明治維新後の朝鮮侵略の歴史的経緯を見れば明らか!〜 昔も今も、韓国を植民地にすることしか考えていない「天皇を頭とする日本の支配層」!

竹下雅敏氏からの情報です。
 今日の編集長の記事で、日韓請求権協定に関する韓国のドキュメンタリー番組を取り上げていました。
 長周新聞は、あべぴょんの言う「国と国の約束」とは、1965年の「日韓条約」「日韓請求権協定」を指し、1910年の日韓併合に根源を持つとしています。なので、歴史的な経緯をはっきりさせる必要から、明治維新後の朝鮮侵略の経緯を書いています。
 これを読むと、日本がどれほどひどいことをしたのかが、わかります。記事を読んで感じるのは、「天皇を頭とする日本の支配層」は、昔も今も、韓国を植民地にすることしか考えていないということです。彼らの頭の中では、支配一族以外は、奴隷だと思っているのではないでしょうか。
 記事では、“米国覇権の衰退”により、“旧時代の残りカスを一掃する流れ”が強まり、“東アジアの枠組み再編が後戻りすることはない”と言っていますが、この通りだと思います。
 そうした流れに逆行しているのが安倍政権で、多くの人々はこういった残りカスが一掃されるのを待っている状況です。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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日韓の歴史的変遷から見る 植民地主義延長した戦後レジュームの欺瞞とその破産
転載元)
 安倍政府は6月のG20直後の7月4日、韓国に対して半導体やスマホの製造に不可欠な三品目の輸出規制を発動したのに続き、8月2日には「ホワイト国」のリストから韓国を除外することを閣議決定した。これは28日に施行され、韓国には新たな輸出規制が課せられる。これに対して韓国政府は22日、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄すると発表した。今回の日韓関係の緊張を生んでいるきっかけは、昨年11月に韓国の最高裁が三菱重工に第二次世界大戦中に同社の軍需工場で労働を強制された韓国人の元徴用工らに対する賠償を支払うことを命じる判決を下し、三菱重工業が支払いを拒否していることである。安倍政府も三菱重工業を支持し、「1910年から1945年まで続いた朝鮮半島支配時代の請求権問題は、1965年に結ばれた日韓請求権協定により、完全かつ最終的に解決された」と主張している。安倍首相は今回の日韓関係の問題は「韓国が国と国との約束を守らないところにある」とくり返し主張している。

(中略)

安倍首相がくり返している「国と国の約束」とは、1965年の「日韓条約」「日韓請求権協定」を指す。それは1910年の日韓併合に根源を持つものだ。第二次大戦終結までの35年間に及ぶ植民地支配とはいかなるものだったのか、それ以前、以後も含めて誰が何をしたのか歴史的な経過をはっきりさせないことには、問題の解決は遠のくばかりである。

明治維新後の朝鮮侵略 

 1868年の明治維新でうち立てられた絶対主義天皇制は、その成立当初から当時なお封建制度のもとにあって国の近代的統一をなし遂げていなかった朝鮮、中国への侵略を意図して突き進んだ。

(中略)

天皇制政府は1874年2月に台湾に出兵した。75年には武力によって朝鮮に開国を迫り、76年2月仁川に6隻の軍艦を入港させ、不平等で屈辱的な修好条約の締結を迫った。朝鮮開港地に治外法権と領事裁判権を認めさせ、全港湾を日本艦船が無条件で利用できることなどを規定していた。

 天皇制政府は1894年2月の甲午農民戦争、いわゆる東学党の乱勃発を機に、清国の朝鮮への影響を断ち切り朝鮮を支配する好機としてとらえ、日清戦争に突き進む。日清戦争での清国の敗北は、列強による中国そのものの分割競争を激化させ、日本はさらに日露戦争で中国、朝鮮の支配をめぐって争い、1905年9月、日本政府は日露「ポーツマス条約」を締結し、朝鮮を支配する権利を認めさせた。1904年8月に第1回日韓協約により日本の顧問政治を実現した日本政府は11月に乙巳保護条約をおしつけ、特命全権大使として乗り込んだ伊藤博文は朝鮮の外交権を奪いソウルに総監府を置き、朝鮮支配を強めた。

 全朝鮮で反日闘争が激化し、朝鮮のいたるところで義兵闘争が噴き上がった。1907年から1911年にかけて天皇制軍隊が虐殺した義兵の数は1万7597人にもおよび、この数は日清戦争における日本兵の死者よりも数が多く、反日義兵闘争がいかに熾烈にたたかわれたか、また日本軍の弾圧がいかに残虐なものだったかを物語っている。1909年10月26日、ハルピン駅で「朝鮮万歳!」を叫び伊藤博文を狙撃し殺害した安重根は義兵の参謀中将であった。

 日本政府は1904年に決定した対韓施設綱領にもとづいて朝鮮併合を急いだ。銀行をおさえ、鉄道、通信、通商・貿易などの事業を独占し、鉱山開発の許可権を握り鉱山業を支配した。また土地の略奪を進めた。

 1909年ごろには事実上朝鮮を完全に植民地化したうえで、1910年8月20日に「日韓条約」を調印した。その第一条と第二条には、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本帝国皇帝陛下に譲与す」「日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾しかつ全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」と明記させた。「併合」が朝鮮国王の自発的意志にもとづくものであり、日本はその申し出を受けて朝鮮を保護するために併合したかのような装いをとった。

 安倍首相はこれをもって現在でも「日韓併合は朝鮮側との合意にもとづくものであり、国際法に違反していない」とし、謝罪も賠償も必要ないとの態度をとっている。韓国側は「日韓併合」は武力による植民地化であり、国際法に違反しているとし、日本側に謝罪・賠償を求めている。



大量の軍隊派遣し支配 「日韓併合」の実態

 日韓併合後の初代寺内総督は、反日運動を弾圧するために憲兵警察制度を完成させ、憲兵政治を実行した。(中略)... 1910年3月から1918年11月にかけて土地調査事業をおこない、肥沃な土地を農民からことごとく奪った。(中略)... 土地はカネと権力を持った日本人の手に集中した。山林も同様だった。さらに1910年12月には会社令を出し、民族資本の発展を抑え、日本資本を保護・育成した。(中略)... 三井、三菱、住友、安田などの財閥は、朝鮮において低賃金労働者を酷使して急速に資本を拡大した。

(中略)

さらに1937年末、石炭業界などに関連する三井、三菱財閥の要望を受け入れ、朝鮮人を労働力として日本に移入する方針を決定した。39年10月には国民徴用令を出し、朝鮮人強制連行を開始した。

 朝鮮総督は朝鮮教育令を改悪し、学校における朝鮮語教育と朝鮮語の使用を禁止した。太平洋戦争に突入すると朝鮮語の使用を禁止した。39年11月には朝鮮名を日本名に変えさせる創氏改名を強要した。

 朝鮮人の民族性を全面的に否定した天皇制政府は、敗戦の色が濃くなるにしたがって、朝鮮人を侵略のための肉弾、弾よけとして戦場へ、苦力として職場へ、帝国軍人のための性欲のはけ口としての慰安婦として戦場へ送り込むため、徴用、徴兵という名の「朝鮮人狩り」を組織した。そのすさまじさについて戦後関係者が「納得のうえで応募させていたのではその予定数になかなか達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いている最中にそれこそ羊か牛でも追うように棍棒を振り回し、トラックに無理矢理詰め込む」と証言している。家畜用トラックで釜山に運ばれ、釜山から荷物を運搬するように船艙に押し込められ日本へ連行され、炭鉱では坑内夫、鉄鋼所では操炉・圧延などもっとも過酷で危険な労働に従事させられた。

 朝鮮女性の慰安婦としての徴用もすさまじいものであった。「朝鮮人狩り」で働き手をすべて奪い、朝鮮婦人が生きていくためには売春まで含めたあらゆる仕事をしなければならないようにしておきながら、「カネもうけができる仕事を斡旋する」といって囲い込み、多くの婦人を日本軍の慰安婦として南方などの戦線へ送り込んだ。

 在日朝鮮人は1939年から45年にかけて約150万人が労働力として日本に連行され、そのうち約60万人が炭鉱に、約40万人が軍需工場に、約30万人が土建に、約15万人が金属鉱山に、約5万人が港湾に配属された。このほか軍人・軍属として約37万人が、従軍慰安婦として数万人が戦争に動員された。朝鮮内で強制労働に動員された数は450万人にのぼった。

(中略)

1945年8月15日は朝鮮にとっては日本の植民地支配から解放された日であった。だが、今度は朝鮮に進駐したアメリカが「武装解除」すべき朝鮮総督府を利用し、朝鮮人民の自主的活動に大弾圧を加えた。アメリカは進駐に先立つ8月20日、朝鮮総督の阿部信行に対して「特例命令」を出し、南朝鮮の治安維持に全面的な責任を持つように指示した。9月8日にアメリカ第24軍が仁川に上陸し、翌9日にソウルに進駐した。アメリカは旧総督府の日本人の警察官、裁判官、官吏を解任するのではなく、米軍政庁のもとでそのまま働かせた。また日本天皇制政府が発布した植民地法をそのまま存続させた。

(中略)

アメリカは1948年2月の単独選挙に反対する200万人のゼネストや済州島の武装蜂起に血の弾圧を加えた。済州島の島民の3分の1にあたる7万人あまりを虐殺した。朝鮮人民の闘争をことごとく弾圧したうえで、戒厳令状態のもとで5月10日に南朝鮮だけを切り離した単独選挙をおこない、7月20日にアメリカから45年10月につれてきた李承晩を大統領に据え、「大韓民国」をでっちあげた。李承晩はアメリカに頼って日本からの「独立」を達成しようとした根っからの親米派であった。

(中略)

朝鮮戦争において天皇を頭とする日本の支配層は日本全土をアメリカの朝鮮侵略戦争の司令部、出撃・補給基地として提供し、戦争特需によって朝鮮人民の生き血をすすって肥え太った。(中略)... 日本は朝鮮に対する統治権を放棄してアメリカの朝鮮支配を認めるかわりに、アメリカの戦略を補完することを条件に、朝鮮、台湾、フィリピンなどにふたたび侵出していく権利を得た。

(中略)

韓国では60年の「4・19革命」で李承晩が打倒された。アメリカは韓国人民の闘争を抑えこむために朴正煕をけしかけて軍事クーデターを引き起こし、軍事独裁政権を使って人民を徹底的に弾圧した。65年6月22日、日朝人民の反対を押し切って「日韓条約」が締結された。(中略)... この条約によってアメリカは日本と韓国を政治的・経済的・軍事的に結託させ、米日韓軍事同盟を形成し、アジア戦略の遂行をはかることを目的としていた。

(中略)

日本と韓国との「財産・請求権・経済協力」に関する協定(中略)... は日本が韓国に対して協定発効後10年間で総額3億㌦に相当する物資と役務を無償で提供し、海外経済協力基金による総額2億㌦の長期低利の貸し付けをおこない、その間3億㌦(のちに5億㌦)をこえる商業借款を供与することを取り決めたものだ。

 この協定には日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」との文言がもりこまれ、韓国の国内向けには日本からの8億㌦は賠償金と宣伝されたが、植民地支配を正当化する日本政府は賠償請求に応じたとの見解を否定し、あくまで「経済協力」であり、韓国に対する「独立祝い金」との政府見解を答弁している。

(中略)

日本が「経済協力金」として支払った8億㌦は、使い道に日本政府の承認を必要とするひも付きであった。大部分が朴政権を経由して日本の財閥に流れている。これは日本の政財界が韓国経済の命脈を握るための道具にほかならなかった。

 朴政権は「日韓条約」締結を契機に韓国を米日の植民地にする道を突き進んだ。日本から多くの企業を進出させて韓国の財閥を手なづけ、韓国経済が日本に依存せざるを得ない経済構造をつくりあげた。また、日本の支配層は戦後の最初から植民地時代に登用した親日派を糾合・育成した。たとえば1948年から52年の韓国の歴代閣僚の全員が日本の植民地時代の地主や資本家であった。

(中略)

終焉迎えた米国代理の朝鮮支配 東アジアで彷徨う旧植民地主義の亡霊

 敗戦後も日韓の人的結合をつくり出し、政財界の要人を買収して目下の協力者として育成しながら、韓国への再侵略を強めてきたのが歴代の自民党政府であった。

 現在、安倍首相は1965年の朴政府と佐藤栄作政府が結んだ「日韓条約」を指して「国と国との約束を守れ」と韓国政府に迫っているが、それは「かつての植民地時代に戻れ」ということを意味している。「日韓条約」は締結以前から当時の韓国人民の激しい反対にあったものであり、日本の植民地支配への怒りは今なお韓国人民のなかに渦巻いている。

(中略)

2016年の朴槿惠(朴正煕の娘)大統領弾劾は、日本の植民地時代の尾を引く「戦後レジューム」からの脱却を目指す韓国の人民世論の歴史的な高まりを世界に示した。これは日本の支配層による朝鮮統治や介入、朝鮮半島の南北分断を利用して東アジアをコントロールしてきた米国覇権の衰退を物語っている。南北の和解と米朝交渉による朝鮮戦争終結が俎上にのぼる今、旧時代の残りカスを一掃する流れはさらに強まることが予想され、東アジアの枠組み再編が後戻りすることはない。

 現在目前でくり広げられている安倍政府による韓国への強硬策は、かつての植民地主義の尾を引いたものであり、それ自体が否定されていることについて認めない限り問題の解決を遠ざけるばかりで、めまぐるしいアジアの変化に対応できるものではない。

 日本と韓国の近代史における関係について、戦後の学校教育ではほとんど教えられず、むしろ意図的に避けられてきた。マスメディアが目前の利害だけに問題を切り縮めて対立を煽っているが、それでは問題解決の糸口は見えてこない。歴史を正しく認識し、日韓人民を苦しめてきた不幸な過去を清算し、互いの主権を尊重し合い、平等互恵とアジアの平和実現を目指す新たな日韓関係を築いていくことが求められている。

(以下略)

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