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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第59話 ― ロッキード事件概略
反田中の「クリーン三木」
1974(昭和49)年11月、田中角栄首相が辞意表明。同年12月、自民党内の反田中首相派筆頭である三木武夫政権成立。1972年7月成立の田中政権は約2年半の政権でした。
田中首相が辞任となった原因は、公共工事予定地を事前に買って高値で売り抜けた「金脈問題」で、月刊誌『文藝春秋』の1974年11月号に、立花隆の「田中角栄研究」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」が掲載されます。これを日本外国特派員協会にて外国人記者が徹底的に質問し、日本の大手メディアもこれを問題に大きく報じ、世間の騒ぎと批判となったのでした。田中バッシング・田中降ろしの始まりでした。
もっともウィキペディアの「田中金脈問題」記事では「文藝春秋の2つの特集について、大手メディアの政治部記者たちは『そのくらいのことは皆知っている』と語っていた。」ともあり、この当時「田中金脈問題」は「業界では常識」程度のものだったようです。しかし、海外メディアから日本の大手メディアも大きく動かす力が働いていたということでしょう。
「田中金脈問題」につながる田中首相の考え方と政治手法について、『戦後史の正体』p261~262には次のようにあります。
田中首相の出身地は新潟県です。1970年代、東京など都会は高度成長経済でうるおいました。しかし、地方都市はとり残されました。地方を都市と同じように成長させていかなければならないというのが田中首相の考えです。
そこで「日本列島改造計画」により、「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」ことを提唱していました。交通網の大規模な建設と整備を行なうのですから、大変な資金が動き、利権が生まれます。これは田中首相の代名詞ともいわれる政治手法、つまり「金権政治」の延長線上に生まれた政策でもありました。
そこで「日本列島改造計画」により、「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」ことを提唱していました。交通網の大規模な建設と整備を行なうのですから、大変な資金が動き、利権が生まれます。これは田中首相の代名詞ともいわれる政治手法、つまり「金権政治」の延長線上に生まれた政策でもありました。
当時において、地方の経済成長は必然的に利権とセットになっており、田中首相もそれはよく知った上で「金権政治」を振るって、地方・農山漁村の興隆の実現をしようとしたようです。
この田中首相の「金権政治」と対極にあるとされ、メディアから「クリーン三木」と囃し立てられたのが、田中首相と交代した三木武夫首相でした。三木武夫首相については第56話で少し取り上げています。当時、対米自立路線を鮮明にした岸政権を潰しに動いた自民党内勢力が、池田勇人、河野一郎、三木武夫だということでした。
『戦後史の正体』p269には次のようにあります。
ここで三木氏と米国の関係に言及しておきたいと思います。三木は戦前および占領時代に、米国と特別の関係をもっています。戦前、明治大学専門部の卒業後、南カリフォルニア大学に入学しています。1940年ごろには、「日米同士会」を結成し、対米戦争反対の論陣を張っています。
占領時代はもっとすごいのです。なんと、マッカーサーから首相にならないかという誘いをうけているのです。
占領時代はもっとすごいのです。なんと、マッカーサーから首相にならないかという誘いをうけているのです。
(中略)
芦田首相退陣時も、田中首相退陣時も、三木氏は「首相にならないか」といわれているのです。要するに、三木首相は自民党内の米国の手駒ということでしょう。
フォード政権のふるまい
田中首相退陣のこの1974年は、8月にウォーターゲート事件でニクソン大統領が中途辞任に追い込まれています。ウォーターゲート事件はホワイトハウス中枢、キッシンジャーとヘイグが仕組んだ一大クーデターであったことを外伝74で見ています。この事件でも、ワシントン・ポストを筆頭とするメディアが大きな役割を果たしていました。
田中政権退陣も大きな役割を果たしたのがメディアで、これに反田中の国会議員が足並みをそろえ、「米国・新聞・政界がいっしょになって動く構図」と『戦後史の正体』p264で孫崎享氏は評しています。
田中攻撃は首相退陣後も続きます。田中元首相は退陣後も多くの田中派議員をかかえ、その勢力は隠然たるものだったのです。その中、1976年2月に航空機売り込みの際に贈収賄があったとされるロッキード事件が発覚。田中氏は同年7月に受託収賄などの疑いで逮捕されることになります。
事件が発覚する切っ掛けは、アメリカ上院の多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)へ送られてきた資料。それもこの資料は誤送されたものだというのですから尋常ではありません。この誤送された資料をもとに公聴会が行われ、明るみに出たロッキード社による国際的な買収事件で、田中元首相の関与がささやかれるようになったのです。
しかしその裏付けの証拠はなく、米国もロッキード社から賄賂を受け取った日本政府関係者を公表しないとします。ところが、ここからの三木首相の動きが過去にない異例なものだったようです。『戦後史の正体』p267~269に、次のような内容が記載されています。
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1975年2月23日、衆議院本会議で「いわゆる政府高官名を含むいっさいの未公開資料を提供されるよう米国に特別の配慮を要請する」という決議。三木首相は直接フォード大統領に要請すると発言、ただちに親書を書き米政府に。
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3月12日、フォード大統領からの返書。
「情報を貴国政府と分かちあうための取り決めを行なう用意がある。(略)米国の捜査・調査機関が有する情報を秘密あつかいのもとに入手することを可能にしよう」
この返書のもと、検察庁は必要な情報を米国から得る。
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ロッキード事件では、米国に頼んで(=嘱託して)の嘱託尋問がおこなわれた。それも日本司法では違法の「司法取引」が米国証言者(コーチャン:ロッキード社副会長)に採用された。
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日本の検察官が米国に行き、嘱託尋問を行ない、その証拠で田中元首相は有罪に。
三木首相の日本政府とフォード大統領の米政府が一体となって、田中首相を葬る様子がうかがえます。
米国の情報を日本の検察庁などが入手できるようになったのは、公的にはフォード大統領の返書によるのですが、それに至る重要な動きがウィキペディアの「ロッキード事件」で、
三木は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日にヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。アメリカ政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した。
とあります。
ロッキード事件の背後の流れ
ウィキペディアの「ロッキード事件」の記述から分かるように、ロッキード事件もキッシンジャーが操縦したと見るのが自然です。そして、キッシンジャーの背後にはディヴィッド・ロックフェラーの存在があるのはすでに言及してきた通りです。冒頭文にて、2017.12.31の『櫻井ジャーナル』の記載で、ウォーターゲート事件後は米国中枢をロックフェラーの戦争屋グループ、ネオコン、ナチスで完全に埋められる様子を見ましたが、ここでは以下の記載もあります。
このロッキードによる賄賂工作の暴露はジョン・マックロイの調査から始まっている。アンゴラで革命が起こった後、アメリカ支配層は「制裁」に出るのだが、それを無視する形でガルフ石油はビジネスを継続しようとし、それに怒った支配層の意向でマックロイは動いたと言われている。その延長線上にロッキード事件もあるというのだ。このマックロイはウォール街の大物で、第2次世界大戦後、世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官を務め、高等弁務官時代にはナチスの大物を守ったことでも知られている。
(中略)
ロッキード事件の背後では、少なくともウォール街、CIA、ナチス、サウジアラビアが蠢いている。出ました。ジョン・マックロイです。外伝73で見たように、彼はケネディ暗殺の公式見解を出した「ウォーレン委員会」の主と目されます。デイヴィッド・ロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行会長と外交問題評議会(CFR)の議長の前任者でもあります。デイヴィッド・ロックフェラーの後見人とも言うべき人物です。そのマックロイがロッキード事件の発端にあったというのです。
ロッキード事件で田中元首相を葬るのに異例で、重要な役割を果たしたフォード大統領自体も「ウォーレン委員会」のメンバーでした。つまり闇側の手駒です。そしてここに出てくる「ウォール街、CIA、ナチス、サウジアラビア」、これらは全てパクス・アメリカーナを進捗の仲間たちです。つまりは、ロッキード事件は米国を中心としたNWOの一環として引き起こされたと見るのが妥当なのです。
1973年のチリ・クーデターもそうです。こういった事変を通して、ロックフェラーの米国戦争屋グループ、ネオコン、ナチスが台頭していき、ペトロダラー・システムと併せて世界を席巻していくのです。2017.12.31の『櫻井ジャーナル』の次の記載は重要です。