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ぴょんぴょんの「三浦梅園」 ~江戸時代に、宇宙の原理を本に書いた天才
湯川秀樹も影響を受けた三浦梅園の思想
三浦梅園:みうらばいえん、享保8年(1723) - 寛政元年(1789)江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後出身。名は晋(すすむ)。条理学と言われる独自の学問体系を築いた『玄語』が有名。他に『贅語』『敢語』があり、梅園の思想の骨格をなす。『玄語』は37年かかり未完。 pic.twitter.com/M4vwWnAa53
— 大森博子 Hiroko Ohmori🔍📚 (@11111hiromorinn) March 13, 2022
三浦梅園(1723〜1789)は、江戸中期の思想家で医者、天文学者、自然哲学者、私塾の講師、詩人、画家、書家で、思想家だった。家は庄屋の分家で、士農工商では「農民」だった。彼の代表的な著作は、「梅園三語」と呼ばれる「玄語(げんご)」「贅語(ぜいご)」「敢語(かんご)」で、中でも中心となる「玄語」は存在の研究、宇宙の研究とも言われる。
この家に隣接している梅園資料館には、国の重要文化財に指定されている梅園の著書や、直筆の書、愛用品、肖像画などが展示されている。それらの展示やパンフレット、そこでゲットした子ども向けの「三浦梅園伝」「三浦梅園先生の哲学」を参考に、梅園の生涯を紐解いてみよう。
天地万物の謎について知りたかった梅園
子ども時代の梅園は、「なんで、物は下に落ちるのか?」「なんで、目は見えて、耳は聞こえるのか?」「なんでお日さまは上って沈むのか?」などと聞く子で、大人は「そういうもんじゃ」と答えるしかなかったそうだ。
小さい頃は、家にある漢文の書物をかたっぱしから読んだ。16歳、ようやく二人の師についたと思ったら、1年くらいで止めてしまった。というのは、梅園は天地万物の謎について知りたかったのに、二人の師は教えられなかったからだ。「青年梅園にとっては、今や天地こそがたよるべき師であり、自然こそが交わるべき友であった。」(梅園伝14p)
以来、ずっと独学で、大好きな生まれ故郷から離れなかった。生涯で、長期の旅行をしたのは3回だけ。梅園は言う。「毎朝、両子川(ふたごがわ)の水で顔を洗い、夜は両子山(ふたごやま)に抱かれて眠る。私はこの生活に満足している。」
そう、梅園は「自分の師は自然だ」と知っていた。梅園「疑いをはさむ余地のない真理は、人間が頭の中で作り上げたものではなく、自然の中にある。だから、人は素直に自然の中にある真理を見て知るべきである。」(哲学9p)そして梅園23歳の時、当時の新しい学問の中心地、長崎に旅行した。そこで彼は、西洋の天文学に驚かされた。
「天球儀というのは、地球を取りまく天空を一つの球に見たて、その表面に多くの星を書き入れたものである。だから実際には、人がその球の中心にいて、表面に書かれた星を裏側から見るはずのものである(後略)」。(梅園伝23〜24p)毎晩、夜空を観測しながら、完成までに数年かかったと言う。
だが、梅園は不満だった。「23歳のとき初めて長崎に旅行して西洋天文学に触れ、地球球体説や緻密な観測結果から大きな影響を受けますが、『それ切り』の学問であって、天地のしくみを『うら返し』てみせたものではなく、梅園の探求はなお、続きました。」(資料館パンフレット)また、「西洋天文学者の技術は正確だが、なぜそうなっているかということは研究されていない」とも。(哲学37p)
突然、真理を悟る
だが、どんなに自然を観察しても、自然の原理までは手が届かない。考えて、悩んで、苦しんで、頭が狂いそうになりながら探求を続ける梅園は、29〜30歳の時、人生2度めの長期旅行、お伊勢参りに行った。そして、伊勢から帰った梅園は、なんと!突然、真理を悟ってしまった。
梅園オリジナル言語、これが後々の研究者を苦しめることになる。しかも、書いてあることはこんな感じ。「すべての物は、一つの気からできており、すべては一気(一:いち)の現象(一一:いちいち)として理解できる」という。
だな。こうゆう真理は直感じゃねえとわからんと思う。あえて噛み砕いて説明すると、「二つのものは反対の性質のものが一組になってできているから、一つは昜(よう)、一つは侌(いん)というように順々にどこまでも分けていくことができる。このようにしてすべてのものができている。逆に反対のものを合わせていくと、最後は一つの根本のものになる」。(哲学35p)
それには、こういう理由がある。「梅園先生の頃は、人びとは普通、性質の反対のものを陰と陽と言っていました。しかし、そう言うと陽が表で陰が裏ということですから、そこに上下の差別が生まれます。」(哲学38p)
そうだ。梅園は、自分の言う「侌」「昜」は、普通に言う「陰」「陽」とは違うと言いたかった。「男女」「殿さまと人民」は陰陽ではなく「一と一」、つまり対等だと言いたかったんだ。「一と一とは一組の対立するものが陰陽という区別をされる以前の物である。」(哲学39p)
さらに、「自然の真理は性質が反対のものが一組になっている。一つのものには二つのものがふくまれ、二つのものは一つのものが分かれたものである。これが条理である。だから、反対のものをよく見て、合わせて見ることによって、本当のことが分かる。これが反観合一である。」(哲学35p)
相反するように見えるものが、元は一つだと言いたいのよ。「梅園先生の条理は、このように二つのものは性質は反対であるが、そのために、相手を負かしてしまって、一方が勝ち残るというものではなくて、互いに助け合って共に生きるという考え方です。もし男性だけが残り、女性がいなくなったとしたらどうなるか、殿様だけ残り、人民がいなくなったとしたらどうなるか考えて見ればすぐ分かることです。」(哲学39p)
江戸後期の学者の三浦梅園の「玄語」にでてくる「条理学」の「条理図」です。
— 松井勇策 社労士・iU大学客員教授 ■人的資本経営や雇用政策・応用した事業開発・IPO支援等専門 (@ForestMatsui) July 5, 2022
あらゆる観念を条理区分という方法で区分して考えることで、組織や個人の自立や最適化を目指した。
一部よくわかるところもある。
一種の組織論・キャリア理論でもあると思います。もっと遥かに射程は広いですが。 pic.twitter.com/ekqATLeLJu
だから玄語の中に表わされる図はどこまでも美しい。陰陽即世界だから🐱
— スカーロイ✈️ (@Skarloey_Engine) September 26, 2018
これは当然のことながら、陰線陽線の乱舞する相場の分析には大いに役に立つと思っているし、だから、そのために私は相場を張っているのだと言い切っても差し支えない🐱 pic.twitter.com/BefZkRK6NE
大好きな故郷を離れたくなかっただけ
家臣になる、つまり農民の地位から武士になるんだ。それは名誉なことだが、梅園が断った理由は、「分を知れ。人には分というものがある。分に過ぎたことを望むな」という教えを大事にしたからと言われる。だが、本音は大好きな故郷を離れたくなかっただけ。「私ののぞみは富貴や栄達からのがれ、富永(梅園の住んでいた土地)の山中で読書や、春の野歩きや、魚つりなどをすることで、人に苦労かけて自分が楽をする地位につくことではありません」という内容の詩を送って、断ったと言う。(梅園伝51p)
召し抱えられることはなかったが、自分のいた杵築(きつき)藩の相談には乗っていた。杵築藩の七代目藩主、松平親賢(ちかかた)からの招きで、殿様にいろいろアドバイスしたこともある。「領内を治める道は、親が子を育てる方法と同じであるべきだ。決して、商売人のように、富を民から吸い上げる方法をとってはならない」というように。
「梅園塾」での教え
ほれ、時代劇によくあるだろ? 「お主も悪よのお」の越前屋みたいなヤツが、藩を賄賂で腐敗させる話。商人の奴隷になった社会から脱却する道を、梅園は説いたのよ。「富はお金ではなく、穀物などの財にあり。民の手元に財があることが、国富であること。国を治める者は、商人の術を用いてはならぬ」。
ああ、「梅園塾」だ。が、最初は、教えてくれと頼まれても、人に教える学問をやっていないし、「教授の徳」もないからと断ったそうだ。それでも、「梅園の学徳を慕うおよそ200人もの生徒たちが、豊後一円はもちろん伊予、阿波など17カ国もの国々から集まり学んでいました」と、パンフに書いてある。
さらに梅園は、学問の弊害についても述べている。「ふつうの偏見は、学問が正すことができるが、学問によってできた偏見は直しようがない。医者もさじを投げる」「学問は臭い菜っぱのようなものだ。しっかりと臭みをとらなければ、食べられない。少し書を読めば、少し学者臭い。余計に書を読めば、余計に学者臭くなる。困りもんだ」と。
彼は死ぬ間際まで、「玄語」の改訂を続けたが、とうとう完成はしなかった。しかも、「玄語」は難しすぎて、師弟にすら理解してもらえない。そんな梅園は、こう言い遺している。「私ののぞみは、のちの世に賢者が現れて、この本に心を止めてくれることである。そうすれば、私は死んでも永遠に生きることになる。」
大分の学校ではきっと、郷土の偉人として教わるのでしょうが、よそ者の私は、いつかドライブ中に目にした「三浦梅園旧宅」という道路標示の記憶しかなく、昔の学者さんかな?くらいの知識しかありませんでした。
ところが、調べるほどにりっぱな人物で、こんな人物が日本に、大分にいたことが誇らしいと思いました。
参考:三浦梅園資料館パンフレット、「少年少女のための三浦梅園伝(文中では『梅園伝』)」「少年少女のための三浦梅園先生の哲学(文中では『哲学』)」