————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝74 ― ウォーターゲート事件
嵌められた米国大統領
ニクソン政権は1969年1月から1974年8月まで。リチャード・ニクソンは1971年の2つのニクソン・ショック、1972年の沖縄返還、1973年の第1次オイルショックの米国大統領であった関係もあり、日本人にとっては印象深い米国大統領だったでしょう。それもマイナスイメージのほうが強い大統領として。
ニクソン大統領は、2期目の大統領戦に地すべり的大勝利で1973年に再選したにも関わらず、大統領辞任に追い込まれて、任期中に辞職した唯一の米国大統領となっています。 この途中辞職の原因となったのがウォーターゲート事件で、これがニクソン大統領へのマイナスイメージに更に拍車をかけています。この事件の起こりなど本当にくだらないものなのですが…。
ウォーターゲート事件のウィキペディア記事は、「1972年6月17日にワシントンD.C.の民主党本部で起きた中央情報局(CIA)工作員による盗聴侵入事件に始まった」としています。CIA工作員が盗聴器をしかけようと侵入した民主党本部がウォーターゲート・ビルで、ウォーターゲート事件と名付けられているのです。ウィキペディア記事の「概要」では、ざっとした事件内容は以下です。
-
*CIA工作員の犯人グループ(注:5名)は、ニクソン大統領再選委員会の関係者だと判明。
-
*ニクソン大統領とホワイトハウスは、「侵入事件は政権には無関係」と表明。
-
*しかし、ワシントン・ポストなどが盗聴事件に政権内部が深く関与と発表。やがて大騒ぎに。
-
*問題になったのが、事件発覚時の大統領執務室での会話のテープ録音。ここにホワイトハウスが捜査妨害ともみ消しに直接関わった内容があるとされた。
-
*ホワイトハウス側は、この録音テープの議会提出の拒絶や、事件調査のために設けられた特別検察官を政権が解任などの司法妨害を。
-
*このようなニクソン政権の不正な動きに対して世論は猛反発し、大統領が弾劾対象となり辞任に。
当時メディアでは長期に渡り連日大騒ぎでした。しかし子供の私には、事件で伝えていることが煩雑すぎてなんのことか?の連続でした。そして現在でも、ウィキペディアの記事を読んでみても煩雑で、疑問点が多いのです。むしろ以下のように単純化したほうが、この事件の本質がつかめるでしょう。
-
*大統領再選委員会の関係者として潜り込んでいたCIA工作員たちが、事件を作るために盗聴器を持って民主党本部(ウォーターゲート・ビル)に侵入し、わざと警察に逮捕された。
-
*大統領は当然事件の関与は否定したが、「ディープ・スロート」なる謎の人物が、内部告発情報をワシントン・ポストに。これを始めとして、メディア群がでっち上げ事件を大々的に告発報道。ニクソンおろしの世論を作った。
-
*事件には大統領側近の裏切りがあり、そこに「ディープ・スロート」もおり、彼らが事件を計画し、指揮し進めた。
結論を言えば、ウォーターゲート事件はニクソン大統領の政治生命を奪うべく計画された謀略であり、米国民から選出された大統領をはめ込んだ一大クーデター国家犯罪といって間違いないでしょう。
ホワイトハウスに戻ったキッシンジャー
ニクソン大統領をウォーターゲート事件ではめ込んで、その政治生命を奪ったのはディープステート、闇の権力、300人委員会と言ってもいいでしょう。ニクソン大統領は、闇側にとっては好ましからざる人間だったのです。実際にニクソン大統領はその立場上で闇側の計画に沿った行動もありますが、闇側にマイナスとなる行動も取ったのです。目に見えて分かりやすいのは、ニクソン大統領の麻薬撲滅キャンペーンの展開です。これは、麻薬売買の総本山である英王室からは許容できないものだったでしょう。その英王室のエリザベス2世が300人委員会の長なのです。
そして他の情報もありますが、ウォーターゲート事件のトリガーになった可能性が高いのが以下です。この事件を非常に重要視して、詳細な情報を出しているジョン・コールマン博士、その『新版 300人委員会[下]』p101のものです。
当時、300人委員会はニクソンにカンボジアに侵攻しないように直接の指示を出していた。しかしニクソンがこの方針に背いたため、ローレンス・ロックフェラーとベトナムのホーチミンとの間で交わされていた取引が反故になりかけた。両者の間では、ロックフェラーが大きな見返りを受ける代わりにフランスを北ベトナムから追い出す約束が交わされていた。これによってロックフェラーのスタンダード石油はアメリカ軍が戦闘を終えた後のベトナムで自由に採掘できることになっていたのだ。
闇側からの排除の対象になっていたニクソン大統領は、暗殺までは至りませんでしたが、政治生命を奪われます。それもホワイトハウス内部の人間の主導によって。
では、ホワイトハウスの内部は?
当時の米国の外交を取り仕切っていたのはヘンリー・キッシンジャーですが、キッシンジャーはホワイトハウスを仕切ってもいました。キッシンジャーは300人委員会のメンバーで、『新版 300人委員会[下]』p98には、キッシンジャーが300人委員会のアメリカ主席顧問の地位にあったとしています。
このキッシンジャーをニクソンは直々にスカウトし、「政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切る」となるのです。こうやってニクソン政権の中枢に座ったキッシンジャーは、ホワイトハウスを支配していくのです。
そのキッシンジャーの支配方法は、自分のロボットなる人物をスカウトしてきて、その人物群で徹底的にホワイトハウスを固めるやり口です。こうなると、大統領に上がる情報は全てキッシンジャーの意図したものになります。そうしたキッシンジャーがスカウトした人物の一人に、アレクサンダー・ヘイグがいました。
裏切りのやり口
ニクソン大統領をウォーターゲート事件ではめ込む主導をしたのはキッシンジャーです。そして、その工作に重要な役割を果たしたのがアレクサンダー・ヘイグのようです。
軍人であったヘイグは、1969年にキッシンジャーの軍事補佐官に指名され、その後に国家安全保障問題担当大統領副補佐官(上司はキッシンジャー)に昇格。更に陸軍参謀次長(大将に2階級特進)に指名されて、陸軍現役のまま1973年には大統領首席補佐官となっています。ホワイトハウスの重鎮、大統領の側近中の側近となります。
彼のウィキペディア記事では、ヘイグはウォーターゲート事件で「最終的にニクソンに辞任を決断させることの推進役ともなった。」としています。
コールマン博士は、ヘイグこそがワシントン・ポストに内部情報を流した「ディープ・スロート」だったと明かします。その上で次のように真相を記しています。
ニクソンが犯した、弾劾に値する犯罪といわれるもの、また起訴を裏付けると考えられた、いわゆる「決定的」証拠、実はまっかな嘘は、6月23日のテープをめぐってキッシンジャーとヘイグが作り上げたものだった。その中でヘイグは、ニクソンに初めは優しく、やがて強い調子で、レオン・ジョースキー(注:特別検察官レオン・ジャウォスキー)に屈服するように説き伏せていった。ヘイグは何時間もかけて、このテープがあってはおしまいだ、これが「疑いようもなく」証明している。あなたは深刻な不祥事を起こしたために有罪であり、ウォーターゲート・ビル侵入の共同謀議者だ、とニクソンを懐柔していったのである。大統領は最初「これをそれほど重要視するなどバカげている」とヘイグに答えた。しかしヘイグは説得を続け、結局ニクソンは、上院でうまく弁明することは無理だと納得させられてしまった。この6月23日のテープのためだけによって。
(『99年版 300人委員会[下]』p352)
同ページで、この「決定的」テープの会話は「実際には、そこにはニクソン自身が説明できないようなことは何もなかったのである。」と記していますが、これはこの通りだったでしょう。なにせ、ことの始まりなどまともに相手するのもバカバカしい事件だったのですから。
誰も事件の被害者もいません。しかし、裏切り者に囲まれた大統領は視界を奪われ屈服してしまったのです。
これら全てが米国が主導し、ニクソン政権で起きたことです。この時代の地上世界の主人公は、善きにしろ悪しきにしろニクソン大統領だったといえるでしょう。
そして、もう一人の主人公がいました。ヘンリー・キッシンジャーです。ニクソン政権でホワイトハウスに戻っていたキッシンジャーが、米国外交を取り仕切っていたのです。前記の事件群の中でもチリ・クーデターは重要で、その軍事クーデターのウィキペディア記事には、次のようにあります。
キッシンジャーのウィキペディア記事によると、ケネディ大統領からホワイトハウスを追放された後、彼はそれ以前から密接だったロックフェラー家と更に交流を深めたことが分かります。
この時代の主人公の二人だったニクソンとキッシンジャー、二人は外的・公的には主従の関係でした。ニクソンはキッシンジャーの能力の優秀さを見込んで、彼をホワイトハウスの中枢に置いたのでしょう。しかし、キッシンジャーが忠誠を誓っていた相手は米国大統領ニクソンではありませんでした。