アーカイブ: *霊的世界

夢のお告げの通りに武仁尊(神武天皇)の前に、“ヤタノカラス(八咫の烏)と称する翁”が現れて、その導きで大和の宇陀に至った ~プラズマ体で武仁尊のいる「6層」に姿を現したヤタノカラスの翁

竹下雅敏氏からの情報です。
 ウィキペディアの「神武東征」によれば、ホツマツタヱの伝承によく似た記述があります。

古事記
「神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると 神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大御神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで、“葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい”と命じたが、建御雷神は、“平定に使った大刀を降ろしましょう”と答えた。そして高倉下に、“倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい”と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都之御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。」

日本書紀
「磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。」

高倉下命が見た夢の中で、“武甕槌命が「経津の御魂の剣を倉に置く。これを武仁尊に差し上げなさい」といったので、「あいあい」と言ったところで夢から覚めた”というのですが、「ホツマ物語 神とオロチ 鳥居礼著 新泉社」によれば「天日天日(あひあひ)」で、天日(あひ)とは、“天のアマテル神の考えのままに”という意味だという事です。
 武仁尊(神武天皇)は、ヤタノカラスの導きで大和の宇陀(奈良県宇陀郡)に至ったのですが、夢のお告げの通りに武仁尊の前に、“ヤタノカラス(八咫の烏)と称する翁”が現れたのです。
 2015年1月5日の記事で、“ヤタノカラスとは、3本足の烏ではなく翁なのです。おそらく杖をついた老人だったのでしょう。私はこのヤタノカラスというニックネームが付けられた翁は、イスラエルの失われた十支族のレビ族の長老で、この辺りに住み着いていたのだと思います”とコメントしました。
 さらに詳しく調べると、ヤタノカラスの翁は、当時「肉体(狭義)」を3.0次元の「7層」に持っていたことが分かりました。ヤタノカラスの翁は霊能力者で、プラズマ体で武仁尊(神武天皇)のいる「6層」に姿を現したのです。
(竹下雅敏)
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【29 タケヒト、ヤマト討ちの綾】

http://hotumatutaye.com/wp/wp-content/uploads/2014/06/260610ほつまつたゑ全文.pdf
タケヒト,ヤマト打ちの紋(アヤ)
(前略)
ネブルトキ タカクラシタニ 眠る時 タカクラシタに
ユメノツゲ タケミカツチニ 夢の告げ タケミカツチに
ミコトオリ クニサヤケレバ 「国喧擾ければ
29-14 ナンヂユケ カミニコタエハ 汝行け」 神に答えは
ユカズトモ クニムケツルギ 「行かずとも 国平け剣
クダサント カミモウヱナリ 下さん」と 神も「宣ゑなり」
ミカヅチノ フツノミタマオ 「ミカヅチの フツの御魂お
クラニオク コレタテマツレ 倉に置く これ奉れ」
アヒアヒト タカクラシタガ 「あひあひ」と タカクラシタが
ユメサメテ クラオヒラケバ 夢覚めて 倉お開けば
ソコイタニ タチタルツルギ 底板に 立ちたる剣
29-15 ススムレバ キミノナガネノ 進むれば 君の長寝の
イヱサメテ モロモサムレバ 毒気覚めて 諸も覚むれば
イクサダチ ヤマヂケワシク 軍立ち 山路嶮しく
スエタエテ ノニシジマイテ 末絶えて 野にしぢまいて
スメラギノ ユメニアマテル スメラギの 夢にアマテル
カミノツゲ ヤタノカラスオ 神の告げ 「ヤタの烏お
ミチビキト サムレバヤタノ 導き」と 覚むればヤタの
カラスアリ オオヂガウガツ 烏あり 遠祖が穿つ
29-16 アスカミチ イクサヒキユク アスカ道 軍率き行く
ミチオミガ ミチオミが
(以下略)

「完訳 秀真伝 下巻 鳥居礼編著 八幡書店」を参考にすると、意味は次のようになる。

(武仁尊の率いる神軍は荒坂(三重県南牟婁郡荒坂村)まで進むことが出来た。その地で動物霊を操る丹敷戸(にしきど)が軍を拒み、妖気を吐きかけてきた。神軍は毒気に当てられ、みな疲れ伏し眠ってしまった。)
高倉下命(タカクラシタノミコト)に夢の告げがあった。武甕槌命(タケミカツチノミコト)に天照大神から「国が騒がしいので汝が行くがよい」と詔があった。武甕槌命が「私が行かなくとも、国を平定する経津の御魂の剣を下せば大丈夫でしょう」と答えると、天照大神も「もっともだ」と仰せになった。
 武甕槌命が「経津の御魂の剣を倉に置く。これを武仁尊に差し上げなさい」といったので「あいあい」と高倉下命が言った所で夢から覚めた。倉を開けて床に立ててある経津の御魂の剣を取り出し武仁尊に差し上げると、君は毒気による眠りから目覚め、一行も覚め軍を進めた。山道が険しく道もなくなり、野原で沈んだ気持ちで君がまどろんでいると、夢に天照大神の告げがあった。「ヤタノカラスを導きとせよ」
 目が覚めると、ヤタノカラス(八咫の烏)と称する翁が現れた。翁が切り拓いた飛鳥道を、道臣(ミチオミ)が軍を率いて進んで行った。

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第2システム国津神第5レベルへと解脱(昇進)した稀有な存在であるラーマリンガ・スワーミハルと、ハイアラーキーの最高峰にいた最も有名なマハー・アヴァター・ババジの存在界層

竹下雅敏氏からの情報です。
 ラーマリンガ・スワーミハルは、私が知る限り最も偉大な聖者です。彼は第1システム国津神第5レベルに所属していましたが、転生に入り進化段階を5段階上昇させ、第2システム国津神第5レベルへと解脱(昇進)した稀有な存在で、彼のような例を他に見たことがありません。
 「ババジと18人のシッダ マーシャル・ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ」によれば、ラーマリンガ・スワーミハルは1874年1月30日、50歳で「何の痕跡も残さずに姿を消した」とのことです。彼は肉体(狭義)を保持したまま、3.0次元の地球から、3.2次元のプレアデス星団のアルキオネ星・第5惑星に移住したようです。
 ラーマリンガ・スワーミハルの驚異的な達成は、彼がハイアラーキーに所属していなかったことが大きいと思います。彼の魂(ジーヴァ)は、ハイアラーキーの覚者とは異なり「下位の動物システム」に転落することなく、通常の位置(コーザル界の1層)にあったのです。
 命あるものへの優しさと思いやりから、「神の愛や恩寵」がたやすく得られたため、急激な進歩を遂げたと思われます。この辺りが、「神」ではなく実のところ「魔神」を崇拝する宗教や、「神」を否定し自力による解放を目指す宗教との違いではないでしょうか。
 ハイアラーキーの最高峰にいた人物で最も有名なのは、マハー・アヴァター・ババジ(ババジ・ナガラジ)でしょう。パラマハンサ・ヨガナンダの名著「あるヨギの自叙伝」で、世界的に知られるようになりました。
 「あるヨギの自叙伝」によると、マハー・アヴァター・ババジは弟子のラヒリ・マハサヤをヒマラヤ山中に呼び寄せます。ババジはラヒリ・マハサヤの過去世での「豪華な宮殿を見たい」という願望をかなえるために、ヒマラヤ山中に宮殿を物質化するのです。
 「あるヨギの自叙伝」では、まるで我々の世界の出来事のように記述されていますが、これはババジのいた「3.0次元の6層」での出来事です。ラヒリ・マハサヤはこの界層に肉体(狭義)で行ったのではなく、プラズマ体での体験なのです。
 ババジはラヒリ・マハサヤの弟子スワミ・スリ・ユクテスワの前に姿を現しました。こちらのブログには、その場所の写真があります。ババジは3.0次元の「6層」から、我々のいる3.0次元の「7層」へと自在に姿を現すことが出来ることが、このエピソードから分かります。
 「あるヨギの自叙伝」には、パラマハンサ・ヨガナンダの師スワミ・スリ・ユクテスワが、死後にヨガナンダの前に姿を現す場面が描写されています。しかし、これはヨガナンダがサマーディ(三昧)に入っているときの出来事で、先のババジがユクテスワの前に現れた時のものとは異なります。
 ユクテスワは死後、肉体の衣を脱いで「霊体」で復活します。人は誰でも死後に霊体で復活するので、これは特別なことではありません。ユクテスワはヨガナンダにヒラニャローカという幽界の星に生まれ変わったと言っているのですが、実際にはオリオン座β星・リゲルの第3惑星で、「幽界」ではなく「プラズマ界」です。ヨガナンダの前に姿を現した時もプラズマ体でした。
 サマーディ(三昧)の体験がない人には、このようなことはとても特別で「神聖」な出来事のように見えると思うのですが、実際にはサマーディ(三昧)の体験としては初歩のレベルです。アーユルヴェーダの解説シリーズの24回目の「ヨーガ・スートラの三昧体系」の有尋三昧に過ぎず、22回目の「仏教の禅定階梯」では、初禅ですらなく欲界の三昧に過ぎないことが分かります。ラーマリンガを除いて、地球の宗教のレベルが著しく低いと感じるのは、こうした事によります。
 2019年6月3日の記事で、私は「サナット・クマーラとマハー・アヴァター・ババジの両名に会った」ことを記していますが、こうした体験に重きを置かないことが大切だと思います。こうした体験に囚われると、更なる進歩の妨げになります。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「ババジと18人のシッダ マーシャル・ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ」より要約

ラーマリンガ・スワーミハル(1823-1874)
Wikimedia_Commons[Public Domain]
(画像はシャンティ・フーラが挿入)

P160
ラーマリンガは、1823年10月5日、マルドゥール(Marudur)村で生まれた。
(中略)
p162~163
1867年、彼は貧しい人々に食物を与えて、旅行者や生活苦にあえぐ老人たちを温かく迎えるための慈善施設をこの地に作った。この施設の落成式は3日間にわたって行われ、この間に約1万人に食物が施された。
 
ラーマリンガの論文Jeevakarunya Ozhukkamの前半がこのときに発表された。この論文には、すべての生き物に対して慈しみの念を抱くという彼の教えの基本原則が示されていた。ここでラーマリンガは「サンマルガム」(Sanmargam)、すなわち、すべての生き物に対して慈しみの心を持つ「公正なる道」に沿った生き方を提唱したのであった。
 
優しさは人間の生来の特質であることを彼は説いた。神はあらゆる生き物の中に宿っているので、命あるものに優しさと思いやりをもって接することは、すなわち神に愛と優しさを示すことである。慈悲心に溢れる人は、神の愛や恩寵によって満たされることをラーマリンガは説いた。
 
P167
1874年1月30日、50歳になったラーマリンガは、帰依者に対して次のような声明文を発表した。
「親愛なる皆さん! 私はしばしの間皆さんの前から姿を消さねばならない。案じることはない。ランプの[光](Gnana Deepam)を永遠に灯し続けなさい。神がそこにおられることを思い描いて光を崇めなさい。あなた方は十分に報われるであろう。私は今この肉体の中に在るが、ほどなくして神のすべての被造物の中に入るであろう。私の部屋の扉を閉めて外から鍵をかけなさい。指示されて扉を開けた時には、室内は空であろう」
 ラーマリンガはこう言い残してメットゥクッパム村にある小屋に籠った。その夜、帰依者たちがラーマリンガの部屋の外で、「至高の恩寵の光よ。至高の恩寵の光よ。我らの上に降りたまえ。至高の恩寵の光よ」と唱え続けていると、突然、紫色の閃光がラーマリンガの部屋から輝いた。それはラーマリンガが「神のすべての被造物」と融合したことを告げるものであった。後に扉が開けられたとき、室内は空であった。ラーマリンガは何の痕跡も残さずに姿を消したのである。
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あるヨギの自叙伝の感想と解説。
引用元)
(前略)

マハー・アヴァター・ババジ -パラマハンサ・ヨガナンダの著書『あるヨギの自叙伝』よりWikimedia_Commons[Public Domain]
(画像はシャンティ・フーラが挿入)

ババジは、聖者ラヒリ・マハサラを山中に呼び寄せます。昔、聖者ラヒリ・マハサラが豪華な宮殿を見たいと述べたことがあり、ババジはその願いを叶えてくださったのです。(中略)… 庭園の中には無数の宝石に飾られてあり、高いアーチに飾られた通路には、大きなダイヤモンドや、サファイアや、エメラルドなどの宝石がちりばめられていました。無数の宝石に飾られた宮殿は例えようもない美しさで立ってました!

ババジはこの世界は神の夢が具現化したものであり 、夢の中で夢を観てるのと同じに、夢から覚めるとこの宮殿も消えると言い、聖者が目を瞑ったら消えてしまいました。

ユクテスワが後日愛弟子のヨガナンダの目の前に現れる

ユクテスワは体を纏って現れ 、ヨガナンダがしっかりと霊体の腕を掴んで確かめようとしている場面が圧巻です。ヨガナンダは肉体を脱いだ師匠に、今何処に居られるのですか?と訪ねます。

師匠であるユクテスワの以下のような言葉があります。

ヒラニャローカだ、ちょうど預言者たちが、地上の人々の肉体的カルマの成就を助けるために地上につかわされるように、わたしもまた幽界の人々の救済者として奉仕するよう」神から命じられたのだ」

わたしはそこで、霊的に進化した人々の幽体的カルマを取り除き、幽界での生まれ変わりから開放されるよう手助けするのだ

「ヒラニャローカに生まれて来る人たちは、地上で死んだ人々のほとんどが行かなければならない普通の幽界の生活をすでに卒業した人たちだ。」

「かれらはここで、前の幽界生活でまいたカルマの種子を完全に取り除くのだ。(地上から来て、まだ地上のカルマを少しでも身につけている魂は、ヒラニャローカのような高い幽界の星にすぐに昇ることはできない)」 
P429~P430
(以下略)

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中国道教の「八仙」 の唯一の女性の仙人である何仙姑(カセンコ)は、本当は「ホツマの神」だった! ~他の仙人たちとは進化段階がほぼ60段階異なる

竹下雅敏氏からの情報です。
 1月3日の記事のコメントで、“開化天皇と伊香色謎姫は崇神天皇を産む前には、肉体(狭義)の「身体」の焦点は3.0次元の「6層」にあるのに、崇神天皇を産んだ後は「7層」に落ちてしまう…これは、仙道の最奥義「白日昇天」の逆で、我々から見れば通常では見えない存在が、ある時を潮に忽然と物質化したように見えます”と記したのですが、「ホツマの神々」の一団がある時に次元の界層を降下するということが果たして起こり得るのか?
 コーリー・グッド氏はナチスが戦車などを火星に送るのに、自然のポータルを使っていたと言っていますが、このような事でも想定しない限り、有り得ない出来事に思えます。
 そこで、今回は「白日昇天」をしたと言われている仙人が、実際はどうだったのかを調べてみましょう。
 「光の海から」のヴィジョンは、2012年7月24日(旧暦6月6日)の午後6時から1時間の間、私の妻である瓜生姫中子(ウルウヒメナカコ)が光を降ろした時のものです。2011年以降は、主に宇宙の物理的次元の改革に重きを移していましたので、このときのヴィジョンで最初に出てきたのは、神仙の何仙姑(カセンコ)でした。イラストに描かれているのは、肉体(狭義)の「身体」です。
 私の解説にある通り、彼女は中国道教の「八仙」 の唯一の女性の仙人という事になっているのですが、本当は「ホツマの神」です。彼女以外の八仙は皆、仙人で「人」であり、同列に扱うべきではないと感じます。何仙姑(カセンコ)の進化段階は64.0であり、第1システム天津神第5レベルに属しています。他の仙人たちとは、進化段階がほぼ60段階異なります。
 イラストをご覧になると彼女は20代に見えますが、伝承からは少なくとも1300歳以上という事になります。彼女が持っているのが、西王母が管理していて三千年に一度だけ実を結ぶとされ、食すと不老長生が得られるという「蟠桃(ばんとう)」の花で、ホツマツタヱでは「三千実(みちみ)の桃」と呼ばれていました。
 何仙姑の肉体(狭義)の「身体」の焦点の存在界層は、西王母が居たところと同じだと分かります。彼女は肉体(狭義)を持ったまま「白日昇天」したので、私達のいる「7層」に現れて姿を見せることも自在だと思います。
 張道陵(ちょうどうりょう)、鍾離権(しょうりけん)、呂洞賓(りょどうひん)といった高名な仙人も調べて見ました。張道陵は、“白日昇天し、神仙になった”とありますが、彼は「神」ではありません。「昇天」したことになっているのですが、実際は3.0次元の「6層」の火星に移ったようです。
 鍾離権と呂洞賓は、これまで私たちと同じ「7層」の地球に居たようです。恐らく、地上から地下のアガルタへと移ったのではないかと思われます。ただ、残念なことに、この2人は「天界の改革」で滅びてしまいました。
 最後に、現在、崑崙山(こんろんさん)に住み、全ての神仙、女仙、仙人を統べるのは何仙姑(カセンコ)です。こうしたヴィジョンに姿を現すのはこのような意味があるからです。西王母は「天界の改革」で滅びました。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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何仙姑
カセンコ
道教
神仙・八仙の一人
 八仙の中で唯一の女性である仙人。雲母を食べて仙人になったという伝説がある。
 広東省増城県の何泰(かたい)の娘で、生まれたとき頭の上に六本の毛が生えていた。則天武后(在位690~705)の時代に十四、五歳だった彼女は母とともに雲母渓に住んでいた。そのころ、夢に神人が現れて「雲母を食べれば不老不死になれる」とお告げがあったので、その通りにした。すると体が軽くなり、空を飛んで自由自在に野山を駆け回れるようになった。母が死んでから辟穀(穀物を食べないこと)をするようになると、もはや生身の人間とは思えない超俗の雰囲気が出てきた。うわさは広まり、則天武后が使者を送って会おうとしたが、その途中で彼女は使者の前から消えてしまい、ついに会えなかったという。
 何仙姑は則天武后の死後に白日昇天したといわれるが、その後も五色の雲に包まれて姿を現すことがあったという。
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7月24日のヴィジョンと竹下氏による解説
引用元)
(前略)
①最初に見えた女神様。
何かにもたれかかって、枝の花の香りを楽しんでいらっしゃいました。
大変気品があり、立ち姿もしなやかで美しい高貴な女神様でした。
 
『彼女は中国道教の八仙の唯一の女性の仙人である何仙姑(カセンコ)です。伝承では仙人となっていますが、ホツマの神です。』
(以下略)
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張道陵
チョウドウリョウ
道教
五斗米道の開祖
 太平道と並ぶ、中国最古の道教教団・五斗米道の開祖。
 『神仙伝』によると、後漢末の沛国(はいこく)(安徽省(あんきしょう))出身の人で、若いころは儒教を学んだ。
 だが、「これでは寿命は伸びない」と悟ってから長生法を学び、
金丹の調剤に取り組んだ。貧乏だったのでもっと暮らしやすい場所を求めて弟子とともに蜀(四川省)に移り、鵠鳴山で修行を積んだ。と、ある日、無数の天人が降り、道陵に「正一明威の道」というのを授けた。それからというもの道陵はよく病を治すことができるようになり、ここに数万の信徒が集まった。その後、道陵は大いに教団の体制を整え、最後は趙昇、王長という優れた弟子とともに白日昇天し、神仙になったという。
 なお、張道陵自身はその宗教を天師道と呼んだが、彼の孫の張魯(ちょうろ)が病人から五斗の米を受け取って治療したことから、五斗米道と呼ばれるようになったという。
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孚佑帝君
フユウテイクン
道教
八仙の筆頭
 八仙(中国の代表的な8人の仙人)の筆頭である呂洞賓(りょどうひん)のこと。呂祖とも呼ばれる。民衆道教の教祖とまでいわれる中心的神格で、心から祈れば必ず応えてくれる万能力があり、中国における人気は絶大である。呂祖の像は剣を背負っており、その剣は貪欲、怒り、愛欲、煩悩を断じるといわれる。
 呂祖は798年生まれで、若いころ科挙の試験に落第した。そんなとき、居酒屋である老人に出会うと、ちょっとうたた寝した隙に一生の出来事を夢に見てしまった。実はその老人こそ仙人の鍾離権(しょうりけん)で、人生のはかなさを呂祖に教えたのだった。そこで、呂祖は鍾離権の弟子となり終南山で修行を積んだ。やがて、師匠は天に昇って天仙となり、後のことを呂祖に託した。このとき、呂祖は民衆の災いをすべて取り除くまで昇天しないことを誓ったが、その約束どおり、現在も地上にとどまり、民衆済度につくしているという。

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第9代開化天皇の過ちにより、「ホツマの神々」の一団が3.0次元の「6層」から「7層」に転落してしまった事件

竹下雅敏氏からの情報です。
 今回は、ホツマツタヱの記述では何も不自然なところは無いにもかかわらず、その本質では最も理解が困難な箇所です。私自身がいまだに良く分からない部分なのです。
 「ホツマの神々」が約3500万年前から現在に至るまで、3.0次元の肉体に転生に入っていることは分かっていました。私自身が「ホツマの神」であり、日本がその中心とはいえ、日本以外にも「ホツマの神々」が地球に「人」として転生に入ることは、例えば金正恩氏の例を見ても分かります。また、転生に入っている「ホツマの神々」のほとんどは無名のままで、自身が「ホツマの神々」の一柱であることを自覚していません。そのくらい肉体に転生すると、無明(無知の暗闇)に覆われてしまうのです。
 天照大神、神武天皇などのホツマの神が実在の人物で、3.0次元に肉体を持って地球に転生に入っていたことは何度も確かめていましたが、不可解なのは彼らの寿命です。天照大神は寿命が長すぎ、神武天皇はそれまでの神々に比べて短すぎるのです。
 この謎がようやく解けたのは最近のことで、3.0次元の肉体(狭義)といっても、「5層」「6層」の違いがあることが分かりました。私たちが認識している肉体(狭義)は「7層」です。
 今回は、第9代開化天皇の過ちにより、「ホツマの神々」の一団が「6層」から「7層」に転落する事件です。記事をご覧になると分かるように、白人(シラヒト)、胡久美(コクミ)と類似した過ちを犯したことで、開化天皇を中心とする一団が「7層」に転落してしまいます。
 不思議なことですが、開化天皇と伊香色謎姫は崇神天皇を産む前には、肉体(狭義)の「身体」の焦点は3.0次元の「6層」にあるのに、崇神天皇を産んだ後は「7層」に落ちてしまうのです。そして、歴史家は崇神天皇以降の天皇を実在と見なします。
 これは、仙道の最奥義「白日昇天」の逆で、我々から見れば通常では見えない存在が、ある時を潮に忽然と物質化したように見えます。こんなことが果たして起こり得るのか?
 中西征子さんの天界通信61の「ひとみちゃん」は、ガヤトリー・マントラによって、飛躍的な進歩を遂げて女神となり、肉体(狭義)の「身体」が3.0次元の「6層」から、3.3次元の「6層」に変化したことを2020年12月6日の記事でお伝えしました。上昇の例があるので、下降して3.0次元の「7層」に移ることも理論上はあり得るのは分かりますが、納得しがたいのは事実です。
 また、2020年12月13日の記事で、第一根幹人類は「5層」、第二根幹人類は「6層」、第三根幹人類(レムリア人種)以降は「7層」に肉体(狭義)の「身体」があったことを示しました。神智学では、第一根幹人類はアストラル体、第二根幹人類はエーテル体であったと考えている様なのですが、これは間違いであると指摘しました。しかし、いずれにせよ、どの様にして「6層」に居た第二根幹人類から、「7層」の第三根幹人類(レムリア人種)が生まれたのかは、分からないのです。 
 ここでも、開化天皇と伊香色謎姫、崇神天皇の場合と同じ困難がつきまとうのです。この部分が解明できれば、全ての謎が解けると思っています。
(竹下雅敏)
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【32 藤と淡海瑞の紋】


https://www.gejirin.com/hotuma32.html
ほつまつたえ 人の巻32 ふしとあわうみみつのあや 【ふじとあわ海 見つの文】

(前略)
ときあすす ゐもむそふゆ   時アスズ     五百六十年冬
 
そふ かすかいさかわ   十月の十二日   春日率川
 
にいみやこ みことしゐそひ   新都       皇子 歳五十一
 
ふそ あまつひつきお   十一月の二十日  和つ日月
 
うけつきて いむなふとひひ   受け継ぎて    斎名フトヒヒ
 
わかやまと ねこひこあめの   "ワカヤマト    ネコヒコ天の                          (開化天皇)
 
すへらきと たみおかま   " と      民に拝ませ
                         (陽陰の御孫の典)
 
ははあけ そふのきさきも   母も上げ     十二の后も
                (ウツシコメ)
 
さきあり あくるきなゑお   先にあり     明くるキナヱを
                          (アスズ561年)
 
はつのとし としはつそふ   初の年      七年一月十二日
                         (アスズ567年)

いきしこめ たてうちみや   イキシコメ    立てて内宮                 (=イカシコメ)

これのさき きみめすときに   これの先     君召す時に
 
おみけぬし いさめもふさく   オミケヌシ    諌め申さく
                (ミケヌシの子)
 
きみきくや しらうとこくみ   「君 聞くや     シラウドコクミ  

ははおかす かないまあり   母 犯す      汚名 今にあり
                 (サシミメ)
 
きみまねて かなおかふるや   君 真似て     汚名を被るや」
(以下略)
 
「完訳 秀真伝 下巻 鳥居礼編著 八幡書店」を参考にすると、意味は次のようになる。
 
天鈴560年(紀元前208年)の冬、10月12日、春日(奈良市)の率川(いさかわ)の宮に都を遷した。皇子は51歳であった。11月12日に君の御位を受け継ぎ、諱フトヒヒ、ワカヤマトネコヒコアメノスメラギ(開化天皇)となった。君は正装を民に拝ませ、母親を御上后とし、12人の后もすでに定まっていた。翌キナヱの年を元年とした。
7年1月12日にイキシコメ姫(伊香色謎姫)を内宮にした。これより先、君がイキシコメ姫を召そうとした時に、大御気主命(オオミケヌシノミコト)は君を諫めて申し上げた。「君はお聞きになられたことはございませんか。昔、白人(シラヒト)、胡久美(コクミ)の二人が母と娘を犯した汚名は今に伝わっております。君も同じことをして、汚名を被るおつもりですか。」

開化天皇は大御気主命の言葉に耳を貸さず、大御気主命は「これでは我が御親神が見放すでしょう。」と言って去って行ったという事です。

http://www.tukinohikari.jp/nenpyou/index.html
天照神の年表
(『完訳 秀真伝』の巻末資料、『 注釈 上紀(うえつふみ) 』より)


(前略)
紀元前
208年


















天鈴(あすず)510年
第8代孝元(こうげん)7年


















2月2日、鬱色謎(うつしこめ)姫を内宮に冊立。
兄の鬱色雄(うつしこお)命をケクニ臣と定める。
12月1日、鬱色謎(うつしこめ)姫が日の出と共に、
諱〔太日日(ふとひひ)〕、稚日本根子彦(わかやまとねこひこ)尊〔のちの開化天皇〕を生む。
(以下略)

系図を見ると良く分かりますが、イキシコメ姫(伊香色謎姫)は、孝元天皇の后です。開化天皇の母にあたる女性を内宮にしたことになります。開化天皇と伊香色謎姫の間に第10代崇神天皇が生まれます。この崇神天皇は実在が確実視される人物です。

白人(シラヒト)、胡久美(コクミ)の事件については、こちらのブログをご覧ください。

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3.0次元の「5層」に転生に入っていた「ホツマの神々」の没落の始まり

竹下雅敏氏からの情報です。
 冒頭の系図をご覧ください。ニニキネとアシツ姫 (コノハナサクヤ姫) の間に生まれた三つ子の三男である彦火火出見尊(ヒコホオデミ、山幸彦)は、第3代大物主の子守神の娘、イソヨリ姫を内侍とします。天皇の后は典侍(スケ)、内侍(ウチメ)、下侍(シモメ)に順に位が下がります。内侍は中位の后です。
 系図を見ると分かりますが、驚いたことに彦火火出見尊はイソヨリ姫を後に賀茂建角身命(カモタケツミ)の妻として下すのです。いくらでも美しい女性を妻に出来る身分とは言え、自分の妻を部下への褒美として与えるというのは、女性をモノだと見做しているとしか思えないものです。この辺りから3.0次元の「5層」に転生に入っていた「ホツマの神々」の没落が始まっていたのではないかという気がします。
 系図をご覧になると、彦火火出見尊の子・鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアワセズ)と、以前の妻のイソヨリ姫の子・玉依姫との間に生まれたのが神武天皇です。しかも、これから見るように、玉依姫に関しては略奪婚の可能性があります。
 私には相容れない感覚で、この一族が「天界の改革」で滅ぼされたのもやむを得ない所です。
(竹下雅敏)
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前回の記事で、玉依姫(タマヨリヒメ)が「白羽の矢」によって身籠り、後に御毛入尊(ミケイリノミコト)と名付けられる子を産んだという伝承を紹介しました。

https://www.gejirin.com/src/Ta/tamayorihime.html
タマヨリヒメ
→ 語義

玉依姫。 
カモタケズミイソヨリ姫娘。コモリおよびハテスミの孫。
なかなか子が出来なかった二人が、ワケツチ神に祈って賜った娘。 白羽の矢によりミケイリを生み、日似山麓の出雲路森(高野の森)に隠れ住む。 
その後ウガヤ内局になってイナイイを生み、さらにウガヤの内宮になってカンヤマトイハワレヒコを生む。


ホツマツタヱによれば、“人々はその矢を「別雷の神」だと噂した”という事でした。別雷神は「アマテルがニニキネに授けた名」であり、噂された「矢」はニニキネという事になるはずなのですが、前回の記事のコメントで「白羽の矢」は大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしました。
 今回はその根拠となる伝承を見て見ます。

https://www.gejirin.com/src/Ya/yamakui-yamakuhi.html
ヤマクヒ・ヤマクイ・ワカヤマクイ
→ やまくひ わかやまくい

山咋(山構ひ)。若山咋(分山構ひ)。
ホツマツタヱには記述がないが、古事記の記事を信じれば、オオトシクラムスビの子。
ニニキネの命により山背の野を掘り、その土をオキツボの峰に盛って大日山を模した日似山(一枝山)を造る。

ワカヤマクイ (古事記に大山咋の甥とある) は「分山構ひ」の意で、「分山」とは「大日山」を写した「日似の山」を指すものと思われ、これはヤマクヒと同一人物と推測する。
 
一時シノ宮に居たらしく、シガの守が海幸彦の鉤を返しに行く時に招かれている。ウガヤは都を多賀に移して以降は、シノ宮の地域はヤマクイが治めを預かったと推測される。

高野の森に隠れ住んでワケツチ神を祭るタマヨリ姫への勅使となり、姫を宮に迎える。
(中略)
(以下略)
 
大山咋神(おおやまくいのかみ)は、大年神(おおとしのかみ)と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子とされています。
 ホツマツタヱの伝承では、ニニキネの命により山背の野を掘り、その土をオキツボの峰に盛って日似山(比叡山)を造ったということです。
 この記事では、ワカヤマクイと同一視していますが別の神で、“古事記に大山咋の甥とある”と書かれている通りだと見て良いでしょう。

https://www.gejirin.com/src/Wa/waketuti.html
ワケツチ
→ 語義

分土。別地。
「(川に)分けられる土地」の意で、カモ(賀茂)カアヒ(河合)の同義語。
狭義には下賀茂の区域であるカアヒ(河合)に対して、上賀茂の区域を指す。
(中略)

ワケツチミヤ
→ 語義
  
分土宮。別雷宮。
当初は神山 (ワケツチ山) にあった。ワケイカツチ神 (ニニキネ) を祭る。 トヨタマ姫がこの山にニニキネを纏ったことが起源のようだ。
垂仁天皇オオカモツミをして現在地に遷したか。
ウガヤから三種八重垣剣を預かるタマヨリ姫は、世を去る前に、ここに八重垣剣を預ける。

京都府京都市北区上賀茂本山、賀茂別雷 (カモワケイカヅチ) 神社
 
ワケツチ(分土、別地)とは上賀茂の区域を指す言葉であり、ワケツチミヤ(分土宮)には別雷宮という漢字をあてて、“ワケイカツチ神 (ニニキネ) を祭る”とあります。また、賀茂別雷 (カモワケイカヅチ) 神社との関連を示しています。
 この辺りの伝承は混乱していて分かりにくいのですが、私は人々が噂した「白羽の矢」の正体である「別雷神」とは、ニニキネではなく、比叡山を造った功績によりこの辺りの地域を治めていた大山咋神(おおやまくいのかみ)だと考えています。
 
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