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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第15話 ― オスマン帝国滅亡前夜
オスマン帝国スルタンとテオドール・ヘルツルの交渉
圧倒的な戦闘力の高さを背景に巨大な帝国を築いていたオスマン帝国。しかしこのイスラム大帝国も欧州側の種々の工作もあったのでしょう、17世紀頃から徐々に衰退し、19世紀終わり頃には莫大な借金が膨らむなど「不治の病人」と揶揄される状態になっていました。
その当時からロスチャイルド家を筆頭とする偽ユダヤが、世界統一政府樹立のために欠かせないとして狙っていたのがパレスチナにおけるユダヤ国家の建設です。しかしその実現にあたり絶対に必要なのが、当然ながらパレスチナを領地として統治していたオスマン帝国のスルタンの了承です。
そこで当時のスルタンのアブデュル・ハミド2世を説得する任についたのがテオドール・ヘルツルです。ヘルツルとは、彼の呼びかけで1897年に世界シオニスト会議が開催され、一般的には「近代シオニズムの父」とされている人物です。「ユダヤ国家の建設」を夢見た男です。
オスマン帝国に対する莫大な借款を有していたのはやはり当然ながらロスチャイルド家です。ヘルツルはロスチャイルド家の代理人として交渉に当たったわけです。
これに対するアブデュル・ハミド2世の返答は次のようなものでした。「パレスチナの地は私の所有するものではない。血を流した人民が手にしたものであり、彼らが所有する。私は自分が所有していないものをどうして売ることできようか。そしてもしそのようなユダヤ国家ができるとしたならば、それは我々の死体の上に建てられるだろう。我々は生きている体をナイフで割譲することを許さない。」。売国を拒む印象深い返答です。
その後もヘルツルは交渉に当たり、最終的には1901年に謁見を許され、ヘルツルはアブデュル・ハミド2世と直接交渉の機会を得ます。出合ったヘルツルとアブデュル・ハミド2世は互いに好印象を持ったようでした。しかしパレスチナの地の割譲は最初から答えが出ていたとおりでした。パレスチナでのユダヤ国家建設が暗礁に打ち上げられたヘルツルは焦燥にかられます。「ユダヤ国家の建設」を夢見る彼は、世界シオニスト会議でパレスチナ以外の地でのユダヤ国家建設案を出します。ユダヤ国家建設そのものが目的ならばパレスチナ以外でも良いはずなので、彼にすれば当然の提案です。
しかしこれは当然ロスチャイルド家には最初からの目的が異なっているため、シオニストたちから総スカンでした。ヘルツルは疎まれ失意の内に死去します。世界支配を狙うロスチャイルド家など偽ユダヤたちにとって、ユダヤ国家建設はパレスチナ以外認められるはずがなかったのです。
青年トルコ人革命
一方ヘルツルとの会見でパレスチナ割譲を拒絶したアブデュル・ハミド2世、彼も会見から8年後の1909年にスルタンの座を追われたうえに、何とサロニカ(現在のギリシアのテッサロニキ)にて長期間幽閉生活を送らされることになります。アブデュル・ハミド2世がこのような悲惨な立場に追いやられたのは、その前年の1908年に発生したスルタン専制反対運動の革命、俗に言う「青年トルコ人革命」によってです。
「青年トルコ人運動」とはスルタンの専制に反対し停止された憲法復活を叫ぶ「統一と進歩委員会」を中心とする政治運動です。「統一と進歩委員会」は軍人中心の秘密結社であり、その本拠地はサロニカにあったのです。
1908年に陸軍軍人のエンヴェル=パシャが中心となって革命軍蜂起、この蜂起には後のオスマンの英雄にしてトルコ共和国建国の父であるムスタファ・ケマルも一味として参加していました。彼らは革命を成功させアブデュル・ハミド2世を追放し、オスマン帝国の軍部を掌握し、それを中心にオスマンの実権を握っていきます。またトルコ民族主義を唱える彼らは、過激な排他主義を敢行します。
一方スルタンの座はアブデュル・ハミド2世の弟メフメト5世がつきますが、お飾りで実権はありませんでした。1913年に青年トルコ人政権がオスマン帝国を完全掌握。青年トルコ内の政争に勝ち残った前述のエンヴェル・パシャが陸軍大臣、タラート・パシャが大宰相、そしてジェマル・パシャが海軍大臣として政権運営。1918年まで三頭政治を行います。
彼らはドイツ帝国と同盟を組み第1次世界大戦に突入。しかしトルコ以外の民族迫害を行った結果、反発したアラブ人の蜂起などを受けて敗退します。結果オスマン帝国は完全滅亡へ。サンレモ会議で決められた過酷なセーヴル条約にてオスマン領土は分割解体されます。米国の乗っ取りが果たされた1913年に、オスマン・イスラム帝国もまた実質的には完全に甦生不能の「死に体」になってしまっていたのです。1920年のセーヴル条約にてオスマン帝国はアブデュル・ハミド2世の言葉に従うなら「死体とされ、ナイフで切り刻まれ」ることになったのです。その旧オスマン領の上に偽ユダヤたちの思惑に基づいた人工国家が次々に建てられる事になります。
青年トルコ人の背後にある影
オスマン帝国を滅亡解体に至らせた「青年トルコ人」と呼ばれる組織、彼らは一体何者であったのか? 童子丸開氏がヒントになる興味深い情報を提供されています。それによると、レオン・トロツキーらとともにロシア革命を推進した中心的な人物の一人であるアレクサンダー・パルヴスが、「青年トルコ人革命」の期間に5年間イスタンブールに滞在し「青年トルコ運動」のパトロンだった、とのこと。そして更に次のように記述されています。
「イスタンブールにもう一人の奇妙なユダヤ人の姿を認めることができる。ウラジミール・ジャボチンスキー。・・・ジャボチンスキーは「青年トルコ革命」直後にイスタンブールに到着し、すぐに新聞「青年トルコ」の編集長となった。」と。
あの狭義のシオニズム、即ちパレスチナのシオニスト国家建設運動の実質的な父であり、「鉄の壁」理論のジャボチンスキーが「青年トルコ運動」に参画していたのです。つまりこのオスマン帝国を変質させ、滅亡に至らせた「青年トルコ運動」とロシアの革命共産運動、そしてパレスチナのシオニスト国家建設運動が連動していたことが明瞭に見て取れます。
更に童子丸氏は、ジャボチンスキーが編集長を勤めた青年トルコの機関誌について指摘されています。
「リンドン・ラルーシュとその運動の歴史家によれば、この新聞は当時のトルコ政府の閣僚にいた人物によって所有されていたが、立ち上げたのはロシアのシオニスト団体、そしてブナイ・ブリスによって運営され、その編集はシオニストでオランダ王家の銀行家であるジャコブ・カーンによって監督されていたという。」
どうやら革命前からオスマン帝国の閣僚の中に「青年トルコ運動」に組する「裏切り者」が存在していたようです。そしてロシアのシオニスト団体が立ち上げたのもそうですが、何よりも青年トルコの機関誌がブナイ・ブリスによって運営されていたのは注目に値します。
ブナイ・ブリスとは実質ジェイコブ・シフによって創設されたADLの上部機関です。つまり米国での全てのユダヤ機関、シオニスト団体の総元締めです。そしてブナイ・ブリスの執行機関であるADL、その創設者のジェイコブ・シフは、改革派ユダヤ教のラビ即ち悪魔教フランキズムの聖職者の息子です。シフの親世代の家族はフランクフルトのゲットーで、初代ロスチャイルド家当主マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドと一軒の家に同居していた間柄です。
もうお解りでしょう。これらが青年トルコ人組織のバックにいた存在です。
また、右翼? そもそも右翼左翼のカテゴリー分け自体が全くナンセンスです。ユダヤ問題のポイントでこれまで見てきたように、スーパー右翼のはずのナチス・ファシズムとスーパー左翼のはずの革命・共産運動は全くの同根です。本質的には同じ中身に違うレッテルを貼っただけのインチキです。
私たちはありのままに事実を見る必要があります。端的には「巧妙に騙し支配し食い物にする者」と「事実を見ようとせず、騙され食い物にされる多数者」がいる、それだけなのです。
そして民族主義? これには排他主義が必然的に含まれますが、この民族主義が幅をきかせ出すと国家存亡の危機です。お決まりのパターンなのです。大体、民族主義を唱える連中は本当にその民族の人間なのでしょうか? 安倍ぴょんが現役総理でありながらも、韓国の文鮮明を教祖とする統一教会の機関誌「世界思想」の表紙を度々飾っていること、また、元々の出身地となる山口県熊毛郡田布施村がどういう性質を持つ村か? これらの事実は調べておくべきでしょう。
さて、大帝国から弱体化させられたオスマン帝国が、最後の矜持でパレスチナの割譲を拒絶します。すると「青年トルコ人」と呼ばれる組織が出現し、革命を起こしスルタンは追放、最後はオスマン帝国が完全滅亡に追いやられます。「青年トルコ人」と呼ばれる謎の組織、彼らもお決まりのパターンで民族主義を唱える連中で、過激な排他主義で民族迫害を敢行し、オスマン帝国を破壊し外国の食い物にさせたのです。
こういう一見はかっこいいことを唱えるが、実はその中身正体は不明の者が国家のトップに立つのは非常に危険なのです。