ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第5話 ― 天忠党(上)

 偽造の密勅「討幕令」に署名した一人、中山忠能についてこうあります。

「朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退した(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒した。長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居処分が下ることとなる。」(ウィキペディア「明治天皇」)

 これは異常な事態です。既に見たように、1864年の「禁門の変」で皇居に向かって発砲する長州勢も異常ですが、その翌日、皇居に不審者が300人以上侵入、睦仁親王が卒倒する事態、更にその手引をしたとして睦仁親王の母の父親、外祖父・中山忠能が処罰を受けているのです。
 「禁門の変」は京都御所(皇居)に放火し、孝明天皇と睦仁親王を拉致する計画から起きた暴力クーデターです。この長州勢と内通していたとして中山忠能は処罰を受けているのです。
 更にその前年1863年は、中山忠能の7男中山忠光が下関戦争となる外国船への発砲に加わったのち、大和で挙兵し「天誅組の変」を起こしています。「天誅組」の上部組織が「天忠党」です。天忠党は孝明天皇の意向を差し置いて、天皇の名代のように振る舞っていたよう見受けられます。
 しかしこの1864年には天忠党の総督にも驚愕の事態が訪れていた模様なのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第5話 ― 天忠党(上)

「大和行幸」の勅 〜 八月一八日の政変へ


1863年、外国勢力を武力で排そうとの攘夷の嵐が日本に吹き荒れていました。京都では浪人による「天誅」と称する暗殺、強盗、強姦等が横行し、主に「尊皇攘夷」を掲げる長州勢が京都を席巻していました。長州では尊皇攘夷の討幕派が実権を握っていたのです。

そして朝廷内でもこれに呼応し、急進的な攘夷派が勢力をもち実権を握っていたのです。この3月、将軍家茂が孝明天皇の妹を嫁にいただく条件で上洛し、「攘夷決行」を約束する状況となります。

これを受けて長州藩は5月に外国船への砲撃という攘夷実行を断行。しかしこの長州の行為に同調する藩は皆無、長州藩の暴走という形になって諸外国からの報復の攻撃を受け長州藩は敗北します(下関戦争)。

編集者註:ツイート中の画像は、翌年(1864年)四国連合艦隊によって占拠された長府の前田砲台の様子。

巻き返しを計る「尊皇攘夷」勢力は改めて孝明天皇に強く働きかけ、孝明天皇は不本意ながら8月13日に「大和行幸」の勅を発しました。大和行幸は大和の孝明天皇が神武天皇陵と春日大社、伊勢神宮にまで行幸するものですが、これは「尊皇攘夷」勢力によって企てられた天皇による攘夷親征の計画でした。

攘夷親征とは、征夷大将軍の徳川家茂を通り越して天皇が直接大将となって外国勢力の夷狄を打ち払うというものです。天皇がたてば必然的に徳川幕府も攘夷の軍事行動を起こさなくてはならないですが、同時に天皇が直接攘夷に出るということは征夷大将軍、徳川幕府は不要ということです。

「大和行幸」の勅の実行は、後戻りができない攘夷と倒幕運動の実行を意味します。この画策は長州の正義党久坂玄瑞が中心となっていたとされます。この事態に、前年に寺田屋騒動で藩内の急進攘夷派を粛清し「公武合体」の意思を示した島津久光の薩摩藩と京都守護に入っていた会津藩が、孝明天皇と親しい中川宮朝彦と談義、急進攘夷派の京都追放を謀議します。

8月16日夜、中川宮の進言を受けていた孝明天皇は、長州ら急進攘夷派の京都追放の密勅を出します。その密勅を受けて8月18日未明より急進攘夷派の京都追放が断行されます。長州軍が放逐され、撤退する長州勢と共に三条実美たち七人の急進攘夷派の公卿公家も長州へ都落ちします。これが「八月一八日の政変」並びにそれに伴う「七卿落ち」です。


「大和行幸」の勅が逆転の「八月一八日の政変」を呼び、それが翌年にさらなる事態を呼びます。そして「大和行幸」の勅は別のドラマを生んでもいたのです。「天誅組の変」です。

「天誅組の変」から「禁門の変」まで 〜連動する攘夷倒幕運動


土佐出身勤王党の吉村寅太郎たちは、5月の下関での外国船への発砲に参加していた中山忠光を主将に担ぎ、8月14日「天誅組」として決起、その大義名分は「大和行幸の先鋒となる」でした。

彼らは「八月一八日の政変」の前日8月17日に挙兵し、南大和七万石を管轄する代官所である五条代官所=五条陣屋を襲撃、代官の鈴木源内以下を惨殺し梟首する挙に出たのです。「天誅組」は五条を「天朝直轄地」と称します。

しかし「八月一八日の政変」で大義名分を失った「天誅組」は暴徒の群れとして幕府から追討を受け、朝廷からは忠光を逆賊とする令旨を下され、一ヶ月後に解散壊滅します(主将の忠光はなんとか畿内を脱出し長州に潜伏しますが、長州の保守派に1864年末に斬殺)。


明けて1864年3月末、今度は水戸藩で尊皇攘夷派の決起が起きます。「天狗党の乱」です。「筑波山」で挙兵した彼らの中心人物は藤田小四郎藤田東湖の4男)と武田耕雲斎で、大和行幸の中止に危機感を抱いた彼らは、「幕府の攘夷決行」、具体的には横浜鎖港を大義名分に挙兵したのです。

膨れ上がった「天狗党」のかなりの人員が暴徒化し、各地で略奪や放火の騒ぎを起こしますが、政治的問題があって幕府は中々手出しできない状態にありました。

そのような6月、長州勢等が京都御所に放火し、孝明天皇と睦仁親王を拉致する計画を談義している場に新撰組が踏み込み、長州や土佐の志士たちを斬殺や捕縛する事件が起きます。「池田屋事件」です。


この変報を受けて挙兵した長州勢がとうとう暴力クーデターに出たのが、7月19日の「禁門の変です。朝敵となった長州への討伐のため「横浜鎖港問題」は棚上げとなりました。

結果、「天狗党」の大義名分は失われ、幕府は追討令を出し、「天狗党」は主には水戸藩内の攘夷反対派から攻撃を受け、人命が失われていきます。最終的には京都に向かうも投降し、1865年の2月に藤田小四郎が、3月に武田耕雲斎がそれぞれ斬首されます。以上が大和行幸の勅からの一連の攘夷倒幕運動の顛末です。


倒幕勢力本体「天忠党」〜総督中山忠伊の人物像


大和行幸の勅からの攘夷倒幕事件を、時系列から順を追うと、
①天誅組の変、②天狗党の乱、③池田屋事件、④禁門の変、これらが一連のもので連動しているのは明らかでしょう。

このカウンターが「八月一八日の政変」で、この後「8月26日、孝明天皇は『これまではいろいろ真偽の分明でないものもあったが、8月18日以後に発する勅命は真実私の意志であるから、そう心得よ』と在京の諸大名に伝えた 」(ウィキペディア「八月一八日の政変」)とあります。

孝明天皇の勅命を偽造したり本意に反する勅命を出させていた朝廷内の勢力が「天誅組」の上部組織で、倒幕運動の本体の「天忠党」と見受けられます。なぜここまで「天忠党」が力を有し、強引と言える倒幕運動を展開できたのか?

時事ブログで既に竹下さんが度々明かしていますが「天忠党」の後継組織があります。皇道会、大日本皇道立教会、そして現在の貴嶺会です。


貴嶺会がホームページで情報を公開してくれているおかげで表の情報では知り得ない様々なことを学べます。貴嶺会の天忠党の欄をクリックするといきなり驚愕の情報が飛び込んできます。そこには天忠党の組織図が出てくるのです。

天忠党の総督は中山忠伊とあり、その下には地下組織である天忠党の下部組織と見受けられるものとそこに属する人名があります。それを見れば今回の記事本文で出てきた組織と人名がほぼ全て出ています。例えば水戸藩勤王派の藤田東湖、小四郎、武田耕雲斎。長州藩正義党の久坂玄瑞。土佐藩勤王党の吉村寅太郎、と言った具合です。

この下部組織の人名には西郷隆盛坂本龍馬の名もあり、維新の英傑の名がずらりと並びます。この天忠党の組織図と実際に記録されている事件はピッタリと符合し、全ての攘夷倒幕運動の裏にあったその本体が天忠党だったと見るのが妥当なのです。

この組織図の下にある文書には更に驚愕情報があります。天忠党総督の中山忠伊は「光格天皇の皇子」とあります。光格天皇は孝明天皇の祖父ですから、中山忠伊が光格天皇の皇子ならば孝明天皇の叔父になります。更に天忠党総督の中山忠伊は「自刃」!とあります。忠伊が光格天皇の皇子ならば、天皇の皇子が自刃したということです! それはいつか?

ホームページの他の情報(2段目後半)を見るとそれは1864年です。月日は不明ですが「天誅組の変」が失敗し、朝廷から忠光を逆賊とする令旨を下されたことが大きく絡んでいるようです。攘夷倒幕運動の不出来の責任を取り、「討幕運動」を継続させるため、天忠党総督中山忠伊は自刃して果てたということでしょう。

孝明天皇を、朝廷を左右し、そして全国の志士を動かしたその力の源泉は、天忠党総督中山忠伊が光格天皇の皇子ならばその血統でしょう。しかしそれ以上に、自刃で分かるように、忠伊に身命を賭した尋常ならざる覚悟と裂帛の思いがあったからでしょう。忠伊の持つ熱量が人々を動かしたと見るべきでしょう。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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