注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
高仁尊、伊佐子。西南の筑波の伊佐宮で婚礼が行われる。
伊奘諾尊、伊奘冉尊となる。
伊奘諾尊(40歳) 伊奘冉尊(31歳)
伊奘諾尊(40歳) 伊奘冉尊(31歳) 昼子姫(1歳)
伊奘諾尊(42歳) 伊奘冉尊(33歳) 昼子姫(3歳) (3-4)
・天の節に当たり、葦船に乗せて流す。(3-5)
●淡路(近江)の八尋殿でヒヨル子、流産する。
●天の原見山(富士山)の原宮で天照神の誕生。 96ケ月(8年)後に。 (3-9)
①日高見
②筑紫
③葦原淡国(全国国作り)
④原見山
●筑紫、月隅(九州)で月読尊の誕生。(3-10)
●熊野宮(素戔:ソサ)で素戔鳴尊の誕生。(3-11)
●熊野(伊奘冉尊の神上がり)(5-6)
●天照神、原見山(富士山)の宮へ遷宮。(6-1)
②日高見仙台宮
・忍穂耳尊は豊受神より天の道の奥義を学ぶ。30年間。
後に、この宮は忍穂耳尊が天照神より譲り受ける。(28-)
③大山本日高見安国宮(富士山)(6-2)
(以下略)
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このような世界観は、一般人にはトンデモで完全にナンセンスだと思いますが、ホツマツタヱや神智学の世界観では、十分に整合するものなのです。
ホツマツタヱには、鈴木暦、天鈴暦が記されており、年代を正確に知ることができます。3月4日の記事では、「日ユ同祖論」の誤りを指摘しました。この中で、ホツマツタヱの年表を紹介しました。この年表は、ところどころに計算間違いがありますが、そのほとんどは正確なものです。年表の冒頭にある紀元前3億年は誤りで、正確には紀元前33,000,717年が鈴木暦の開始です。
記事の「日本古代史年表」は、イザナギ、イザナミの婚礼から始まっていますが、先の年表によると、これは紀元前1,794,718年のことです。原見山というのは富士山のことで、紀元前1,793,187年に天照神が誕生します。イザナミは子をはらんで96か月(8年)の後に天照神を生んだとされます。天照神が原見山(富士山)の安国宮に遷座したのは、紀元前1,793,100年です。
「日本古代史年表」の引用元をご覧になると、天照神の寿命は1,732,500歳で、先の年表では紀元前60,687年に神上がっています。約173万歳というのは特別なものではなく、先の年表によれば、天児屋根命は156万歳。積葉八重命は84万歳。また、紀元前5年に、倭姫命は208万歳になる猿田彦命に会ったと書かれています。
また年表では、大己貴命(奇杵)が出雲に大社を築いていることが発覚し咎められ、国譲りをしたのは大己貴命が5,620歳の時のことであり、紀元前1,555,090年となります。ホツマツタヱには、このような驚くべき情報が正確に記述されているのです。
多くの研究者は、あまりにも数字が大き過ぎるので、75万年は75年だろうと勝手に解釈して、自分の世界観に合うように辻褄を合わせているのですが、実のところ、文字通り受け止めるべきなのです。というのは、これらの数字は私の直感と完全に合致するからです。何度調べてもこの数字になります。アカシックレコードが正確に読める人なら、同じ結論になると思います。もっとも、アカシックレコードが正確に読めるようになるには、進化段階が4.0以上なければならないかも知れません。
“続きはこちらから”をご覧になると、“ハラミ山麓が古代から文明の一大拠点だったことは疑いない”と書かれているように、ホツマツタヱを素直に読むと、超古代に富士山麓に「富士王朝」があったのは確実だと言えるのです。
しかし、その王朝の血筋とあべぴょんは何の関係もありません。現在、この王朝の血筋を受け継いでいるのは、伏見(宮)家など、八咫烏が守護している北朝の家系です。