ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第6話 ― 天忠党(中)

 1867年10月に出された「討幕の密勅」。この原本写しが、それぞれ下された側の鹿児島(薩摩)と山口(長州)の資料館にあります。中山忠能らが署名したものですが、これはどう見ても偽造の密勅です。この密勅には天皇の筆が一切記されていません。
 公史上では、この1867年1月にすでに孝明天皇は崩御していて、密勅を下すのは睦仁親王が即位した明治天皇のはずですが、この時は明治天皇はまだ15歳の少年です。おまけに睦仁親王はその3年前の1864年秋に「禁門の変」で、朝敵とされることになった長州勢から自分の住居の御所に発砲され、その騒ぎの中で卒倒もしているのです。
 この睦仁親王が、自分の意志で朝敵であった長州などに討幕令を下すなど考えられないのです。更に署名した中山忠能なども密勅書に押印していません。1867年の討幕の密勅は偽造と見るのが当然なのです。
 それでは天皇からの徳川幕府の討幕の勅が存在していなかったか?といえば、「密勅はあった」のです。中山家に、中山忠能の曽祖父である中山愛親に、光格天皇から密かに討幕の密勅が下されていたのです。この密勅が後に倒幕の王政復古としての明治維新へと繋がるのです。
 逆に言うと明治維新への展開や維新の中核組織天忠党のその後の展開を見れば、“①光格天皇から中山愛親らへ「討幕の密勅」が下された ②天忠党総督の中山忠伊は光格天皇が中山家に養子に出した自分の皇子”。このことは事実と見る以外にないのです。そうでないと明治維新に関わる事物の辻褄や整合性がとれないのです。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第6話 ― 天忠党(中)

天忠党の魁となった中山愛親 〜天忠党の同盟者たち


天皇を、そして朝廷も左右し、日本全国の志士たちなども動かした天忠党。天忠党総督は光格天皇の皇子であったとされる中山忠伊であったことを前回見ました。東吉野村のホームページに興味深いことが記されています。天忠党の正体が示唆されているのです。

1863年8月の孝明天皇大和行幸の勅をうけて決起挙兵したのが「天誅組」で、天忠党の下部組織です。この天誅組の大幹部で総裁の一人であったのが藤本鉄石です。東吉野村のホームページには、藤本鉄石が壮絶な討ち死にをする前日に残した辞世の句となった3首を載せています。その一つが次です。

八咫烏 みちびけよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため

5・7調の句の切り方が合っているかは分からないのですが。この句の意味はごく簡単には「八咫烏よ、導いてくだされよ。天皇に尽くすべく立ち上げたこの皇軍を。」でしょう。

つまり、天忠党はどうやら八咫烏に所属する組織であったようなのです。そして彼らは朝敵とされたので皮肉ではありますが、自分たちを皇軍と認識していたようなのです。彼らは占領した五条の地を「天朝直轄地」と称しています。

この天誅組が朝敵とされ壊滅したのが要因となって天忠党総督中山忠伊は自刃するのですが、貴嶺会の情報(2段目後半)によれば中山忠伊が自刃したのは平野郷の坂上一族の邸宅。日時は1864年2月10日との情報が別にあります。

貴嶺会の天忠党図によると「諸国同士」と記され同盟関係を結んでいたであろう人物図があります。筆頭には水戸の徳川斉昭、次いで薩摩の島津斉彬、そして次に坂上一族とあります。


倒幕勢力の本体で明治維新の核になった組織が天忠党であり、その筆頭の同盟者が水戸の徳川斉昭であり、次いでの同盟者が大奥を掌握していた篤姫の義父の島津斉彬だったわけです。徳川幕府内に討幕の中心勢力があったのです。そして同盟者の坂上一族とは征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、大阪平野郷をその本拠地としており、朱印船貿易を取り仕切っていたようです。

貴嶺会の天忠党図を見れば天忠党の本部は朝廷内に決起した討幕の軍隊組織だったと見えます。その天忠党の総督の初代、もしくは天忠党組織の魁となった人物が中山愛親だと分かります。この座を中山家の忠尹、忠頼、忠伊が引き継ぎ、忠英(秀)へ引き渡されたのが記されています。

初代総督もしくは討幕運動の魁となった中山愛親は光格天皇の側近であり、江戸幕府に赴き「中山問答」と呼ばれる討議を幕府と展開した人物です。貴嶺会の情報によれば中山愛親はその後に光格天皇から「討幕の内勅」を受け、ここから討幕運動が展開されるのです。

光格天皇の「尊号事件」〜討幕運動の始まり


討幕の内勅を降ろした光格天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]

1779年、光格天皇が即位しました。事情が混み合っての異例の即位でした。江戸になって新設された閑院宮からの天皇だったのです。

閑院宮は世襲親王家4家の筆頭の伏見宮などからすれば全くの傍流宮家、五摂家などの公卿からの格下となり、息子が天皇として即位したとはいえ、光格天皇の父君は朝廷内での席次は低かったのです。そういう事情から次の「尊号事件」が生じます。

「1789年光格天皇が実父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして、江戸幕府老中松平定信に拒絶され、幕府批判の公卿が処罰を受けた事件。尊号一件。」(「コトバンク」)

光格天皇は父君に尊号を贈り地位をあげようとし、幕府に諮りますが同意を得ず、逆に幕府から呼び出しを受けます。1783年に光格天皇の意向を実現すべく江戸に向かったのが、側近の中山愛親正親町公明の二名です。二人は老中の松平定信と激しくやり合いますが、天皇の意向は拒絶された上、二人は幕府から謹慎蟄居に処罰されたのです。その後の展開は貴嶺会の情報と「先祖は御所のウォーリアーズ」記事を参照すると次のようになりそうです。

処罰された二人は憤激しますが、この二人以上に憤激したのが光格天皇でした。三者の絆は深まり討幕運動へと走り出します。1794年光格天皇から密かに尊皇討幕の内勅が降ろされたのです。中山愛親たちは討幕の志士を募るべく奔走します。しかしこの動きを幕府側も見逃すはずもなく厳しい追求を受けます。この事態に1809年中山愛親の息子の中山忠尹は全責任を負い自害し事態を収拾させます。1864年の忠伊の自害の55年前に忠尹が自害していたのです。


編集者註:貴嶺会の中山家関連系図によると、忠伊は光格天皇の実子で忠頼の養子、その忠伊の実子(光格天皇の孫)の一人が慶子で忠能の養子。

討幕に殉じ自害した忠尹のことを重く見ていた光格天皇は、忠尹の息子忠頼に自らの皇子を養子に迎えるよう依願します。こうして中山家の養子に入った皇子が中山忠伊です。1820年改めて内勅が下され、討幕の地下組織天忠党が結成され、忠伊がその総督になったようなのです。

一方、正親町公明への処遇ですが、公明の息子の娘が光格天皇の後を継いだ仁孝天皇の典侍に入り、仁孝天皇との皇子をもうけます。この皇子が後の孝明天皇です。つまり江戸で尊号問題を戦った中山愛親の家系に光格天皇の皇子が入り、正親町公明は孝明天皇の母方の曽祖父となっているのです。


王政復古の意味 〜攘夷は目的ではなく手段


光格天皇にはただならぬ思いがあったのは確実です。何しろ中山家は中級公家でしたが禄高はたかが200石、それで朝廷に出仕し、従者も雇わねばならないので生活はカツカツの貧乏公家、その中山家に自分の皇子を養子に出してでも、討幕を果たそうとしたのです。その天皇の思いと公家たちの思いが共鳴したと思えます。

中山家を代表にして江戸時代は公家全体が疲弊困窮を極めていたのです。年中抱え込んでいる公家のやり場のない不満と将来への不安、それと光格天皇の思いが合体し討幕運動に繋がったと思えるのです。「このままだと天皇家は代々幕府の意図のもとに篭の中の鳥として“飼い殺し”にされる」との危惧と、「なんとかせねば」との強い思いが光格天皇にあったのではないか?と推察されます。そして中山家の養子となり、最後は自害した皇子の忠伊の覚悟も凄まじいものがあったと思えるのです。

さて、ここで留意すべき点があります。明治維新の掛け声になったのが「尊皇攘夷」です。一方①光格天皇が密かに降ろした討幕内勅は1794年光格天皇の意思で忠伊が総督となり天忠党が結成されたのは1820年①②それぞれ1853年のペリーの浦和来航のはるか前です。

そして内勅の内容は「尊皇倒幕」なのであって、そこには外国勢力を武力で排する「攘夷」は入っていないのです。つまり光格天皇と天忠党の本来の目的は「討幕」なのです。

「攘夷」は後付になった討幕のための手段なのであって、目的ではありません。外国勢力に武力攻撃を加えることは外国勢力に口実を与え、外国勢力による日本への武力攻撃を呼び込むことになります。そして事実そうなったのです。

光格天皇、そして天忠党が目標としたであろうモデルがあります。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇が全権を掌握し将軍などに号令をかけた建武の新政(中興)です。

建武の新政を行なった後醍醐天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]

明治維新は「王政復古」と称されます。ところが復古される「王政」は建武の新政(中興)以外には見当たりません。王政復古とは建武の新政(中興)の再来を見たものなのです。建武の新政(中興)を目標としたからこそ、明治になりその建武の新政(中興)成立に尽くした楠木正成などが改めて大英雄となり、神として祀られるようになったのです。


日本 明治編)第2話で見たように、「建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。」(「ウィキペディア」)という建武中興十五社が維新早々、次々と建設された理由はここに求められるでしょう。

光格天皇は北朝天皇でしたが、討幕と天皇による統治を目指したが故に南朝天皇であった後醍醐天皇の建武の新政(中興)をそのモデルとしたと見受けられるのです。



Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.