ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

孝明天皇は崩御を装って堀川御所に。睦仁親王もまた、大室寅之祐とすり替わって堀川御所に。大室寅之祐は表の明治天皇(政体天皇)、睦仁親王が初代裏天皇(國體天皇)に。
 これは元々は落合莞爾氏が主張された説であり、その説が辻褄が合っていて事実として間違いないと見て、この明治編を進めてきました。
 堀川御所に移住した後の孝明天皇、そして睦仁親王の情報は当然ながらほぼ皆無です。ただし、その後の情報は皆無ながらも、孝明天皇については堀川御所移住前の情報はあります。しかし、睦仁親王については堀川御所移住前から情報は少なく、その後は情報が皆無なので、睦仁親王がどのような考えや思いをもって周辺に当たっていたかは分かりません。
 それでも推測は可能です。睦仁親王の皇子が堀川辰吉郎です。この堀川辰吉郎に仕えながら保護・育成したのが玄洋社であり、頭山満とされます。睦仁親王が自分と思いの異なる者に自身の皇子を託すはずがないので、玄洋社およびその総帥とされる頭山満の思想と行動を見れば、裏天皇の睦仁親王の考え・思い、そして睦仁親王と日本政府、および表天皇側との関係も垣間見えてきそうです。
 頭山満は、彼のウィキペディア記事を見れば「アジア主義者の巨頭」「日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った」とあります。 頭山のアジア主義とは以下のようなものだったと思えます。
欧米支配から脱却したアジア共栄圏の構築がその目的。そのために日本は積極的に海外進出し、その中で日本は国際的地位を高め、英国から独立
この頭山のアジア主義は同時に睦仁親王の考えでもあったように思えます。
 ただし頭山は目的達成のために日本の海外での積極的武力行使、日本政府に対しても過激な行動に出てもいて、ここまでもが睦仁親王の考えに沿っていたかは不明です。睦仁親王が英国支配に屈辱を覚え、日本政府および表天皇と緊張した関係にあったのは確かだとは感じますが…。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

表裏明治天皇の大嘗祭執行 〜150年間の秘事


落合莞爾氏は『ワンワールドと明治日本』281~282頁に次のように記しています。

明治13(1880)年、京都皇統の住む堀川御所で将来の國體天皇となる男児が出生します。御父は、政体天皇の地位を長州藩奇兵隊士大室寅之祐に譲って堀川御所に入った皇太子睦仁親王で、当年29歳、御祖父は慶応2(1866)年の偽装崩御以来、睦仁親王とともに堀川御所に棲む孝明先帝で、ときに50歳です。

睦仁親王と大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり「明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。

(中略)

明治20(1887)年に7歳になった睦仁親王の皇子は、堀川御所で豊子(のちの松下トヨノ)が生まれたのを機に博多に移り、(中略)...辰吉郎が福岡へ移されたのは、黒田藩の政治結社玄洋社の実質社主の杉山茂丸と社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためです。

ここには幾つもの重要なことが記されていますが、その一つで目を引くのが、表の明治天皇(政体天皇)となった大室寅之祐と初代裏天皇(國體明治天皇)となった睦仁親王が、同刻同じ場所(東京皇城吹上御苑)にて揃って大嘗祭を執行したという部分でしょう。

初代裏天皇となった睦仁親王
(25歳当時の明治天皇と紹介された写真)
Wikimedia Commons [Public Domain]

二人が同時に大嘗祭を執行、これは天皇践祚の儀式ですから記されている内容は非常に重要です。それと共に大嘗祭はあまりにも重要で、これに関して虚偽を記されるような性格のものではないので事実と見るしか無いでしょう。

ただし、こうなるとかなり多くの皇室関係者などは、二人の大嘗祭同時執行の事実を承知していたはずです。その上で、その事実を関係者は現在まで厳重に秘匿してきたことになります。150年間の秘事です。

さて、次いで気になるのが、ここでは堀川辰吉郎の生年が1880年となっていることです。堀川辰吉郎は自称では1884年生まれとのことでした。天皇そして八咫烏(サンカもですが)には戸籍が無いとのことで、このように生年がハッキリしないようなことになるのかも知れません。ただ堀川辰吉郎の生年は1880〜1884年の間と見て間違いないでしょう。

この時期は、世界的には1881年にアレクサンドル2世が暗殺され、ポグロムの嵐が吹き、共産革命運動を含めたシオニズムの世界潮流が生じ、日本では1882年に日本銀行が設立されています。世界と日本の歴史の分岐点になる時点で堀川辰吉郎が誕生したとも言えるでしょう。

Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]

その堀川辰吉郎が7歳の時に京都から福岡博多に移されたと落合氏はしています。それは辰吉郎が玄洋社の杉山茂丸と頭山満から「武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるため」とのことです。玄洋社が辰吉郎を保護・育成していく役割を担ったということになるでしょう。

頭山満の海外進出路線 〜日清戦争の背後にも玄洋社


黒田藩の政治結社玄洋社には前回見たように、日露戦争の影の立役者である明石元二郎が所属。また秘密部隊である満洲義軍を構成し、満洲で馬賊を結集させて対ロシア工作を展開したのも玄洋社です。ウィキペディアの「満州義軍」記事では「福岡市崇福寺内の玄洋社墓地に『満州義軍義士之碑』がある。」とのことでした。

玄洋社の墓地がある崇福寺は「福岡藩主黒田家の菩提寺」とあります。どうも玄洋社は、黒田藩そのものと関連が深そうです。

前列中央が頭山満
(満洲義軍の幹部となった玄洋社メンバーと。明治37年。)
呉竹会_頭山満 [Public Domain]
玄洋社:戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。(ウィキペディアより)

落合氏は、玄洋社の実質社主が杉山茂丸、社長は頭山満としています。ただし多くの資料では玄洋社の総帥は頭山満とありますので、今回は先に頭山満について少し見ていきます。

頭山満はアジア主義者とされています。「アジア主義」とはウィキペディア記事では以下のようにあります。

欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本ではもっぱら興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称で呼ばれた。その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、論者の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。

頭山満のウィキペディア記事によると玄洋社が設立されたのは1881年頃、堀川辰吉郎の誕生と同時期になります。頭山満は「早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。」とのこと。

また1887年に『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した頭山が、そのテーマとしたのは「不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心」とあります。

頭山満の主張と行動のもととなったアジア主義の内容とは、アジア共栄圏の創出のため、

日本の(武力行使を含めた)積極的海外進出
②海外進出と平行し、日英条約を初めとする不平等を解消し、日本の独立

以上の2点となるでしょう。

ウィキペディアから①に関連する内容を。

日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案が提出され、成立の動きもあったが1891年に結局否決された。それで反転、その予算を通すべく1892年に「民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。」とあります。

日露戦争は無論ですが、日清戦争の背後にも頭山満と玄洋社の存在があったのです。この時、玄洋社が協力したのは日本銀行を創設させた松方正義でした。

1882年に日本銀行を創設した松方正義。
大蔵卿および7回の大蔵大臣を歴任
Wikimedia Commons [Public Domain]

また記事からは後に「中国の父」とされる孫文と頭山たちが深い関係にあったことが分かります。


大隈重信への爆弾襲撃事件 〜緊張関係にあった政府と玄洋社


次いで②の内容に関すること。

ウィキペディアによると、頭山が「不平等条約改正反対運動」を展開したのは、不平等条約を対等条約にするはずが、「実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため」とのこと。

この不平等条約改正(編集者註:実態はむしろ「改悪」)に関する玄洋社の行動は過激でした。ウィキペディアには次のようにあります。

明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。

明治日本にてその支配層の一翼を担っていたのが大隈重信です。その大隈重信が条約改正責任者とのことで、玄洋社の一員から爆弾で殺害されそうになり、右脚を実際に失ったのです。

実行犯の来島恒喜は玄洋社の総帥である頭山満の意向を受けていたと見るのが自然でしょう。大隈重信が外国との妥協した条約改正を調印する、となれば殺害の対象とし条約改正を力ずくで阻止したのです。

日英修好通商条約(1858年)とは「英領日本」の条約でした。当然日本政府としては英国側に最大限配慮した関係を持たざるを得ません。表の天皇となった大室寅之祐は英国女王の守護役となるであろうガーター騎士団員に、大正天皇、昭和天皇はガーター騎士団員だけではなく、英国陸軍の元帥にも任命されています。明らかに表天皇は英国女王とは主従の関係でしょう。

和訳は★阿修羅♪掲示板より引用

それに対して裏天皇は英国女王と主従の関係にあったわけでないです。玄洋社は裏天皇の堀川辰吉郎に仕え、保護・育成する結社でした。この玄洋社の日本政府への姿勢は、両者のその方向性が合致すれば協力し、方針が違えば政府の要人中の要人であっても殺害計画をも実行に移す、というものでした。

日本政府と玄洋社はこのように非常に緊張した関係にあったことを大隈重信遭難事件は教えます。緊張した日本政府と玄洋社の関係は、表天皇側と裏天皇側の関係を表してもいたようにも感じます。

1858年の日英修好通商条約以降の日本における2つの支配構造


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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