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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第56話 ― 占領下の“独立日本”4
高度経済成長の時代へ
岸政権の崩壊に伴い、日本の英米からの自主独立の動きは表立っては消失しました。1960年、岸政権と交代・成立したのが池田勇人首相の池田政権です。
第1次池田内閣(1960年7月)
Wikimedia Commons [Public Domain]
『戦後史の正体』p198では、池田勇人は河野一郎、後の首相となる三木武夫とともに岸政権つぶしに動いていたとの見解を示し、p219では、池田政権誕生は米国の意向を踏まえたものだったと指摘されています。自民党内の「米従・打倒岸」グループとなるのでしょう。
日米安保・行政協定(地位協定)の検討を棚上げにした池田政権が掲げたのが、日本人の「所得倍増計画」でした。そして、それは現実に実現していくのです。既に1950年代半ばから経済成長の波にのっていた日本経済は、60年代に本格的な高度経済成長の時代を迎えていくのです。日本は米国からの独立を模索する時代から「経済的豊かさ」の時代へと移行していったのです。
ウィキペディアの「1960年代の日本」記事の「経済」には、以下にあるとおりです。
1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に向けて国を挙げて進められた大規模なインフラ整備などによる『オリンピック景気』や1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月にかけて57か月間続いた『いざなぎ景気』と呼ばれる戦後最長(当時)の好景気により、日本経済が飛躍的に成長を遂げる「高度経済成長」の最盛期となった。
孫崎享氏は、この時代の日本を支えたのがエドウィン・O・ライシャワー駐日アメリカ大使だったと『戦後史の正体』の中で語っています。
安保闘争で危機におちいった日米関係は、池田首相とライシャワー大使のもとで黄金期をむかえます。ライシャワーは日本人の言葉に誠実に耳をかたむけようとした米国大使でした(p222)
ライシャワー大使の「イコール・パートナーシップ」にはふたつの意味がありました。ひとつは米国に対して「占領軍のメンタリティをとりのぞくこと」を求めるという意味でした。
(中略)
もうひとつは、日本人に対して「イコール・パートナーシップという気概をもて」という激励の意味です。(中略)
ライシャワーの特徴は、「自分がもし日本人の立場だったら米国にどう要求するか」と考え、それが公平であれば、大使として実現のためにつとめたということではないかと思います。(p226)
といった具合です。
孫崎氏のライシャワー駐日大使が米国・米駐留軍に「占領軍のメンタリティをとりのぞくこと」を求めたという記載は、米駐日大使の日本での役割を思えば驚きです。
エドウィン・O・ライシャワー
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そして実際に、ライシャワー大使の写真を眺めてみれば、彼が相当にまともな人物であったように感じ取れます。高圧的で命令支配する米駐日大使ではなく、日本人の声に誠実に耳を傾ける米駐日大使であったという孫崎氏のライシャワー大使への評価は、これはこれで実際にそうであったように思えます。
異彩を放ったライシャワー大使
孫崎氏はライシャワー大使に対して、「彼が大使をつとめた60年代前半は、長い日米関係の歴史のなかでも異彩をはなっています」とも語っていますが、これもそのとおりでしょう。端的には、戦後日本を支配したのはCIAであり、その日本支配の司令塔がおおむねは米駐日大使となっているはずなのです。
そのような中で、ライシャワー大使のみが他の駐日大使とは異なった異彩を放っていたのはなぜか?
先ずライシャワー大使の沿革ですが、彼の赴任機関は1961年から66年まで、彼は東京の生まれ育ちで、妻は明治の元勲の松方正義の孫であるハルということです。
松方ハル・ライシャワー夫妻
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ライシャワー大使は、J・F・ケネディ大統領からの大使就任要請を受諾して米駐日大使となっているのです。ケネディ大統領の要請を受けて駐日大使となっているのがミソでしょう。
そして、孫崎氏はライシャワー大使の最大功績として日米関係の改善を上げますが、それ以外には沖縄返還の糸口を作ったと指摘した上で、沖縄返還に関連してp229〜230に以下の記述をしています。
ライシャワー大使がもっとも頼りにしたのはロバート・ケネディです。彼はケネディ大統領の弟で司法長官でした。1962年1月に来日し、早稲田大学の大隈講堂でも講演を行なっています。ライシャワーはこのときずっとロバート・ケネディと行動を共にし、緊密な個人的関係を築くことに成功したのです。
ライシャワー大使は、このロバート・ケネディの来日時に、沖縄返還を提言しました。その後もロバート・ケネディと密接な連絡をとりつづけ、その兄であるケネディ大統領とのあいだにもパイプが生まれます。ライシャワー大使はワシントンに一時帰国するときにはつねにケネディ大統領とロバート・ケネディのもとを訪れ、また、国防省も訪れて協議しています。
ライシャワー大使は、このロバート・ケネディの来日時に、沖縄返還を提言しました。その後もロバート・ケネディと密接な連絡をとりつづけ、その兄であるケネディ大統領とのあいだにもパイプが生まれます。ライシャワー大使はワシントンに一時帰国するときにはつねにケネディ大統領とロバート・ケネディのもとを訪れ、また、国防省も訪れて協議しています。
ライシャワー大使は、ケネディ兄弟と非常に密接な関係になっていたようなのです。
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ケネディ兄弟が、イギリス情報機関の米国での実働部隊であるCIAと全米犯罪シンジケートを潰そうとし、更にイスラエルと中国の核武装を潰そうとしていたこと。
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それでケネディ大統領は、イギリス情報機関を頭とする暗殺局(パーミンデクス)によって1963年に暗殺された。
そして外伝66を参照いただきたいのですが、ケネディ兄弟には「①地球上での核兵器の乱開発の防止。②ET情報の開示。これによって地球を“調和ある進歩”を遂げていくことができるように助力できる」、このように提言していた宇宙人ヴァリアント・ソーが応援していました。
要するに、ケネディ兄弟はカバールたちと敵対しており、そのケネディ兄弟と密接だったライシャワー大使も他の駐日大使とは完全に一線を画していたということでしょう。
このことは同時に、ケネディ大統領暗殺によってライシャワー大使にも危機が訪れることを意味するでしょう。ライシャワー大使はケネディ大統領暗殺で職を辞そうと考えますが、思いとどまり職務を続行しました。そして果たして1964年に、ライシャワー大使は暴漢にナイフで襲われ重傷をおっています。
日本の精神医療に大きな影響を与えたライシャワー事件 - はてな村定点観測所 https://t.co/T5hl5ngxca pic.twitter.com/75yyO36QO5
— はてな新着RSS (@hatenanew) July 16, 2017
「はてな村定点観測所」記事のリンク先はこちら
沖縄返還へ
ライシャワー大使の襲撃事件が、ケネディ大統領暗殺と関連があるかどうかは不明です。問題は、重傷で虎の門病院で受けた輸血が売血のもので、ライシャワー大使は肝炎に罹り肝硬変になったことです。「米駐日大使に売血を輸血? 肝炎? わざと?」と、当時の状況はあったとしても、これには奇異な感はぬぐえません。
さて、沖縄返還に話を戻します。ライシャワー大使はケネディ兄弟だけでなく、在日米軍の長、太平洋司令部のフェルト将軍、沖縄のキャラウェイ高等弁務官にも沖縄返還の説得を試み、米国で1966年に合同委員会が設置され、沖縄返還問題の検討が始まることになった。しかし日本側はこの米国サイドの動きを知らず、ライシャワー大使が日本側に接触しても、その指導者の沖縄返還への動きは鈍かったことが『戦後史の正体』p230にあります。
池田内閣の後は1964年から岸信介の弟である佐藤栄作が政権を担っていましたが、
佐藤栄作首相は大変に慎重で、返還の要請を口にしようとしませんでした。保守派の人びとは米国人の感情をそこなうのをおそれていたのです。岸信介なども非常に慎重でした。
と記しているとおりです。
岸信介は沖縄返還の構想を描いていたが、それでも米国側に具体的に動けなかったのです。大使を辞任した後も、ライシャワー元大使は沖縄返還の動きを続け、日本側に働きかけたようです。
「そしてついに佐藤栄作氏が要求をしてみる気になりました。でも、それはやれるし、やらねばならないといことを佐藤氏が飲みこむまでにはとても時間がかかりました」
p231に記載されているライシャワー元大使の言葉です。
1972年5月、佐藤政権下で沖縄返還は成立しました。もちろんその返還された沖縄は米軍の支配地域であり、沖縄返還は形だけの名ばかりのものでした。
The Okinawa Reversion Agreement is signed simultaneously in Tokyo and in Washington DC by U.S. Secretary of State William P. Rogers and Japanese Minister for Foreign Affairs Kiichi Aichi, whereby the U.S. agrees to return control of Okinawa Island to Japan. pic.twitter.com/iJnDQnItK7
— 1972 Live (@50YearsAgoLive) June 17, 2021
しかし、それでもそこへの道をつけたのは日本人ではなくライシャワー元大使で、彼の存在なしには沖縄返還は遠かったのは間違いないでしょう。また、沖縄返還などにも関する米国の態度について、以下のp169の孫崎氏の指摘は留意すべきだと思います。
「アメリカは沖縄を返してくれたのに、ロシア(ソ連)は北方領土を返してくれない。やっぱり嫌な国だ」と思っているかもしれません。(中略)...実は北方領土の北側二島、国後 島、択捉 島というのは、第2次大戦末期に米国がソ連に対し、対日戦争に参加してもらう代償としてあたえた領土なのです。しかもその米国が冷戦の勃発後、今度は国後、択捉のソ連への引き渡しに反対し、わざと「北方領土問題」を解決できないようにしているのです。理由は日本とソ連のあいだに紛争のタネをのこし、友好関係を作らせないためにです。
実はアメリカが軍事支援したソ連の北方4島占領 - 高橋浩祐|WEBRONZA - 朝日新聞社 #スターリン #プロジェクト・フラ #ヤルタ会談 #ヤルタ密約 #北方領土問題 https://t.co/vbe4aMyViw
— 論座 (@webronza) December 16, 2018
朝日新聞社の言論サイト『論座』〜
- 元凶は「ヤルタ密約」
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ソ連の対日参戦を決意させるために、ソ連に特別の軍事支援をすることも約束したアメリカ
- 米ソの極秘作戦「プロジェクト・フラ」
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ソ連の対日参戦が決まった1945年2月のヤルタ会談の直後、米ソが始めた秘密裏の合同作戦
(編集者註:「写真で見る海軍史:プロジェクト・フラ」も参照)
- 4島占領にアメリカからの貸与艦船11隻を投入
- 根室振興局北方領土対策課の手によって判明したプロジェクト・フラの具体的な史実と、同課の調査結果をもとに、2017年12月30日付の朝刊1面のトップ記事で大きく報じた北海道新聞
- 見事なまでのアメリカの二枚舌外交
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戦中はソ連の北方4島占領を軍事支援、戦後は「2島返還でソ連と手を打つな。4島返還を目指せ」と日本を恫喝していたアメリカ
- 握りつぶされた対日参戦の情報
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ソ連に和平仲介を期待する勢力によって「不都合な真実」として握りつぶされた「ヤルタ密約」に関する大本営参謀本部への公電
- スターリンのずる賢さを見抜けなかった日本
(以下会員向けコンテンツ)
そうは思わないのです。
逆に、何もことの事実・真相を知らないままで、世界民衆の自主独立などありえないのです。それぞれが自主独立していくための最初で最大の突破口となるのが、「自分たちは騙され・奪われ続けてきた」、これをはっきりと認識することでしょう。
これは最難関の作業かもしれませんが、これができれば騙され・奪われることはストップします。全ては人間がやってきたことなのです。人間次第で変えられるのです。