天忠党組織図が示す意味 〜天忠党総督が大日本皇道立教会会長に
天忠党は討幕を目的とした軍隊組織であったので、徳川幕府政権下では必然的に地下組織にならざるを得ません。天忠党が地下の闇組織であったがゆえに、貴嶺会が出している組織図に示されるような天忠党組織は実在していたのか? またその総督の中山忠伊が光格天皇の皇子とされているが本当か? この2点に疑問を持つのも自然かも知れません。
しかし天忠党の後継組織となった大日本皇道立教会は、父の中山忠伊から天忠党総督を継承した中山忠英(秀)を会長に冠した組織であり、表に出ている組織です。
明治44年に組織された大日本皇道立教会は、明治の元勲で元首相の大隈重信らを押さえて全く無名の中山忠英が会長になっており、天忠党が存在していなかったら大日本皇道立教会も組織されなかったのは当然で、また全く無名の中山忠英がその会長に就任しているのは、彼が光格天皇の孫であることの傍証になってもいます。
貴嶺会の天忠党図で「諸国同士」とされ同盟関係にあったのが徳川斉昭、島津斉彬、坂上一族でした。総督の中山忠伊は彼らを同盟者として持ち上げてはいたでしょうが、少なくとも対等か、それ以上の関係にあったでしょう。
中山家そのものは羽林家の中級公家で禄高は200石です。それに対して島津斉彬などは実禄は100万石を超えると推定された大大名です。中山家と島津家の禄高など比較もお話にもなりません。それがなぜ対等以上の関係となっていたのか? 中山忠伊が光格天皇の皇子であったからこそ、徳川斉昭や島津斉彬ら同盟者と対等以上の関係が結べていたと見るしかないです。
それだけではありません。朝廷内部の秘密組織であった天忠党の本部の関係を見ると、中山一族の後ろに前関白の近衛忠煕とあります。朝廷は言うまでもなく序列を非常に厳密に重視します。格上の人物の前に格下の人物が記されることはありません。ところが朝廷の最高職である関白を勤めた近衛忠煕の前に中山一族の名が記されているのです。近衛家は公家最高の五摂家の筆頭でもあり、羽林家の中山家が先に記されるのは本来ありえないのです。
また、近衛忠煕の後には内大臣の西園寺寛季、三条実万とあります。近衛忠煕以下のところは序列通りです。西園寺家は五摂家に次ぐ清華家、三条実万は七卿落ち筆頭の三条実美の父ですが三条家も清華家です。五摂家や清華家の前に羽林家の中山家が上座に記される不思議。朝廷で最高職の関白の上位にあるのは唯一、天皇のみです。
@yamanowan 明治政府の華族編
— アベルト・デスラー総統 (@AbertDesler) 2015年2月16日
公爵→摂関5家+徳川将軍家
侯爵→清華家+大臣家+御三家
伯爵→羽林家+名家+御三卿+親藩+外様大身+譜代雄藩
子爵→半家+一般大名
男爵→最上級旗本+一部の大名の重臣+功労者
天忠党組織内で近衛忠煕の上座に中山一族があるのは、「光格天皇の意思で天忠党は作られ、その天忠党総督が中山家の養子に入った光格天皇の皇子であるから」。これ以外では事実の説明がつかないのです。
改めてですが、討幕を目的とし光格天皇の皇子がその総督になっていたこの天忠党は実在したのです。そして天忠党が明治からの国家体制を作っていったのでもあります。
秘密結社八咫烏がミカドのクニを 〜陰陽道とはカバラ(迦波羅)
国家神道の象徴の靖国神社は東京招魂社がその前身でした。日本 明治編)第1話で見たように国家神道、軍国大日本帝国を創出していく源流が日本全国に建設された「招魂社」です。
この招魂社のルーツは長州の桜山招魂“場”ではありましたが、招魂“社”の第1号は京都霊山官祭招魂社です。ここが国公立の国家事業としての招魂社建設の始まりです。さて、その霊山招魂社の祭神はどうか…? 次のようにあります。
神4-1.京都東山『京都霊山(りょうぜん)護国神社』へ。幕末、各藩が東山霊山に殉難者を祀ったのが起源です。明治元年の太政官布告で日本初の官祭招魂社になりました。その後、各藩は社殿を建設し、明治10年には皇室から巨費が下賜され、神域が整備されます。境内に入ると空気が変わり厳かな感じです😆 pic.twitter.com/eWouNfRCdM
— honopaka (@honopaka) 2018年5月13日
官祭招魂社第1号の霊山招魂祭の祭神の筆頭は「天誅組主将」中山忠光なのです。その後は久坂玄瑞、入江九市、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、宮部鼎蔵、真木和泉守等と、貴嶺会の天忠党図に下部組織の人名として載せられている人物がずらりと並びます。ここに記される他の人物「梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、月照信海」なども全て天忠党に所属していたでしょう。
もう明らかでしょう。国家事業として日本全国に招魂社を建設して国家神道と軍国日本を導いたのが天忠党なのです。いやもう少し正確には天忠党が所属していた八咫烏がミカドのクニ、大日本帝国を作っていったと見るべきなのです。
招魂社が行うのは戦死者(鬼神)への招魂祭でした。死者(鬼神)への招魂祭、これは平安期から天皇によって禁止された呪術でした。それを明治天皇が復活させたのですが、この呪術は陰陽道の裏技であり、黒魔術の要素が強いものだったはずです。
靖国神社は元の名を招魂社という。招魂というのは死んだ魂で、この世にしがみついて輪廻転生の輪に入らずさまよっているものを呼び出して利用する呪術で神道では絶対にやってはならないわざ。兵隊に「死んだら靖国にいく」と教え込み、その未成仏霊を集めたはずなんだ。呪術に使うために。
— 雅 羊々 (@miyabi_yoyo) 2016年12月29日
ウィキペディアで「八咫烏(結社)」と検索すれば、冒頭「八咫烏(やたがらす)とは古代氏族の賀茂氏の一部が日本における神道、陰陽道、宮中祭祀を裏で仕切っているとされる組織。正式名称は八咫烏陰陽道」とあります。つまり秘密結社八咫烏は陰陽道の使い手の霊能の宗教集団なのです。
神道には裏と表があり、表の神道を統括するのが伊勢神宮で裏の神道を統括するのが賀茂神社とされ、裏神道の中身とは陰陽道だったのです。また陰陽道にも裏と表があり、表の陰陽道の使い手を陰陽師、裏の陰陽道を迦波羅といい、その使い手を漢波羅と呼称するようです。
八咫烏は漢波羅、つまりカバリストです。陰陽道は中国大陸から朝鮮半島を経て日本に入りましたが、そのルーツはユダヤ秘教カバラにあるのです。八咫烏はカバラを携え日本に渡来した古代イスラエルの末裔なのです。
南朝を正統とする八咫烏 〜光格天皇の破格の行動
秘密結社八咫烏は霊能集団で直接には政治に関わらないが、彼らの政治部門組織となったのが天忠党だったのです。八咫烏は天忠党を用いて明治維新を果たし、同時に日本全国に招魂社を設立させて、明治からの国家体制を作っていったと見て取れます。
この天忠党の後継組織の大日本皇道立教会は、ウィキペディア記事に「南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元で、1911年に創立された」とあります。つまり八咫烏は南朝を正統とし、それを皇道として日本国民に教育を行ってきたということでしょう。
@meets_tak
— きまぐれ (@meets_tak) 2014年2月5日
中山忠英(父親は中山忠伊卿)が初代会長に就任し、大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族により構成されている。後には児玉誉士夫も加入。後に、大日本皇道立教会の会員のうち、創価教育学会の創立にかかわるものがいた。
[竹下雅敏氏]天忠党の後継団体「大日本皇道立教会」 〜堀川辰吉郎に仕え守護する政治的秘密結社〜 https://t.co/dmfSup21Fl pic.twitter.com/vePj5JyuWW
— 森川 明美 (@coco_v10) 2016年3月30日
八咫烏は南朝と非常に密接というか、明治編ではその詳細を見る余裕はないながら、端的には渡来集団の八咫烏が南朝を創設したともいえそうなのです。
さて、天忠党は八咫烏に所属する組織なので南朝を正統としていたのは分かるのですが、ところがこの組織をその意思で立ち上げたのは、北朝天皇のはずの光格天皇であったことは既に見た通りです。光格天皇は自らの皇子を養子に出して八咫烏に所属する天忠党の総督とし、討幕と天皇による統治を目指したのです。南朝となる後醍醐天皇の建武の新政をモデルとしたのです。
天皇にとり血筋は文字通りの命脈です。南朝と北朝がそれぞれが「自分の血脈が天皇の正統」とする主張は互いに相容れず対立関係にあるはずなのです。ところが北朝の光格天皇が、南朝を正統で皇道とする八咫烏所属の政治組織を立ち上げたのです。これは全く理解に苦しむ部分ではあるのです。
しかし、その北朝の光格天皇と南朝の中核勢力の秘密結社八咫烏がタッグを組み、討幕運動を展開したのは厳然たる事実です。そして光格天皇と八咫烏が非常に密接な関係にあったのも事実です。光格天皇は1799年、役小角の1100年遠忌に「神変大菩薩」の諡号を贈っています。しかもその「勅書は全文、光格天皇の真筆による」(ウィキペディア「役小角」)とのこと。これは破格の扱いで、大変な崇拝ぶりを表したとも言えます。
【滋賀・石馬寺/役行者及二鬼像(鎌倉)】像高112cm。修験道の祖と仰がれる役行者と従侍する前鬼と後鬼の像。現状は彩色下地の古色となっている。顔の皺や痩せた身体を筋肉で表現している。この像容では国内最古の遺例。 pic.twitter.com/4Ab7E7LfLB
— 美しい日本の仏像 (@j_butsuzo) 2014年11月28日
役小角は「前鬼・後鬼」つまり鬼神を使役した修験道の超人として知られていますが、「八咫烏(結社)」のウィキペディア記事に「八咫烏は下鴨神社境内にある糺の森河合神社を仮本宗と位置づけており、 組織内では八咫烏神、賀茂建角身命、秦伊呂具、役小角、聖武天皇、八咫烏開祖の吉備真備を祭神として奉っている」とある通りです。
役小角は八咫烏の神なのです。遅くとも1799年には光格天皇と八咫烏はタッグを組み討幕運動を展開していたのです。
明治維新の主題は天皇の統治でもあります。天皇にとってはその血筋・血統が命脈です。天皇は日本最高の大神官です。日本全国で先祖が祀られており、原則として祀るのは先祖の血筋・子孫です。神官とは祀るその先祖神の血統をひくものなのです。
「皇祖神であり日本の総氏神」が天照大御神とされます。皇祖神なので天照皇大神とも記されます。天皇は神武天皇以来男系で血筋が保たれ、その血統は天照皇大神まで遡ります。先祖神、皇祖神の天照皇大神の血筋を引くから大神官の天皇が成立するのです。
逆に皇祖神の血筋を引いていないと天皇の資格なしなのです。正統な天皇との主張は祖神の血筋を引いているということです。南朝と北朝のそれぞれが「自分たちこそが正統の天皇」との主張とは、「自分たちは祖神の血筋であり、相手はその血筋を引いていない」との主張になるでしょう。これは決して互いに相容れることはないので、南朝と北朝は敵同士にならざるを得ないのです。
さて、これまで見てきたように明治維新の中核組織が天忠党でした。天忠党は実は秘密結社八咫烏に所属し、南朝を正統とする政治組織です。南朝勢力になりますから北朝とは敵対組織に当然なるはずです。ところが、この天忠党をその意思で組織として立ち上げたのは北朝天皇の光格天皇です。北朝天皇と天忠党が所属する八咫烏は本来的に敵同士になる関係です。しかし王政復古を実現させるために北朝の光格天皇と八咫烏は手を結んでいたのです。