ぴょんぴょんの「吉田松陰」 ~美化され祀り上げられたヒーローの実像

 松下村塾。名前を聞けば誰でも「ああ、あの吉田松陰の」とわかるくらい、有名な私塾です。
 ですが、松下村塾を立ち上げたのは松陰ではなくて、叔父の玉木文之進なんです。しかも、松陰がそこを借りて教えたのは、わずか2年足らず。
 なのに、明治維新で活躍した多くの若者や、明治政府には内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創業者2名を輩出しました。(吉田松陰.com) 地方の一私塾から、こんなにたくさんの有名人が?
 さらに気になるのは、松陰が、主君への忠義のために命を捨てることを奨励したこと。日本が外国と肩を並べるためには朝鮮、満州、南アジアの侵略も必要と考えていたこと。
 老中暗殺計画を自白して有罪、死刑になった松陰は、今もなおヒーローですが、知れば知るほど、なにか不自然なものを感じてしまいます。
(参考:「吉田松陰の生涯」:引用ページはすべてこの本)
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「吉田松陰」 ~美化され祀り上げられたヒーローの実像


戦時中の新聞にしょっちゅう登場していた松陰


今日は吉田松陰について、語るぞ。

吉田松陰? くろちゃん、ファンだったの?

ファンじゃねえよ。「私塾」を調べていたら、たまたま「松下村塾」が目に入って、「松下村塾」と言えば吉田松陰。どんなヤツだろうと興味を持ったまでよ。

松下村塾
Author:ぽこるん[CC BY-SA]

たしか、明治維新のスターをたくさん育てた人だよね。なのに捕まって牢屋に入れられて、若くして死んだ悲劇のヒーロー。

世間一般にはそういうが、それは明治になって作られたイメージらしい。(東洋経済

へえ、そうなの?

考えても見ろよ。今の日本から見て、明治維新てなんだった?

鎖国から開国して、外国のものが入ってきた。

それで日本は幸せになったか? 明治維新以後、どんどん軍備を拡張したあげく、行き着くところは世界を相手にした戦争だった。その結果、日本は・・?

ボロボロになった。

そして、今や日本はアメリカに支配され、ATMになり、国民はちっとも豊かにならない。「鎖国時代のほうが良かった」とは言わねえが、食も文化もモラルも伝統も、今よりもっと、日本らしかったんじゃねえか?

たしかにそう言われてみれば、明治維新はろくなもんじゃないね。となると、明治維新のスターを育てた吉田松陰も、ろくなもんじゃないことになる。じゃあ、なんで人気があるの?

持ち上げられたんだよ。松陰関連の本や論文の数をみりゃわかる。松陰の本や文章がもっとも多く書かれたのは1930年代〜40年代。「1940年代の142点はすべて戦中期で、戦後の刊行はゼロなので、いかなる理由で松蔭が注目されたかはあきらかだろう(7p)。」

てことは、戦争と関係ある?

そうゆうこと。戦時中の新聞には、しょっちゅう松陰が登場したそうだ。松陰が主張した「尊王攘夷」、つまり「天皇を尊び、外国人を追っ払う」、てえのが、戦時中のプロパガンダにドンピシャだったんじゃね?

「天皇陛下バンザイ!」と「鬼畜米英」にピッタリ。

だが、そんな松陰ブームは1945年の敗戦で消えた。「しかし、その沈黙の時間はまもなく破られた。いったん消滅した松陰熱は1950年代に復活の兆しをみせた。もっとも注目すべきは今世紀に入ってそれがうなぎ上りになり、2010年代には戦前のピークをしのぐ勢いになっていることである(9p)。」

ということは、再び「天皇陛下バンザイ!」「鬼畜米英」の時代が来る?

う〜ん、今や鬼畜米英と手を組んでいる日本に、それはないかな?


長州藩も認める天才だった


結局、松陰さんは美化されて利用されたんだね。実際はどんな人だったの?

吉田松陰(1830〜1859年)が養子に出された吉田家(57石)は、代々、兵学の教授をやっていた。義父が亡くなった後、松陰は6歳で家督を継ぎ、9歳で兵学の教授見習いとなり、10歳で長州藩の藩校「明倫館」で兵学を教え始めた。

明倫館(有備館)
Author:Kuru man[CC BY]

へえ?! 10歳で藩校の教授やってたの?

スゴいだろ? 11歳のとき、藩主毛利敬親(たかちか)の御前で講義をやったとき、みんなビックリして、「(松陰の生まれた)松本村に天才あり」と騒がれたそうだ。(吉田松陰.com

天才だったんだ

21歳、江戸に行って、佐久間象山(さくましょうざん)の元で学ぶ。このとき松陰は、友人たちと東北旅行を計画した。だが、旅行には「過書」という、藩からの身分証明が必要だ。勝手に出かけると「亡命(藩邸脱走)」になる。ところが、出発の日になっても過書が来ない。そこで待ちきれずに出発してしまった。

佐久間象山
Wikimedia_Commons[Public Domain]

なんで、そんな無謀なことをしたんだろう?

長州人のプライドよ。他藩の友人は過書を持ってるのに、長州藩の自分ともう一人はない。だが、ここで遅れをとったら、「長州人は優柔不断だ」と軽蔑される。負けたくない。弱みを見せたくない。

そんなことで? しかも、なんでそんな危険を冒してまでの東北旅行? ただの観光じゃないね。

松陰は、ロシア船の接近に危機感を感じて、当時の蝦夷、つまり北海道に行ってロシアとの国境を確かめたかったんだ。それを藩が憂慮して、過書の発行が遅れたのではないかとも言われている(88p)。結果的に、北海道までは回れなかったが。

なるほど。

それでも、東北旅行の収穫は大きかった。とくに水戸学に触れたこと。水戸学は、万世一系の天皇の神聖さを「国体」と表現して、「天皇ー将軍ー大名ー臣民」の階級関係を主張し(98p)、天皇をテコにして主君への忠誠心を呼び覚まし、徳川体制の揺らぎを食い止めるのがねらいだった(102p)。

大名は、天皇を敬うように将軍も敬いなさい、って言ってるんだね。

だが、1858年の通商条約調印で徳川政府は、天皇の勅命を得ずに、つまり天皇を無視して、外国人を受け入れることを勝手に決めてしまった。このために、攘夷派の藩士らは江戸政府に反発したことで、徳川政府は10年後に終わってしまった。

水戸学が、天皇を引っ張り出したばっかしに。

さて、水戸学にハマった松陰は、旅行から帰ってきたところを捕まって、萩に強制送還されて謹慎になった。本来なら家禄も減らされ、武士の身分も剥奪されるところだが、松陰パパのたっての願いで、武士の身分の剥奪は免れた(20p)。しかも、驚いたことに、松陰パパは藩政府に、息子の「10年間の他国修行」の願書を出して、受理された。(吉田松陰.com

パパ、親バカすぎ! 藩も松陰には甘いんだね。


2度にわたるペリーの黒船来航


藩も認める天才だからな。で、松陰は再び江戸に出かけた。するとタイミング良くと言おうか、江戸に到着した10日後、ペリーの艦隊が浦賀に現れたのよ。

横浜への黒船来航(画:ヴィルヘルム・ハイネ)
Wikimedia_Commons[Public Domain]

へえ、これも運命だね。

松陰は黒船を見るために、浦賀まですっ飛んでった。だが、ペリーは翌年の再来を予告して帰ってしまった。「さあ、大変だ。ペリーが戻ったら戦争になる。そのときは一命を賭けて闘うぞ」と松陰は心に誓った。

学者と思ってたけど、やっぱこの人、武士だわ。

が、師である佐久間象山は、すぐの戦争は考えてなかった。とりあえず、オランダから軍艦を買い付けるから、松陰のような有能な青年を渡航させて、海外事情を探らせて、艦の操縦を習わせようと考えていたが、その話は流れてしまった(125p)。

松陰さん、せっかくのチャンスだったのに、残念だったねえ。

次に象山が考えたのは、「漁民に扮して漂流し、まず清国に渡ること」だった(130p)。そこで松陰は、ロシアのプチャーチン号が停泊している長崎に行くことになった。が、松陰は象山とは違う計画だった。停泊している船に乗せてもらうつもりだったんだ。

たしかに、漂流して乗せてもらうより簡単だけど、師の命令を勝手に変えちゃっていいの?

そうゆうとこが、ヤツの自由度の高さ、とゆうかワガママなんだよ。だが、残念なことに、松陰が長崎に着いたとき、すでにプチャーチン号は上海に去った後だった。

あ〜あ、ガッカリ。

この時の鬱散できなかったエネルギーが、松陰にとんでもない行動を取らせることになる。1854年、松陰24歳の正月早々にペリーが再来した。そして、日米交渉が始まった。「なんだ、戦争しないんか」と、松陰はまたガックリ。

Wikimedia_Commons[Public Domain]

江戸政府は、戦争したって勝ち目がないって、わかってたんだよ。

1ヶ月後、日米和親条約が調印されたことを受けて、松陰はアメリカの船で密航することを企む。

長崎でのこと、よっぽど悔しかったんだね。でも、けっこう引きずる人だね。

しつこい9種の臭いがするな。だが、松陰は、外国人を日本から追い出したい「攘夷」の気持ちと、外国への好奇心が交錯して、いても立ってもいられなかったんだろう。ついに決行の夜になった。同郷の金子と二人で、ペリーの船に小舟でこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、必死の頼みも聞かれず、岸まで送り返されてしまった。吉田松陰.com

あ〜あ、またしても失敗。

この時の、松陰の手紙がアメリカに残っているそうだ。「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。(密航が)知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」と。吉田松陰.com

松陰さん、早く生まれすぎたね。

結局、二人は下田番所に自首して、伝馬町の牢に入れられた。金子は武士ではなかったので、二人は別の牢に入れられた。牢内は階級制度になっていて、カネを払えば高待遇が受けられた。松陰はパパにカネを送ってもらって、5ヶ月の牢生活を「愉快だった」と記している(151p)。一方の金子はカネもなく、ひどい目に合ったらしい。健康を害して、萩に帰ってまもなく亡くなった。

大安楽寺内の伝馬町牢屋敷処刑場跡
Author:Onething[CC BY-SA]

なんてことだ! 松陰さん、要領良すぎて、ちょっと腹が立つ。


松陰主宰の松下村塾が始まった


松陰らが、伝馬町の牢から萩に送り返されたのは、1年2ヶ月後の1855年(25歳)。萩に到着後、野山獄(のやまごく)に移された。牢から出た後も軟禁状態で、家から一歩も出ることは許されなかった。そこで松陰は自室で、身内に孟子の講義を始めた。すると、ぼちぼち門下生が集まって、1857年11月(27歳)、松陰主宰の松下村塾が成立した。

松下村塾って、松陰が名付けたの?

松下村塾は松陰が作ったように思われているが、実は叔父の玉木文之進が作って、地元の松本村にちなんで名付けた私塾なんだよ。

へえ、知らなかった。

しかも、松陰は前科者だから、塾の評判もさまざまだった。「罪人の塾には行かせない」という父兄や、「政治の話はダメ」という父兄もいた(242p)。とは言え、入塾資格に制限がなかったので、身分の低い若年層にはチャンスだった。実際、松下村塾の92名の塾生の60%が10歳台だったそうだ(243p)。

10代というと、もっとも影響を受けやすい年頃だ。

その通り。しかも、松陰の講義はこんな感じ。「忠義心の厚い家来が、主君への忠義のために身を捨てて死を選ぶときは、目いっぱいに涙を溜め、声をふるわし、ときには熱い涙が点々と書物に滴り落ちることもあった。これを見て、門人もまた感動して涙を流すに至る。また逆臣が主君を苦しませるときは、目尻が裂け、声も大きくなり、髪が逆立つようであった。弟子もこれを憎む気持ちを抱いた(243p)。」

うわあ、こんなん、熱すぎて引く!

まったくだ。「死をもって忠誠心を示したという話を劇的に語る松陰の講義を、向学心に燃えた多感な少年たちがどのように受け取ったか、容易に想像できる(247p)。」

自分たちもそうなりたい!って思うよね。

一種の煽動だな。こうして、「松下村塾は松陰という強烈な個性を核にした政治セクトに化していった(248p)。」

なんか、怪しくなってきた。染まりやすい10代の少年らが心配だ。

しかもセクトのリーダーは、下田の密航失敗から亡くなるまでの約5年間、まったく外に出られず、限られた情報しか知らない。


感情のコントロールを失った松陰


そのころの世の中は、どうなっていたの?

松陰が松下村塾で教え始めた、ちょうどその頃(1857年10月)、徳川政府は米国領事ハリスの江戸駐在を認め、1858年1月、政府は通商条約交渉を妥結した。松陰は通商条約には反対だった。外国のいいようにされて、日本が損をするのは見えていたから。

米国領事ハリス
Wikimedia_Commons[Public Domain]

どうせ、不平等条約だしね。

さらにこれを機に、松陰の尊王攘夷論も激しくなる。天皇に「外国人は出て行け」と宣言してもらいたい。だが今のままじゃ、武力では外国にかなわないというジレンマ。
だから、今は準備をする。まずは「軍事力を整備してアジアに勢力をもち、それを背景にした貿易によって国力を強化する。(236p)」もっと具体的には、「間に乗じて満州を収めて魯(ロシア)にせまり、朝鮮を来して清を窺い、南洲を取りて印度を襲う」べきという(169p)。「南洲」というのは、フィリピンからインドシナ半島のあたりだろう。

え?! なんか、ヤバいこと言ってるよ。まるで、太平洋戦争で日本がやったことにそっくりだ。

ああ、ヒーロー松陰とは思えない、由々しき発言だ。

満州、朝鮮、インドシナ、インドに住んでる人たちのことは、まったく頭にないのかな。

ちょっと、あたおかになっとるかも。

それもわかる。外では開国の嵐が吹き荒れている。なのに家から出られない。直接参加できないもどかしさで、焦るばかりだし。

そうやって、感情のコントロールすら失った松陰は、次々と強硬手段に訴えることになる(252p)。その中で、もっとも過激なのが、江戸政府の老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画。

間部詮勝
Wikimedia_Commons[Public Domain]

老中の暗殺?!

じつはこの計画、水戸浪士たちが井伊直弼の襲撃を企てている噂を聞いたのがきっかけで思いついた。薩摩も尾張も土佐も、水戸に同調すると考え、長州だけが遅れをとってはならない、と言うことで、井伊の命令で動いていた間部詮勝を暗殺することにした。

なんじゃそりゃ? でも、前にもこういうことがあったような。

身分証なしでの東北旅行に、見切り発車した時だな。「長州人は優柔不断だ」と言われるのを恐れて、脱藩覚悟で飛び出した。

武士なのに肝っ玉が小さいなあ。

松陰はこの暗殺計画を、江戸の長州藩邸の周布政之助(すふまさのすけ)に打ち明け、藩政府の前田孫右衛門には、暗殺に使う武器・弾薬まで要求していた。

周布政之助
Wikimedia_Commons[Public Domain]

藩もあきれたことだろうね?

ああ、藩は、暗殺計画は藩にとって危険だとして、松下村塾の閉鎖を命じ、松陰は再度、野山獄に入れられることになった。吉田松陰.com

あ〜あ、バカだなあ、でも当然だね。

結局、松陰の立てた計画はどれもこれも失敗。そして、松陰は「生命を捨てることでしか、忠誠は表現できない」という心境に至り、「吾が輩皆に先駆けて死んで見せたら観感して(見て感じて)起るものもあらん」というように、自分が死ぬことで手本になるしかないと、本気で考えるようになった(245p)。

思うように行かないから、破れかぶれだね。

「自分を傷つけたい」というのは、鬱屈エネルギーの内攻だな。野山獄から江戸送りになった松陰は、無罪放免になるはずだったのを、聞かれてもいない間部詮勝暗殺計画を奉行にしゃべり、それが原因で死罪の判決を受けた。

なんで! そんなことを自白しちゃったんだ?

「死ぬこと」が目的だったのよ。1859年10月27日死刑が執行された。松陰30歳、満で29歳1ヶ月。武士らしく潔い最期だった。

あ〜あ、もったいない。

だが、松陰の死後、師を失った弟子たちは、イエス・キリスト磔刑後の弟子たちの如く、松陰の教えを体現しようと立ち上がり、命をかけて戦って次々と散って行った。そして、明治維新となり、弟子の何人かは明治政府の一員として、その後の日本を引っ張った。

だけど、ふしぎな人だよね。なんで、満州、朝鮮を攻めてアジアに侵攻するとか言ったんだろうね。あれは、予言だったの?

いやいや、松陰は、そういう計画を立てていた連中と、どっかでつながってたんだよ。

まさか、田布施? 裏天皇? 李家?


いらすとやの吉田松陰


Writer

ぴょんぴょんDr.

白木 るい子(ぴょんぴょん先生)

1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
2014年11月末、クリニック閉院。
現在、豊後高田市で、田舎暮らしをエンジョイしている。
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)

東洋医学セミナー受講者の声

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