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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第58話 ― 田中角栄政権の独自外交
第1次オイルショックへの対応
1973(昭和48年)10月、突如日本をも襲った第1次オイルショック、これに対応したのが当時の田中角栄政権でした。公的というか、表に出ている情報での第1次オイルショックの原因は、アラブ産油国が、第4次中東戦争を機に石油公示価格の引き上げを宣言し、更に中東戦争でのアラブ側の支援のため、親イスラエル政策を採る諸国に対する石油輸出の制限を発表したことによるとされます。これに対する田中政権の対応は以下のようだったとされます。
日本政府(田中角栄内閣)は大きな衝撃を受けた。日本も親イスラエル国家に加えられていたので、禁輸リストにのせられていたのである。そこで政府は急きょ、二階堂官房長官の談話として、イスラエル軍の占領地からの撤退とパレスチナ人の人権への配慮を声明した。これはアメリカのユダヤ系勢力の反発が予想されたが、石油禁輸の事態を避けるためにやむなく踏み切った。また12月には三木武夫副総理を特使としてサウジアラビア、エジプト、シリアなどアラブ諸国に派遣し、禁輸リストからの除外を要請した。これらの外交努力により、日本は結果的には禁輸国リストからはずされた。
(「第1次石油危機/オイル=ショック」『世界史の窓』)
73年12月25日、日本は禁輸国リストから外されたとの報告が入ります。日本にとって中東の石油は生命線ですので、禁輸国リストから外されたことはなんとか日本の命脈を保てたということになるでしょう。ただ一方で、この時の中東の石油に対する田中外交にもキッシンジャーは難癖をつけたようです。
「『その油、米国が回してくれるのか』(田中角栄のふろしき)小長秘書官の証言(20) 」という題の日本経済新聞の2018/4/30の記事で、1973年11月15日に中東からの帰路で日本に立ち寄ったキッシンジャーと田中角栄首相のやり取りが以下のようにあります。田中角栄首相の秘書官の小長氏の証言からは、田中角栄首相の日本を守ろうとする強い覚悟が見て取れます。
キッシンジャーはすぐに切り込んできた。「米国と一緒にイスラエルの味方をしてくれとまでは言わない。ただ、アラブの友好国となりアラブの味方をするのはやめて欲しい」
しかし、角栄がひるむことはなかった。そしてピシャリ。「日本は石油資源の99%を輸入、その80%を中東から輸入している。もし輸入がストップしたらそれを米国が肩代わりをしてくれますか」――。キッシンジャーが一瞬黙る。すかさず角栄が「そうでしょう」。
そのうえで畳みかけた。「アラブにある程度、歩み寄った対応をせざるを得ない、日本の立場を説明するためアラブ主要国に特使を派遣する準備を進めている」。日本はこれまで通り同盟国である米国との友好関係を維持しながら、石油資源については独自の外交を展開せざるを得ないことを毅然として説明したのだった。日中共同声明と資源外交
先の小長秘書官の『田中角栄のふろしき』もそうですが、田中角栄首相とキッシンジャーには深い因縁と確執があったとする多くの情報は事実でしょう。米国外交を一手に仕切っていたのがキッシンジャーであり、それに対して、田中角栄政権は脱米につながる独自外交を展開したのですから、これは自然必然の成り行きです。
コンピュータ付きブルドーザーの異名をもった田中角栄首相の動きはパワフルで迅速でした。田中政権成立が1972年7月、そのわずか2カ月後の9月25日に、田中首相は大平外相と二階堂官房長官とともに国交正常化交渉のために北京へ。会談交渉の相手は周恩来首相。(株)日立総合計画研究所の白井社長コラム第5回では、
4日間にわたる厳しい交渉の末、9月29日に日中共同声明は調印に至ります。当事の日中双方の政治状況を考えれば、周、田中、大平の強い思いとリーダーシップがなければ、この時期の国交正常化は難しかったことでしょう。
と評価していますが、この通りだったでしょう。命がけのものだったのです。
1972年は「もう一つのニクソン・ショック」、2月にニクソン大統領の訪中があったのです。しかし米国側は、このニクソン訪中による表立った成果はあげることはできませんでした。これに対し日中国交正常化をはたした田中首相、キッシンジャーは「ジャップは上前をはねやがった」と罵っていたとされます。
田中首相は、中東の石油をほぼ全てのエネルギー源として依存する日本の現状にも危惧をいだき、独自の資源外交を展開してもいました。『るいネット』の08/04/17「独自の資源外交を展開した田中角栄」記事に、以下にあるような具合です。
田中首相は、1973年頃から、独自の資源外交を展開していた。
まず同年秋、仏、英、西独、ソ連を次々と訪問し、石油、ウラン鉱石、天然ガス等の共同開発について議論している。同年11月には親アラブ政策を打ち出している。翌1974年1月には、ASEAN5カ国を歴訪し、インドネシアとの間で液化天然ガスプラント、石油基地建設の建設協力で合意した。1974年9月には、メキシコ、ブラジル、カナダを訪れ、メキシコ原油の開発、アマゾン開発、西カナダのタールサンド開発について、それぞれ協議している。さらに、その翌月には、ニュージーランドやオーストラリア、ビルマを訪ね、マウイ天然ガス開発やウラン資源の確保について合意している。
まず同年秋、仏、英、西独、ソ連を次々と訪問し、石油、ウラン鉱石、天然ガス等の共同開発について議論している。同年11月には親アラブ政策を打ち出している。翌1974年1月には、ASEAN5カ国を歴訪し、インドネシアとの間で液化天然ガスプラント、石油基地建設の建設協力で合意した。1974年9月には、メキシコ、ブラジル、カナダを訪れ、メキシコ原油の開発、アマゾン開発、西カナダのタールサンド開発について、それぞれ協議している。さらに、その翌月には、ニュージーランドやオーストラリア、ビルマを訪ね、マウイ天然ガス開発やウラン資源の確保について合意している。
ここにある73年(10月)のソ連訪問では北方領土交渉も行われましたが、進展はありませんでした。第56話の最後に孫崎氏の次の言葉を紹介しました。
米国が冷戦の勃発後、今度は国後、択捉のソ連への引き渡しに反対し、わざと「北方領土問題」を解決できないようにしているのです。理由は日本とソ連のあいだに紛争のタネをのこし、友好関係を作らせないためにです。
ここでいう米国とはキッシンジャーです。田中首相と当時のブレジネフ書記長との会談が不調に終わるように、キッシンジャーが動いていたのです。
ともあれ、後に田中首相はロッキード事件で葬られますが、それは田中首相の日中国交正常化を含む独自外交が原因なのです。
OPECの正体
キッシンジャーが田中政権を嫌悪・敵視するようになっていったのは間違いないのです。ただし、第1次オイルショックでの田中外交への嫌味や怒りは、多分にポーズの部分が大だったでしょう。ここでの田中外交は完全に想定内だったはずだからです。
第1次オイルショックはペトロダラー・システム構築のためのもので、それをプランニングしたのはキッシンジャーであり、すでに産油諸国とは話はついていており、それによって日本が取る行動もわかっていたはずなのです。
先に見た、73年11月15日のキッシンジャーの田中首相とのやり取りの中の「米国と一緒にイスラエルの味方をしてくれとまでは言わない。ただ、アラブの友好国となりアラブの味方をするのはやめて欲しい」、この言葉、キッシンジャーは笑いを噛み殺しながら放ったのでは?
第4次中東戦争を含む第1次オイルショックは、単純にイスラエルとアラブ諸国の対立戦争で括られます。しかし、中身はそんな単純なものではありません。この当時すでにアラブ諸国でも、かなりが英米側に寝返っていたはずなのです。特に明確であり、はっきりと認識しなくてはいけないのはサウジアラビアについてです。
第1次オイルショック ➡ ペトロダラー・システム構築、これの中東の主役はサウジアラビアです。 第1次オイルショックとなったOPECの大幅原油値上げ、このOPECの盟主がアラブの盟主を自認するサウジであり、第1次オイルショックはサウジがリードしたのです。そして1974年キッシンジャー訪問でサウジ皇太子と結んだ「ワシントン・リヤド密約」が、ペトロダラー・システム構築となったのです。
このサウジについてですが、2018.04.19 の『櫻井ジャーナル』は「イギリスはサウジアラビアとイスラエルを作り上げた。」と括っています。
この通りです。サウジはイスラム国家とされますが全く違います。イスラムを偽装するユダヤのドンメー国家です。近・現代編 第17・18・19話で見たとおりに、その兄弟国として、イスラエルの建国に先立ち建設されたドンメー国家が、トルコとサウジだったのです。特にサウジは建国以来ずっとサウード・ワハビ家が王として君臨しているので、ドンメー国家として全く変化はしていません。
オスマン帝国を破壊することで建国された国々
Author:Ergovius [CC BY-SA]
Author:The Emirr [CC BY-SA]
ドンメーとは、「背信のメシア」サバタイ・ツヴィ直系の弟子団であり、その中で最凶最大の偽装イスラム改宗団にて、有色の血統ユダヤ人集団です。サウジの建国自体が闇の計画の一環であり、サウジは最初から英米イスラエルとはパートナーの関係で、特にロックフェラー家とは密接なのです。
そのサウジが盟主のOPECが第1次オイルショックを起こした。これは誰のためなのか?すぐ見て取れるでしょう。OPEC諸国自体も暴利を貪ることになるのです。
戦後日本で初めて公的に中国との関係改善に成功したのが田中角栄政権で、日中共同声明を調印したのは1972(昭和47)年9月でした。田中角栄首相は独自外交の米国圧力からの「自主路線」も展開しました。田中角栄首相は裏天皇グループではなかったと思いますが、明らかに米国からの自主独立派でした。現在日本は残存するネオコン勢力に引き回されて、共産中国との戦争が危ぶまれる状態です。戦後の日中関係改善の原点をもう一度見直すべきではあるでしょう。
2014年05月23日の(株)日立総合計画研究所の白井社長コラム第5回が印象に残りました。ここでは、日中国交正常化とは多くの先人の命がけの苦労と努力の結果実現したものであり、その当事者である周恩来首相、田中首相、大平外相たちを「井戸を掘った」人々と表現されています。日中平和友好条約について死の床にあった周恩来首相が、「中国と日本がどのように末永く仲良く国交関係を保っていけるか、この点を規定した条約でなければならない」と語ったとも。
私達も日中双方の「井戸を掘った」人々に思いを馳せることが大切なのでしょう。