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特集記事 「道しるべを探して・・・4」 12月号
例えば町おこしをするため、ひとつのある町の情景に、政治家、事業家、芸術家、または教育者といった人達が相対したとします。彼らの相対する対象は同じひとつのものですが、その対象に対して目を向ける部分、受け取る印象、またはその町の表現といったものは、それぞれ異なってくるはずです。その異なった違いに正邪や優劣はなく、むしろ違いがあってしかるべきです。その違いこそが、個性もしくは主体性と表現されるものです。そして、それらの個性、主体性が互いにかみ合ってこそ、皆が共有できる新たな町や価値が生み出されます。
夢と創造
本年度(社)○○青年会議所は、「永続可能な地球(ほし)づくり」を・・・テーマに、各事業を展開してまいりました。そして、そのキーワードとしたのが、「夢」の一文字でした。(中略) 夢は私達が生きていくための、原動力となるものでもあり、それは各人の想像力によって描かれ、外部的な環境のみならず、自己自身も形成していく力ともなります。想像力は同時に創造力でもあります。そしてこの想像力を生み出すもとになるのが、感性に他なりません。
そういった意味において、感性ほど大切で貴重なものはなく、同時に人間的で正常な感性を失う恐ろしさも他にありません。恥ずかしさや痛みを感じなければ、どのような卑劣で残虐な行為を犯したところで平気であり、平気である以上その行為の連続から抜け出すことも出来ないからです。
一人の人間として自立していけるよう、個人としての感性を育んでいくこと、そして、人と人の間に生きているものとして、互いに響き合える、共感という感性を磨いていくことが、人間が人間らしく生きていくために、欠かすことのできないものだと考えます。
ひとに成るということ
私達は胎内にいるとき、単体細胞から哺乳類までの、地球上での生物の進化の歴史を全て通過経験して、人として誕生してくると聞いています。人は地球上最も進化し高い能力を備えた生物として誕生してくるわけです。ただし、能力の優れた進化した生物といった意味だけでは、・・・動物の一種のヒトであるに過ぎないのではないでしょうか。
「人間の尊厳性」といった言葉がありますが、人はその行為、人間らしい行為によって人間に成っていく存在であると捉えます。そこに尊厳性が付与されるのです。
逆にいえば、人は誕生した以上ヒトではあっても、その行為において非人間化していく危うさも秘めた存在であるということでもあります。こういった意味を踏まえて、この特集の4月号にて、次のような投げかけをさせていただきました。
「森に住んでいた猿の群れの中で、・・・地上に降り立っていったグループ・・・それがヒトへと進化していったと言われている。しかし、行動力と好奇心だけで人間へと成れたのではない。・・・自らの存在の痛みを感得し、仲間の死を悼み、おのずから花を手向けざるを得ない心が働いた時、そのグループは人間と称されるべき存在へとなった。それが私達の祖である。」
今を生きていくということ
本年1月より開始したこの特集では、「人間が真に人間らしく生きられる道」を問い、その道しるべを模索する試みをしてまいり、和の精神、生命重視循環システムへの転換の投げかけをさせていただきました。この間にも凄惨な事件は後を絶たず、世界は混迷から動乱の時代に入ってきたようです。
しかし、こういった時代性だからこそ、一人一人が自らの感性を逞しく育み磨き、いたずらに世情に振り回されるだけでなく、自他共に生きられる道を、自らの責任によって、選択していくことが必要なのだと思います。
年間数万人の自殺者が出、数々の病理現象が現れている日本の現在ですが、自らの心を澄ませて行けば、この私達の生きている世界は、そう悪く捨てたものではありません。(中略) 自らの責任における選択によって、自己自身を、新たな21世紀を形成創造していくことが何よりも大切であると考えます。・・・
1年間のご愛読ありがとうございました。・・・ご協力いただいた皆様に改めてお礼を申し上げます。
例えば町おこしをするため、ひとつのある町の情景に、政治家、事業家、芸術家、または教育者といった人達が相対したとします。彼らの相対する対象は同じひとつのものですが、その対象に対して目を向ける部分、受け取る印象、またはその町の表現といったものは、それぞれ異なってくるはずです。その異なった違いに正邪や優劣はなく、むしろ違いがあってしかるべきです。その違いこそが、個性もしくは主体性と表現されるものです。そして、それらの個性、主体性が互いにかみ合ってこそ、皆が共有できる新たな町や価値が生み出されます。
夢と創造
本年度(社)○○青年会議所は、「永続可能な地球(ほし)づくり」を・・・テーマに、各事業を展開してまいりました。そして、そのキーワードとしたのが、「夢」の一文字でした。(中略) 夢は私達が生きていくための、原動力となるものでもあり、それは各人の想像力によって描かれ、外部的な環境のみならず、自己自身も形成していく力ともなります。想像力は同時に創造力でもあります。そしてこの想像力を生み出すもとになるのが、感性に他なりません。
そういった意味において、感性ほど大切で貴重なものはなく、同時に人間的で正常な感性を失う恐ろしさも他にありません。恥ずかしさや痛みを感じなければ、どのような卑劣で残虐な行為を犯したところで平気であり、平気である以上その行為の連続から抜け出すことも出来ないからです。
一人の人間として自立していけるよう、個人としての感性を育んでいくこと、そして、人と人の間に生きているものとして、互いに響き合える、共感という感性を磨いていくことが、人間が人間らしく生きていくために、欠かすことのできないものだと考えます。
ひとに成るということ
私達は胎内にいるとき、単体細胞から哺乳類までの、地球上での生物の進化の歴史を全て通過経験して、人として誕生してくると聞いています。人は地球上最も進化し高い能力を備えた生物として誕生してくるわけです。ただし、能力の優れた進化した生物といった意味だけでは、・・・動物の一種のヒトであるに過ぎないのではないでしょうか。
「人間の尊厳性」といった言葉がありますが、人はその行為、人間らしい行為によって人間に成っていく存在であると捉えます。そこに尊厳性が付与されるのです。
逆にいえば、人は誕生した以上ヒトではあっても、その行為において非人間化していく危うさも秘めた存在であるということでもあります。こういった意味を踏まえて、この特集の4月号にて、次のような投げかけをさせていただきました。
「森に住んでいた猿の群れの中で、・・・地上に降り立っていったグループ・・・それがヒトへと進化していったと言われている。しかし、行動力と好奇心だけで人間へと成れたのではない。・・・自らの存在の痛みを感得し、仲間の死を悼み、おのずから花を手向けざるを得ない心が働いた時、そのグループは人間と称されるべき存在へとなった。それが私達の祖である。」
今を生きていくということ
本年1月より開始したこの特集では、「人間が真に人間らしく生きられる道」を問い、その道しるべを模索する試みをしてまいり、和の精神、生命重視循環システムへの転換の投げかけをさせていただきました。この間にも凄惨な事件は後を絶たず、世界は混迷から動乱の時代に入ってきたようです。
しかし、こういった時代性だからこそ、一人一人が自らの感性を逞しく育み磨き、いたずらに世情に振り回されるだけでなく、自他共に生きられる道を、自らの責任によって、選択していくことが必要なのだと思います。
年間数万人の自殺者が出、数々の病理現象が現れている日本の現在ですが、自らの心を澄ませて行けば、この私達の生きている世界は、そう悪く捨てたものではありません。(中略) 自らの責任における選択によって、自己自身を、新たな21世紀を形成創造していくことが何よりも大切であると考えます。・・・
1年間のご愛読ありがとうございました。・・・ご協力いただいた皆様に改めてお礼を申し上げます。
2001年秋冬
暗中模索で始まった特集記事「道しるべを探して・・・」作成から約1年が経過していました。911テロを口実に米国は早々にアフガニスタン軍事攻撃を実行に移していました。日本もそれに伴って「テロ特措法」を成立させ、ついに自衛隊を海外に展開させていきます。これに大きな役割を果たしたのが安倍氏のデマリークであったろうことは既に記しました。
またこの年の晩秋にこのようなニュースも駆け回りました。「NTT構造改革、十万人削減、新たに地域ごとに設立する業務委託会社に移管。」「51歳以上のNTT社員は本人の同意を得て一旦雇用関係を切り、地域子会社で賃金水準を15~30%カットして再雇用。50歳以下の社員については現行のまま出向させる。」。
当時は「えっ?」と思いながらも聞き流していたニュースでした。そしてその時は全く想像もしていませんでしたが、しかし今となってはっきりと分かることがあります。このNTTの構造改革、大量リストラの姿勢が時をそうおかずして私に対しても大きな影響を与えていったことです。
私の内部での変化
今回改めてこの特集記事全体を読み直してみて(自身に対して)意外に感じたことがありました。10月号の最後部分「21世紀に生きる私達にとっての『人間らしさ』・・・その取組みは、少しずつでも我欲を制御し、・・・身近な隣人、つまり家族や友人、そして共に生きている動植物を、愛していくことから始まる」との部分です。
私は愛(厳密には愛という言葉)を否定してきていたのです。その私がこの時点でたとえ青年会議所の広報誌とはいえ「愛から始まる」と記していたのは意外だったのでした。愛の語を否定したその要因の一つ、それは仏教では愛は否定すべきものだからです。仏教での愛とは愛欲と愛着です。深い苦悩と憎悪との裏表の関係にあり、精神的物理的に非常に強い執着を伴う制御困難な煩悩が愛で、それは捨てるべき対象とされるからです。
そしてもう一つの要因、それは現実一般での愛の語の取り扱いです。多くの本や映画そして宗教が愛を説きます。そして彼ら愛は美しいとします。しかし、彼らのそれは美しくは見えなかったのです。程度問題ですが愛を説く彼らはその対象者に「思いを押しつけ」「見返りを求め」、「縛り」「コントロール」しようとしているのが見えました。そしてその行為を「愛」だと称するのです。そういった姿勢を見て私は「そういうのが愛なのか?」と混乱していたのです。
愛が何かは分からなくても行為が美しいか否かは分かります。押しつけや見返りを求め縛りコントロールする行為が美しいはずがありません。このように私にとって愛の語は否定の対象だったのです。それが暗中模索から始まった一年間を通し「感性を豊かに育み、万物その一つ一つをあるがままに尊重し、自他共に解放されていく」態度が最も大切だと考えるようになり、その最も大切な姿勢を愛と表現するように変化はしていたのです。
ともあれ、当時の私にしては特集記事作成に懸命になって取り組んだ結果か、私自身の内部で確かに何かの変化は起きていました。連載の最初期、私はこの世界に対し出口の見えない閉塞感に覆われ「つくづく厭な世界だ」と感じていたのです。そして実際に世界を取り巻く状況は一般人にとって確実に悪化の方向に進んでいたのです。
それにも関わらず、事実、連載記事の最終に「数々の病理現象が現れている日本の現在ですが、自らの心を澄ませて行けば、この私達の生きている世界は、そう悪く捨てたものではありません。」と記せられるようになっていたのです。それまでの私とは違った視点をどうやら獲得できるようになっていたのかもしれません。これは自身にとっての確かに成果であろうし、これをもってこの特集記事「道しるべを探して・・・」の記事作成を終了させることができたのです。
しかし・・・これで私にとって「めでたし、めでたし」ではことは終わりません。どうも変化は変化を呼ぶようで私にとっては全くありがたくない次の事態が待ち構えていました。私がそれによって転倒し格闘する試練が待っていたのです。
今思えば未解消のカルマが私に返って来る時期がきていたようです。それが現実の事件としてはNTT関係のことだったのです。
「植物が大きくなることは【生長する】と書きます。動物そして人間が大きくなるのは【成長する】と書きます。なぜか?動物もですが、特に人間は人間に【成る】からです。育ててもらい経験して努力して【人間に成る】のです。だから【成長】と書きます。」。幼い頃このように教えてもらったことが耳に残っており、これが特集記事を作成していく上でのベースの一つにありました。それでこのことを最終回本文に記したのでした。
今回でこのシリーズは最終で、次に異なったテーマでの連載シリーズを掲載して戴ける予定です。またお付き合い頂けたら幸いです。今回のシリーズは一言で言えば「思想」でした。次回のシリーズは実際に私が経験した「体験」です。そしてそれはいみじくも今回の本文の最終文「自らの責任における選択によって、自己自身を・・・創造していくことが何よりも大切であると考えます。」との一言が、単なる「言葉だけ」か「ほんまもの」つまり「体現するのか」を問われる体験でもあったように感じています。