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看取りの病院に転院
土砂降りの雨です。今日も高速道路を飛ばします。もう命の炎が消えようとしている母に会いに行くのが日課になりました。
2ヵ月前、102歳の母は肺炎や尿路感染症を併発して施設から救急車で病院に運ばれましたが奇跡的に一命を取り留めました。
もう治療法がないので看取りの病院に転院しました。私の家からは遠くなりましたが受けいれてくれるところがないので仕方ありません。
もう何も口から入らず、点滴だけで生きながらえています。点滴も含め延命はしないという約束でしたが一旦病院に入院した以上、叶いませんでした。
ただ、母に会いに行く道のりは楽しく、母の人生を思う時間になっています。
たくさんの人が暮らす家の中心的存在だった
思えば母は、一生を家の中だけで過ごした人でした。お母さんを早く亡くし、寂しい思いをしたけれど母の祖父が手遊びやわらべ歌を教えてくれたそうです。そのわらべ歌はずっと母の中にあり、晩年、1人暮らしになった時に母を支えてくれました。
やがて新しいお母さんが来て次々に姉妹が生まれました。そのお母さんも優しかったのでしょう、一度もお母さんの悪口を聞いたことがありません。むしろ姉妹ができて賑やかになったのが嬉しかったそうです。やがて町医者だったお父さんは軍医として南方の激戦地に行き、爆撃を受けた時のケガで亡くなりました。
戦後、当時は当たり前だったそうですが、会ったことも無い人のもとに嫁いだ母。そこには2人の幼子がいて、厳しいお姑さんが君臨していました。家は入院施設もある開業医。その結婚は夫婦水入らずどころか姑、2人の子ども、入院患者さんと住み込みの看護師さん、父の弟のお世話をする事を意味していました。
幸いなことに父が優しかったので母を大事にしたようです。銭湯に歩いていく時だけが2人きりの時間。晩年、南こうせつの神田川の歌が好きだと話してくれました。
朝から寝るまで働いていた母。子どもの世話に専念することはできませんでしたが、子どもを構ってくれる大人がたくさんいましたし、いつも母の姿が近くにあったので寂しいとは思いませんでした。
家長は祖母。厳しい人で、孫の躾もしていました。圧倒的な力の差があり、母が祖母に逆らう姿を見たことがありません。陰口を言うこともなく「厳しかったけど間違ったことは言わない人だった」と偉さを認めていました。
親戚の出入りも多く、母は1人になる場所も時間もありません。我慢することも多かったと思いますが、私が結婚するときに「義母さんとケンカしたり口答えしてはダメよ。攻撃した言葉はずっと残ります」「落ち着いて対処しなさい」と言われたことがあります。きっと、その心構えで生きてきたのでしょう。
やがて祖母が年を重ねて母を頼るようになりました。自宅で死ぬのがあたり前の時代です。母は祖母を看取り、母の腕に抱かれて逝きました。子ども達もそれを身近に見ていました。
子ども達が家を出て父と2人になった時、初めて夫婦水入らずの時間ができて嬉しそうでした。でも、父は家事はもちろん自分の事もできない人でしたので相変わらず父の世話で忙しくしていました。
父が入院した時も母は病室のソファで寝泊まりしてお世話をしていました。家で父が転ぶのを受け止めながら自分も一緒に転んでケガをしたのに「父にケガさせなくてよかった」と言う母。
結局ヘルパーさんにも頼まず、自分の使命のように父を介護して看取りました。父89歳。母87歳の老々介護です。
ずっと人の世話をしてきた母でしたが、自分は98歳になって身体がうまく動かなくなっても誰にも頼らず生活していました。一人娘の私が行っても、お茶を入れて歓待し「私のことは何もしなくていい。あなたの仕事があるでしょう、早く帰りなさい」が口癖でした。母から「〇〇をして欲しい」「老後の面倒を頼む」と言われたことがありません。
でも、1人でも満たされて幸せそうでした。毎日朝早く起きて空を見上げるのが好き。庭仕事をして父の食事を作り、仏壇で亡き父と語らい、新聞を隅から隅まで読み、読書をしていました。
広告の裏に思いついたことを書き、俳句を作っていました。子どもの頃に覚えた童謡をいつも口ずさんでいました。年を重ねるごとに明るい性格になり「昔はこんなにおしゃべりじゃなかったし、小さいころの歌が口から飛び出すからびっくりする」と言いながら一人で歌っていました。
このように、家からほとんど出たことがない母でしたが、たくさんの人が暮らす家の中心的存在でした。親戚、子ども、孫が母を慕って集まります。人から相談を受けることも多かったようで長々と手紙を書いて励ましていました。母の家を整理していたら、そんなやり取りの手紙がたくさん出てきて知りました。
いよいよ施設に入所する時も、人の世話ばかりしてきた母を施設に入所させるのが申し訳なくて謝る私に、逆に「鷹揚に構えなさい」と言った母。本当に「バイバイ」と手を振って行きました。どうしてそんなに思えるのでしょう?
自己主張せず抵抗せず自分の仕事として受け入れて淡々と生きて行く。身近な人の中だからこそ色々な感情が湧いただろうけど、誰にも相談せず、自分の中で消化してきたのでしょうか?人の悪口を言う母を見たことがありません。よくお月様や自然に手を合わせていましたが宗教は嫌いでした。
今にして思う母の強さ。優しさです。
だから私も自分の悩みや悲しみを母に話しませんでした。無言の教えを受けていたのかもしれませんし、私の幸せを望んでいる母を悲しませたくなかったのです。私は母の望みを叶えたくて自分が幸せになる努力をしました。
今は歯が一本もなく、痩せこけて骸骨のような顔になりました。お世辞にもきれいとは言えません。でも私には愛おしい顔です。行くたびに「愛しています」と唱えながら顔をマッサージしてリップクリームを塗り、口の中をきれいにします。
面会時間は午後の30分だけ。入院するときに病院から「突然亡くなることが多いので、死に目に会えないと思っていてください」と言われました。
私はその言葉がショックで「そんなバカな」「大事な人が息を引き取る時にはそばに居たい。そばに居るための時間も作れる」「1人では逝かせたくない」・・・とモヤモヤしていました。
そして「神様、母が逝く時はそばに居てあげられますように」と祈りました。義母が1人で眠るように逝ったのも心残りでした。
いつも眠っている母に大声で呼びかけると「はーい」「ありがとう」と言ってくれます。不思議なことに施設に居た頃より覚醒して、はっきり私を見て「わかってるよ」「頼んだよ」と言うことがあります。全てをわかっていて、私に全て任せたよ、と伝えたかったのでしょう。
そんな母の顔を両手で包んで頷くと「きれいね」と言ってくれました。そして「もういいから、早く帰りなさい」と言うのです。
この期に及んで「帰りなさい」か・・と泣き笑いしながら帰りますが、車の中でハッと思いました。
私は母の最期にはそばに居てあげたいと思っていたけど、これは私の執着だったかもしれない。母はもうすでに準備ができているし、この状況で1人で逝くのも含めて全てを受け入れているのではないかと。
私も母の生き方を尊重しようと思いました。全て母が決める事です。目の前にいる看護師さんに「ありがとう」と言いながら世界の片すみで消えていくのもよし。
私は心の中で、絶えず愛を送ります。そして会える間は「ありがとう」を伝えに車を走らせるのです。
結局ヘルパーさんにも頼まず、自分の使命のように父を介護して看取りました。父89歳。母87歳の老々介護です。
ずっと人の世話をしてきた母でしたが、自分は98歳になって身体がうまく動かなくなっても誰にも頼らず生活していました。一人娘の私が行っても、お茶を入れて歓待し「私のことは何もしなくていい。あなたの仕事があるでしょう、早く帰りなさい」が口癖でした。母から「〇〇をして欲しい」「老後の面倒を頼む」と言われたことがありません。
でも、1人でも満たされて幸せそうでした。毎日朝早く起きて空を見上げるのが好き。庭仕事をして父の食事を作り、仏壇で亡き父と語らい、新聞を隅から隅まで読み、読書をしていました。
広告の裏に思いついたことを書き、俳句を作っていました。子どもの頃に覚えた童謡をいつも口ずさんでいました。年を重ねるごとに明るい性格になり「昔はこんなにおしゃべりじゃなかったし、小さいころの歌が口から飛び出すからびっくりする」と言いながら一人で歌っていました。
このように、家からほとんど出たことがない母でしたが、たくさんの人が暮らす家の中心的存在でした。親戚、子ども、孫が母を慕って集まります。人から相談を受けることも多かったようで長々と手紙を書いて励ましていました。母の家を整理していたら、そんなやり取りの手紙がたくさん出てきて知りました。
母の強さと優しさ
いよいよ施設に入所する時も、人の世話ばかりしてきた母を施設に入所させるのが申し訳なくて謝る私に、逆に「鷹揚に構えなさい」と言った母。本当に「バイバイ」と手を振って行きました。どうしてそんなに思えるのでしょう?
自己主張せず抵抗せず自分の仕事として受け入れて淡々と生きて行く。身近な人の中だからこそ色々な感情が湧いただろうけど、誰にも相談せず、自分の中で消化してきたのでしょうか?人の悪口を言う母を見たことがありません。よくお月様や自然に手を合わせていましたが宗教は嫌いでした。
今にして思う母の強さ。優しさです。
だから私も自分の悩みや悲しみを母に話しませんでした。無言の教えを受けていたのかもしれませんし、私の幸せを望んでいる母を悲しませたくなかったのです。私は母の望みを叶えたくて自分が幸せになる努力をしました。
今は歯が一本もなく、痩せこけて骸骨のような顔になりました。お世辞にもきれいとは言えません。でも私には愛おしい顔です。行くたびに「愛しています」と唱えながら顔をマッサージしてリップクリームを塗り、口の中をきれいにします。
面会時間は午後の30分だけ。入院するときに病院から「突然亡くなることが多いので、死に目に会えないと思っていてください」と言われました。
私はその言葉がショックで「そんなバカな」「大事な人が息を引き取る時にはそばに居たい。そばに居るための時間も作れる」「1人では逝かせたくない」・・・とモヤモヤしていました。
そして「神様、母が逝く時はそばに居てあげられますように」と祈りました。義母が1人で眠るように逝ったのも心残りでした。
いつも眠っている母に大声で呼びかけると「はーい」「ありがとう」と言ってくれます。不思議なことに施設に居た頃より覚醒して、はっきり私を見て「わかってるよ」「頼んだよ」と言うことがあります。全てをわかっていて、私に全て任せたよ、と伝えたかったのでしょう。
そんな母の顔を両手で包んで頷くと「きれいね」と言ってくれました。そして「もういいから、早く帰りなさい」と言うのです。
この期に及んで「帰りなさい」か・・と泣き笑いしながら帰りますが、車の中でハッと思いました。
私は母の最期にはそばに居てあげたいと思っていたけど、これは私の執着だったかもしれない。母はもうすでに準備ができているし、この状況で1人で逝くのも含めて全てを受け入れているのではないかと。
私も母の生き方を尊重しようと思いました。全て母が決める事です。目の前にいる看護師さんに「ありがとう」と言いながら世界の片すみで消えていくのもよし。
私は心の中で、絶えず愛を送ります。そして会える間は「ありがとう」を伝えに車を走らせるのです。
どんな母だったかは子どもが主観的に感じるもの。
娘として、結婚して子どもを育てた母として、そしておばあちゃんとして、年を重ねるごとに母に対する思いが変わっていきました。
晩年は老後の生き方を教えてくれる存在となり、今は寝たきりで何もできない102歳の母が赤ちゃんのように愛おしく思えてくるから不思議です。
私の中の母は大いに美化されていると思います(笑)