょうか?

 脳死者の肉体、「脳死はヒトの死」との定義から見れば一般者の見地からはそれは紛れもなく死体のはずです。では死体になぜ麻酔や筋弛緩剤が必要なのでしょうか?「脳死・臓器移植の歴史」で検索してみて下さい。臓器移植法成立後の1999年2月にされた臓器移植が日本で初めての施術ではないことが分かります。脳死がヒトの死と認定されてから臓器移植が実施されたのではないのです。法律が成立する前に幾度も臓器移植がされているのです。「臓器移植」が先なのです。「脳死が人の死か?」の論争や認定は後付けなのです。分かりますか?あくまでも「臓器移植が先にありき」なのです。ことの起こり根本は臓器移植にあり、「脳死が人の死か?」の議論は論点のすり替えなのです。臓器移植なしに脳死は存在しません。不要な脳死判定などしないのです。臓器移植は、行為の正当化の理屈が必要なだけで「脳死が人の死か?」など実はどうでもいいのです。

 次のような情報があります。1984年、筑波大学事件 (脳出血から「脳死」と判定。家族の同意で臓器提供を決める。岩崎洋治教授により膵腎同時移植。1985年東大の本田・阿部両医師により殺人罪で告発。)が起きます。この移植手術を担当した岩崎教授は、同年11月2日号「朝日ジャーナル」誌上でこう語ったとされます。「なんで私が脳死についてやっているかというと、臓器移植のために新鮮な臓器が欲しいからなんです。」この言葉にこそ全てが詰まっています。「新鮮で生きた臓器が欲しい」根本はこれだけなのです。

 生きた人間の肉体にメスを入れ心臓等の臓器をごっそり取り出す。当然臓器を抜かれた人間は死亡します。これは明らかに殺人で、罪を問われるでしょう。しかし同じ生きた肉体から臓器をごっそり抜いてもその肉体の主が脳死と判定されていたなら、公的合法医療行為です。行為は同じです。違いは脳死の免罪符の有無だけです。

 脳死者の肉体は生きています。施行後初1999年2月の施術、メスを入れた瞬間脳死者の心拍と血圧の急上昇の記録。そして施術に脳死者がのたうち回るとの報告もあります。施術に麻酔と筋弛緩剤が投与される所以です。いや、それは痛みではなく脊髄反応と施術側はいいます。真実は判定できません。

 しかし脳死者の肉体が生きているのは全くの事実です。死体では意味が無いのです。生きた臓器摘出が目的だからです。脳死とはその摘出移植行為を正当化し公的合法化するために持ってきた概念に過ぎないのです。他に行為を正当化合法化できる材料があったならそれを持ってきたでしょう。

 「誰かの生存欲求を満たすため、その利用物として、人間の新鮮で生きた臓器を摘出移植するのが妥当なのか?どうか?」これこそが本来本当の論点なのです。



その神とは?



 「寝台の上に寝かしつけた身体、暴れないよう施薬した鼓動を打つその暖かい肉体に刃物をいれ、血が滴り動く臓器を慎重に取り出した彼は、神?への捧げ物にするため、その新鮮な臓器を痛まぬよう大切に処置を施し指定の台へ置いた。」この行為、これは明らかにある種の宗教儀式に見えませんか?分かりますね?これが何をやっている情景なのか・・・は。


pixabay[CC0]



 施術側の人々、そして移植を受けた,もしくは待つ人々。一人一人状況も思いも色々で十把一絡げには決してできません。しかしその皆がともどもに仰ぎ崇める神とは一体何でしょうか?その神は幸福を授けるのですか?それ以前にそれぞれが抱える飢えをその飢餓を潤してくれましたか?乾きが増幅されませんでしたか? 生きることと欲望は決して切り離せません。しかし、その欲望が自分や周囲を豊かに幸せにするか、それとも全く逆なのかは吟味すべきではないでしょうか?

 まず自分にどんな欲望があるのか気づき観察するのは自分を大切のするためには必要な行為だとは思います。   

(了)

Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.