ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝77 ― イラン-イスラム革命

 世界有数の産油国であるイラン共和国、イランはその中央銀行がロスチャイルド支配ではないごく希少な国家の一つとされます。国家が中央銀行の金融支配下にない真の独立国といえるでしょう。それでは、イランは昔から独立国家であり続けていたのか?というとそうではないのです。イランが独立国として現在に至っているのは、やはり1979年の「イラン-イスラム革命」からの影響が大だということになるのでしょう。革命前のイランの王朝はパフラヴィー朝でしたが、この王朝は英米欧州の傀儡王朝ともいうべきものだったのです。
 イランの地域、イラン高原の歴史は、紀元前3000年頃には言語を有するエラム文明が成立しているように非常に古くからのもので、長くペルシャとも呼び習わされてきました。そのイランもやがて欧州列強の攻撃にさらされ、1900年代はイランにてイギリスとロシア(ソ連)の勢力争いが続き、概ねイランはイギリス支配が強かったようです。1908年のイランにとっての最重要の資源である石油の発見も英国によるものでした。革命前のパフラヴィー朝2代目皇帝モハンマド・レザー・シャーの時代もイランに豊富に湧き出る石油、その利権はメジャーズ(国際石油資本)に独占されていたのです。この当時のイランの中央銀行がどうだったかは分かりませんが、国家王朝自体が傀儡状態だったので推して知るべしでしょう。
 このイランが、イラン革命後には石油は国有化され、中央銀行も欧米の支配を逃れているのです。イラン革命は民衆によるものとされ、こうなれば世界権力をはねのけた画期的なものといえるでしょう。しかし、これまで革命で民衆から、つまり下から起こされた革命はほぼ見たことがありません。革命は上から、つまり世界権力の都合によって起こされています。イラン革命は例外だったのか?どうも疑問です。しかしイラン革命より大事なのは、イランの民衆が様々な干渉の連続の中でも独立を維持してきた事実でしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝77 ― イラン-イスラム革命

第2次オイルショックを招いたイラン革命


Author:TomTheHand [CC BY-SA] より抜粋

1973年の第1次オイルショックに続き、1979年に第2次オイルショックが起きました。『世界史の窓』の「第2次石油危機」には以下のようにある通りです。

 1979年のイラン革命の混乱によって、産油国イランの原油生産が激減したために起こった原油不足、価格上昇のこと。イランは当時、サウジアラビアに次ぐ世界2位の産油量があり、その利権はいわゆるメジャーズ(国際石油資本)に独占されていたが、78年から活発化したパフレヴィー国王の王政に反発する民衆蜂起により、79年1月に国王が亡命すると、その保護のもとにあったメジャーズは撤退を余儀なくされ、革命政権は石油国有化を実現させた。
(中略)
 イラン革命によって成立したイラン=イスラーム共和国で実権を握るホメイニは、資源保護を目的に原油生産額を大幅に減らしたため、輸出は一時的に停止するまでになった。またOPECもイランに同調して増産に慎重な姿勢を取ったため、世界的な原油不足となり、1973年の第4次中東戦争の時の第1次石油危機(オイル=ショック)に次ぐ、第2次石油危機といわれることとなった。

上にある通り、国王が亡命し、革命が成功することで成立したイラン=イスラーム共和国。そのイランの指導者であるホメイニは原油生産を大幅に減らし、一時的に原油輸出停止、これにOPECも歩調を合わしたために世界的に原油が不足し、第2次オイルショックが生じたということになります。

このように第2次オイルショックを招いたのがイラン革命とされますが、その「イラン革命」とはどのようなものであったのか?イラン革命」のウィキペディア記事の冒頭では次のようにあります。

イランのパフラヴィー朝において1978年1月に始まった革命である。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とするイスラム教勢力が、パフラヴィー朝イランの第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーの親欧米専制に反対して、政権を奪取した事件を中心とする政治的・社会的変動を指す。イスラム共和主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。

イランに帰国したホメイニ師
Wikimedia Commons [Public Domain]


一般的にごく簡単には、「イラン革命」とは次のような構図になりそうです。

  • 西洋かぶれで専制政治をひき、イスラムの伝統と文化を破壊していったイラン国王。
  • このイラン国王は第1次オイルショックにて手にしたオイルマネーも民衆に回すこともなく、ほとんど思い通りに利益を独占。
  • こういったイラン国王の悪王ぶりにイランの民衆の不満と怒りは溜まっていた。そこでホメイニ師を指導者とするイスラム勢力と一体になって革命を起こして、イラン国王をイランから追い出した。
  • 革命にて成立したイラン=イスラーム共和国は再びイスラム教中心の国家となり、石油も国有化された。

モハンマド・レザー・シャー
ホメイニ師
Wikimedia Commons
[Public Domain]

悪王というわけでもなかったイラン国王


民衆がホメイニ師を指導者とするイスラム勢力と一体となって悪王を追い出し、イスラム共和国を成立させたのが「イラン革命」、ウィキペディア記事もその特徴として「第一に、この革命がまったくイランの民衆自身によって成就されたことである」としています。

Wikimedia Commons [Public Domain]

…しかし首をかしげるところがあるのです。このイラン革命の指導者であるホメイニ師は、革命時はフランスに亡命していたのです。イラン革命は反欧米の革命でもあります。ところがその指導者がフランスにいる、そういった状態で民衆のみの蜂起による反欧米の革命など成功させられるものだろうか?との疑問です。

そしてイラン国王、彼はパフラヴィー朝2代目モハンマド・レザー・シャー、日本ではパーレビ国王と呼ばれていましたが、その彼がそう単純な悪王だったのか?という疑問もありました。

このイラン国王とイラン革命について、2015/07/17の時事ブログで取り上げた動画にて、原田武夫氏が以下のように語っています。

この王様がですね、非常に西側の路線をとっていたんですけど、ところがある時からアメリカに対して、或は西側諸国に対して、どうもいろいろ楯突きはじめたんですよね。で、どうも風向きが…という感じになった時にですね、これはその当時、1970年代、とりわけイランではですね、覚せい剤の問題ですね、麻薬の問題というのが非常に表面化しまして、これをパフラヴィー朝が、レザー・シャーがこれを抑えようとした。

ところがそれに対してですね、それをまさに強化しようとした瞬間になぜかこのイラン・イスラム革命というのが起こるわけであります。パフラヴィー朝のレザー・シャーは、その後、結局自分は西側社会に対して非常に親和的なように見えたけども、国を守るために措置をとり始めた瞬間に自分は排除されたんだというように後々言っていたわけであります。

ホメイニ師のこともありますが、イラン国王もそう単純に悪王とは断ぜないようなのです。

イランは非常に古い文明成立の地域で、長くペルシャと呼ばれていました。この地域は第1次世界大戦中は英国軍とロシア軍によって占領されたりしています。そのような中1925年、レザー・シャーがパフラヴィー朝を開き統治、これには英国の秘密裏の援助があったとされます。そのレザー・シャーも1941年9月に「イギリスによってレザー・シャーが強制的に退位させられ、その子モハンマド・レザー・シャーが後を継いだ」(ウィキペディア「イランの歴史」)とされます。

イギリスによって帝位につかされたイラン国王が親欧米政治となるのは必然です。専制政治もバックには英米があったでしょう。そのイラン国王がようやく独自に国益のため、特に麻薬対策を本格化させたと同時に「イラン革命」が動き始めたというのです。これにはその革命のバックに、イギリス情報局の関与を臭わずにおられません。


イラン革命は英米の思惑を外した?


ホメイニ師も原田氏の分析によれば「イギリス人とインド人の間に生まれた子」とのことでしたから、ここでもより一層イラン革命へのイギリス情報局の関与が疑われるわけです。そして実際にイラン革命から生まれた第2次オイルショックによる石油価格の暴騰、これによってペトロダラー・システムはそのシステム強化がなされ、それに関わる者たちは暴利を得たはずです。

それと定かではありませんが、イギリス情報局がイラン革命に関与したとすればその目的の一つは、「未来戦争計画書」の「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」、これを準備したものであるような気もします。

ただし、イラン革命にイギリス情報局・英米が関与したとしても、そのイラン革命からの展開は、彼らの思惑に則ったものになったとは思えません。イラン革命からの展開が彼らの思惑通りにはいかなかったのだとすれば、その最大の要素とは、英米の連中が思っていた以上にイランの民衆の民意・民度が高かったことだと思われます。イラン民衆の自立心の高さです。

ともあれ、イラン・イスラム革命はその後の世界の歴史に大きな影響を及ぼします。まずは表に出ている公的なものとしては、イラン共和国と米国との関係悪化です。イラン元国王モハンマド・レザー・シャーが1979年10月に米国に入国、これに反発したイランでは反米デモが繰り広げられ、11月には「アメリカ大使館人質事件」が起こります。「アメリカ大使館人質事件」は別のドラマを生みますが、これを受けて米国は1980年4月にイランとの国交を断絶し、経済制裁を課しました。

人質となったアメリカ大使館員ら
Wikimedia Commons [Public Domain]

そして、イスラム革命は周辺国にも影響を与え、その影響を懸念したソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻。またイスラム革命が広まるのを懸念した米国はサダム・フセインのイラクを援助し、1980年にはイラクがイランに侵攻し、8年間にもおよぶ「イラン・イラク戦争」が勃発しました。

更にはこの「イラン・イラク戦争」の1980年代には、米国の背信を世界に知らせるイラン・コントラ事件が発覚しています。この事件で米国の背信を知ったのがサダム・フセインであり、これが後の湾岸戦争にも繋がっていくのでした。

Wikimedia Commons [Public Domain]


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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