ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第16話 ― オスマン帝国滅亡!引き起こされた惨劇

 2016年6月3日に世界の各メディアで「ドイツ連邦議会がアルメニア人の大量虐殺を認定」を見出しとするニュースが飛び交いました。ハフポストでは「ドイツ連邦議会は6月2日、1915年に起きたオスマン帝国によるアルメニア人の大量殺人を大虐殺と認定する決議を行った。決議を受けて、トルコは6月2日に同国の在ドイツ大使を召還した。この決議では、第一次世界大戦中にオスマン帝国と同盟関係にあり、当時150万人いたとみられるアルメニア人の大量虐殺を防止できなかったドイツも非難されている。」との切り出しで報じています。
 1908年の青年トルコ人革命でオスマン・イスラム帝国は全く変質しました。変質したオスマン帝国の青年トルコ政権下で民族迫害の極めつけであるアルメニア人大虐殺は敢行されたのです。オスマン帝国が滅亡しトルコ共和国が建国される過程で引き起こされた惨劇です。イスラエル建国の絶対前提となったのが、オスマン帝国滅亡と解体そしてトルコ共和国設立です。この過程の主たる事実を今回は追います
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第16話 ― オスマン帝国滅亡!引き起こされた惨劇

惨劇アルメニア人大虐殺



ハフポストは「「アルメニア人の迫害」とは」(閲覧注意:遺体写真が掲載されています)として次のように説明しています。
アルメニア人の大量迫害は20世紀初め、オスマン帝国が崩壊し、現在のトルコ共和国が成立する時期に起きた。第1次世界大戦中の1915年4月、オスマン帝国の首都だったイスタンブールで、アルメニア人の知識人らが連行された。これを皮切りに「アルメニア人は敵国ロシアに内通している」として、オスマン帝国が強制移住などの措置をとり、大量の犠牲者が相次いだとされる。アルメニア人はキリスト教徒で、当時オスマン帝国内に多数居住していた。アルメニア側は「犠牲者は約150万人」と主張しているが、トルコ側は「30万~50万人程度」で、戦時下の悲劇だとして組織的な虐殺はなかったと主張している。

当時キリスト教徒アルメニア人は、オスマン帝国内では隣国ロシアとの戦闘地域となったアナトリア東部に多く居住していました。近くには世界最古の大油田バクー油田があります。複数の情報から1915年から1916年にかけてオスマン軍はアルメニア人から水や食料等を取り上げ、着の身着のままでシリアの砂漠の町デリゾールへの死の行進を強制したとされます。赤ん坊から妊婦や老人まで老若男女を問わず、アルメニア人という理由だけで死の行進を強制された陰惨な凶行です。犠牲者と生き残った家族の証言もありますが、レイプとリンチは当然ながら日常だったでしょう。

エンヴェル・パシャ [Public Domain]


タラート・パシャ [Public Domain]


このアルメニア人大虐殺はエンヴェル・パシャが提案しタラート・パシャが指令した模様です。犠牲者の数はアルメニア側とトルコ側で大きく差がありますが、徒歩で寒冷地の乾燥した山地を越えてシリアの砂漠へと向かうのです。飢餓と寒さで多数のアルメニア人が命を落としたことは間違いなく、トルコ共和国もそれは否定していません。この常軌を逸した国家を挙げた凶行がなぜ実行されたのか?「敵国ロシアと内通していた」という理由では説明がつきません。何しろ犠牲者はアルメニア側の主張では150万人、トルコ側の主張でさえも30万~50万人です。この大集団をオスマン軍が監視しながら移動させているのです。当時戦争中です。それにも関わらず貴重な軍の兵力を割いての凶行です。余りにも常軌を逸しているので常識的物理的な説明がつかないのです。

この狂気の陰惨な凶行はオカルト的な意味があったのでは?と考えてしまいます。また、やや常識的な説として「バクー油田の権益を守るため」があります。この説に触れる余裕はありませんが、理由としてこれはあるかもしれません。ともあれ青年トルコ政権とは狂気に満ちた政権であり、このような政権では戦争に敗退していくのも当然のことであったように思えます。

英雄ムスタファ・ケマル



異様な状況下で敗退していくオスマン軍。その中で一人気を吐いた人物がいます。青年トルコ組織の一員であるムスタファ・ケマル(1881~1938)です。「ガリポリの戦い」と呼ばれる戦闘、オスマンの首都イスタンブール占領を目指し、ガリポリ半島への上陸を計画し進軍してきた英国、フランス、オーストラリアなどの連合軍、この連合軍をオスマン軍は徹底抗戦で撃退します。オスマン軍を指揮したのが当時のムスタファ・ケマル大佐です。指揮官としてこの戦闘で勝利したケマルは一躍オスマン軍の英雄となります。

しかしその一方、オスマン軍は1918年にオスマン最大の軍事基地シリアのダマスカスを落とされオスマン帝国は敗戦降伏に至ります。最後まで降伏に抵抗したのがケマルの軍隊でした。終戦後の1920年サンレモ会議が開かれます。オスマン帝国の戦後処理の会議です。会議はオスマン帝国には過酷な内容となるのですが、サイクス・ピコ協定に基づく領地分割に加え、非常に重要な議題がありました。バルフォア宣言に基づくパレスチナのユダヤ国家建設についてです。この会議には実は連合国側として日本も参加していました。そして日本はユダヤ国家建設に対する賛成の票を投じています。このサンレモ会議でイスラエル建国の道が開いたのです。従ってそれには賛成した日本の責任もあるのです。

サンレモ会議に沿ってセーヴル条約が締結されます。スルタンの地位保全がその条件となっていましたが、これはオスマン帝国には事実上の国家解体、主権の喪失を含む屈辱的な不平等条約でした。オスマン帝国はイスタンブールとアンカラ周辺のみを残しそれ以外の領地を割譲することになります。また拡大された治外法権に加え国家財政は英国、フランス、イタリアの監視下に置かれることになったのです。これはトルコの民にとってはとても容認することのできない条約内容でした。このような事態にアンカラで英雄ムスタファ・ケマルが立ち上がります。ここにセーヴル条約の批准に反対を叫ぶ国民が終結しアンカラ政府が設立されます。折しも元オスマン領であったギリシアがギリシア人の多く住む海洋都市イズミル(スミルナ)併合を目差しオスマン領に侵攻していました。これに対しスルタン政府はなすすべもなく沿岸各都市が落とされる状態となっていました。

トルコ共和国の設立



アンカラ政府のケマルを総司令官として、トルコ人にとっての祖国の領地防衛と国家独立のための戦争、ギリシア=トルコ戦争が1919年から始まっていました。オスマンは敗戦国であってギリシア軍に兵力で著しく劣っていたため、ケマルは当初ゲリラ作戦を展開していました。しかし残っていたケマルの軍隊はオスマン軍の中でも最精鋭部隊でもありました。そこに国民軍がまとまり、ギリシア軍に対してやがて反転攻勢に転じます。1922年9月トルコ国民軍はイズミルを奪還しギリシア軍を撃退させるに至りました(この時3万人ものギリシア人の住民がトルコ軍によって惨殺されたとのこと。)。同年11月トルコ大国民議会はスルタン制度廃止を決定し、最後のスルタンとなったメフメト6世はマルタ島へ亡命。ここにかつてのイスラム大帝国だったオスマン帝国は正式に完全滅亡となりました。


1923年7月ケマルは屈辱的なセーヴル条約を破棄し、新たな講和条約ローザンヌ条約を締結させます。これにてアナトリアの領土を回復し、トルコの独立と主権回復を認めさせました。現在のトルコの地図です。同年10月アンカラでトルコ共和国樹立が宣言され、初代大統領にムスタファ・ケマルが選出されます。ケマルにはアタチュルク(トルコの父)との称号が贈られました。ケマルはイスラムとの政教分離を進め、トルコを世俗国家としていきます。オスマン帝国と新生トルコ共和国はトルコ人主体の国家という点は同様ですが、中身は全く別物の国家となっているのです。

トルコ共和国設立の経緯において特筆すべきはローザンヌ条約です。セーヴル条約を破棄し領土や主権の回復も驚きではあるのですが、それ以上の驚愕の内容が含まれていました。何と!この条約でオスマン帝国の戦争賠償金が棒引き、実質として賠償金無し!!とされているのです。あの強欲の塊である銀行家が何の引き替えや条件も無しに借金を0にするという異常事態が起きていたのです。およそ考えられません。ドイツ帝国の賠償金は確かモルガン商会に支払われ、この莫大な賠償金が原因でドイツはハイパーインフレに陥り、リュック一杯に背負ったマルク札でもパン一個が買えなかったとの話さえもあるのです。国家に借金をさせ、それを国民に支払いさせるのが銀行家の業務です。そのために戦争を引き起こすのです。オスマン帝国が滅亡しようとも、その領地と住人を引き継いだトルコ共和国とその国民にオスマン帝国の借金を背負わせるのは銀行家にとって「当たり前」と言うより「義務」、いや「掟」です。しかしあえて掟破りの特例を施した。これは銀行家ロスチャイルド家にとってオスマンの滅亡解体とトルコ共和国の設立が絶対必要だったこと、そしてケマルが特殊な人物であったことを示しているでしょう。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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