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ぴょんぴょんの「吉田松陰」 ~美化され祀り上げられたヒーローの実像
戦時中の新聞にしょっちゅう登場していた松陰
持ち上げられたんだよ。松陰関連の本や論文の数をみりゃわかる。松陰の本や文章がもっとも多く書かれたのは1930年代〜40年代。「1940年代の142点はすべて戦中期で、戦後の刊行はゼロなので、いかなる理由で松蔭が注目されたかはあきらかだろう(7p)。」
だが、そんな松陰ブームは1945年の敗戦で消えた。「しかし、その沈黙の時間はまもなく破られた。いったん消滅した松陰熱は1950年代に復活の兆しをみせた。もっとも注目すべきは今世紀に入ってそれがうなぎ上りになり、2010年代には戦前のピークをしのぐ勢いになっていることである(9p)。」
長州藩も認める天才だった
吉田松陰(1830〜1859年)が養子に出された吉田家(57石)は、代々、兵学の教授をやっていた。義父が亡くなった後、松陰は6歳で家督を継ぎ、9歳で兵学の教授見習いとなり、10歳で長州藩の藩校「明倫館」で兵学を教え始めた。
21歳、江戸に行って、佐久間象山(さくましょうざん)の元で学ぶ。このとき松陰は、友人たちと東北旅行を計画した。だが、旅行には「過書」という、藩からの身分証明が必要だ。勝手に出かけると「亡命(藩邸脱走)」になる。ところが、出発の日になっても過書が来ない。そこで待ちきれずに出発してしまった。
松陰は、ロシア船の接近に危機感を感じて、当時の蝦夷、つまり北海道に行ってロシアとの国境を確かめたかったんだ。それを藩が憂慮して、過書の発行が遅れたのではないかとも言われている(88p)。結果的に、北海道までは回れなかったが。
それでも、東北旅行の収穫は大きかった。とくに水戸学に触れたこと。水戸学は、万世一系の天皇の神聖さを「国体」と表現して、「天皇ー将軍ー大名ー臣民」の階級関係を主張し(98p)、天皇をテコにして主君への忠誠心を呼び覚まし、徳川体制の揺らぎを食い止めるのがねらいだった(102p)。
だが、1858年の通商条約調印で徳川政府は、天皇の勅命を得ずに、つまり天皇を無視して、外国人を受け入れることを勝手に決めてしまった。このために、攘夷派の藩士らは江戸政府に反発したことで、徳川政府は10年後に終わってしまった。
さて、水戸学にハマった松陰は、旅行から帰ってきたところを捕まって、萩に強制送還されて謹慎になった。本来なら家禄も減らされ、武士の身分も剥奪されるところだが、松陰パパのたっての願いで、武士の身分の剥奪は免れた(20p)。しかも、驚いたことに、松陰パパは藩政府に、息子の「10年間の他国修行」の願書を出して、受理された。(吉田松陰.com)
2度にわたるペリーの黒船来航
が、師である佐久間象山は、すぐの戦争は考えてなかった。とりあえず、オランダから軍艦を買い付けるから、松陰のような有能な青年を渡航させて、海外事情を探らせて、艦の操縦を習わせようと考えていたが、その話は流れてしまった(125p)。
次に象山が考えたのは、「漁民に扮して漂流し、まず清国に渡ること」だった(130p)。そこで松陰は、ロシアのプチャーチン号が停泊している長崎に行くことになった。が、松陰は象山とは違う計画だった。停泊している船に乗せてもらうつもりだったんだ。
この時の鬱散できなかったエネルギーが、松陰にとんでもない行動を取らせることになる。1854年、松陰24歳の正月早々にペリーが再来した。そして、日米交渉が始まった。「なんだ、戦争しないんか」と、松陰はまたガックリ。
しつこい9種の臭いがするな。だが、松陰は、外国人を日本から追い出したい「攘夷」の気持ちと、外国への好奇心が交錯して、いても立ってもいられなかったんだろう。ついに決行の夜になった。同郷の金子と二人で、ペリーの船に小舟でこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、必死の頼みも聞かれず、岸まで送り返されてしまった。 (吉田松陰.com)
結局、二人は下田番所に自首して、伝馬町の牢に入れられた。金子は武士ではなかったので、二人は別の牢に入れられた。牢内は階級制度になっていて、カネを払えば高待遇が受けられた。松陰はパパにカネを送ってもらって、5ヶ月の牢生活を「愉快だった」と記している(151p)。一方の金子はカネもなく、ひどい目に合ったらしい。健康を害して、萩に帰ってまもなく亡くなった。
松陰主宰の松下村塾が始まった
松陰らが、伝馬町の牢から萩に送り返されたのは、1年2ヶ月後の1855年(25歳)。萩に到着後、野山獄(のやまごく)に移された。牢から出た後も軟禁状態で、家から一歩も出ることは許されなかった。そこで松陰は自室で、身内に孟子の講義を始めた。すると、ぼちぼち門下生が集まって、1857年11月(27歳)、松陰主宰の松下村塾が成立した。
しかも、松陰は前科者だから、塾の評判もさまざまだった。「罪人の塾には行かせない」という父兄や、「政治の話はダメ」という父兄もいた(242p)。とは言え、入塾資格に制限がなかったので、身分の低い若年層にはチャンスだった。実際、松下村塾の92名の塾生の60%が10歳台だったそうだ(243p)。
その通り。しかも、松陰の講義はこんな感じ。「忠義心の厚い家来が、主君への忠義のために身を捨てて死を選ぶときは、目いっぱいに涙を溜め、声をふるわし、ときには熱い涙が点々と書物に滴り落ちることもあった。これを見て、門人もまた感動して涙を流すに至る。また逆臣が主君を苦しませるときは、目尻が裂け、声も大きくなり、髪が逆立つようであった。弟子もこれを憎む気持ちを抱いた(243p)。」
感情のコントロールを失った松陰
松陰が松下村塾で教え始めた、ちょうどその頃(1857年10月)、徳川政府は米国領事ハリスの江戸駐在を認め、1858年1月、政府は通商条約交渉を妥結した。松陰は通商条約には反対だった。外国のいいようにされて、日本が損をするのは見えていたから。
さらにこれを機に、松陰の尊王攘夷論も激しくなる。天皇に「外国人は出て行け」と宣言してもらいたい。だが今のままじゃ、武力では外国にかなわないというジレンマ。
だから、今は準備をする。まずは「軍事力を整備してアジアに勢力をもち、それを背景にした貿易によって国力を強化する。(236p)」もっと具体的には、「間に乗じて満州を収めて魯(ロシア)にせまり、朝鮮を来して清を窺い、南洲を取りて印度を襲う」べきという(169p)。「南洲」というのは、フィリピンからインドシナ半島のあたりだろう。
だから、今は準備をする。まずは「軍事力を整備してアジアに勢力をもち、それを背景にした貿易によって国力を強化する。(236p)」もっと具体的には、「間に乗じて満州を収めて魯(ロシア)にせまり、朝鮮を来して清を窺い、南洲を取りて印度を襲う」べきという(169p)。「南洲」というのは、フィリピンからインドシナ半島のあたりだろう。
じつはこの計画、水戸浪士たちが井伊直弼の襲撃を企てている噂を聞いたのがきっかけで思いついた。薩摩も尾張も土佐も、水戸に同調すると考え、長州だけが遅れをとってはならない、と言うことで、井伊の命令で動いていた間部詮勝を暗殺することにした。
結局、松陰の立てた計画はどれもこれも失敗。そして、松陰は「生命を捨てることでしか、忠誠は表現できない」という心境に至り、「吾が輩皆に先駆けて死んで見せたら観感して(見て感じて)起るものもあらん」というように、自分が死ぬことで手本になるしかないと、本気で考えるようになった(245p)。
「自分を傷つけたい」というのは、鬱屈エネルギーの内攻だな。野山獄から江戸送りになった松陰は、無罪放免になるはずだったのを、聞かれてもいない間部詮勝暗殺計画を奉行にしゃべり、それが原因で死罪の判決を受けた。
だが、松陰の死後、師を失った弟子たちは、イエス・キリスト磔刑後の弟子たちの如く、松陰の教えを体現しようと立ち上がり、命をかけて戦って次々と散って行った。そして、明治維新となり、弟子の何人かは明治政府の一員として、その後の日本を引っ張った。
ですが、松下村塾を立ち上げたのは松陰ではなくて、叔父の玉木文之進なんです。しかも、松陰がそこを借りて教えたのは、わずか2年足らず。
なのに、明治維新で活躍した多くの若者や、明治政府には内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創業者2名を輩出しました。(吉田松陰.com) 地方の一私塾から、こんなにたくさんの有名人が?
さらに気になるのは、松陰が、主君への忠義のために命を捨てることを奨励したこと。日本が外国と肩を並べるためには朝鮮、満州、南アジアの侵略も必要と考えていたこと。
老中暗殺計画を自白して有罪、死刑になった松陰は、今もなおヒーローですが、知れば知るほど、なにか不自然なものを感じてしまいます。