ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第32話 ― 伊藤博文の暗殺

 玄洋社の頭山満と共に堀川辰吉郎を保護育成したとされる杉山茂丸、彼こそが八咫烏直属の五龍会の一つである白龍会の総裁とされています。白龍会=玄洋社と見なせます。


 さて、ウィキペディアの「杉山茂丸」記事を一読すれば、杉山茂丸と伊藤博文とは奇妙で深い因縁があったのに気づきます。
 記事によると1884年20歳の青年であった杉山茂丸は「旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した。」とあります。暗殺の対象として面会に成功するも暗殺に失敗した、何とこれが杉山茂丸の伊藤博文との今生での縁の始まりとなっているのです。
 表明治天皇となる大室寅之祐を保護育成したのが長州田布施村の伊藤博文でした。一方、2代目裏天皇となる堀川辰吉郎を保護育成したのは福岡の杉山茂丸です。伊藤博文と杉山茂丸、共に後の天皇の保護育成という役を担った両者となります。
 ところが、その両者の関係は暗殺とその断念という奇妙な縁で始まったわけです。そしてその後も両者は複雑な絡み合いを展開していきます。両者はある意味、非常に深い因縁があったということになるでのしょう。ただし、それはどうも決して幸福な縁とは言えませんが…。
 幕末から明治維新、そして明治時代、維新の志士から明治政府の巨頭として時代をリードしてきた伊藤博文の最期、それは明治末期の暗殺によってでした。伊藤博文の暗殺によって一つの時代が幕を閉じようとし、同時にそれは次の時代への幕開けともなったと言えるでしょうか…。
 伊藤博文のその暗殺が日本の韓国併合に繋がっています。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第32話 ― 伊藤博文の暗殺


謎多き伊藤博文暗殺事件 〜伊藤暗殺で得をしたのは?


1909(明治42)年10月26日、満洲のハルビン駅に降り立った伊藤博文が銃弾に斃れました。ロシアが満洲で運営する東清鉄道の同駅で、伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと非公式会談を行い、朝鮮・満洲問題について意見交換する予定だったとされます。

編集者註:1909年10月26日、ハルビン駅に到着した伊藤博文(5番の挨拶する人物)とそれを出迎えるウラジーミル・ココツェフ(6番の後ろ姿の人物)。この30秒後に伊藤博文は銃で撃たれた

伊藤博文を銃撃した暗殺犯は韓国の独立派闘士の安重根とされます。銃撃を受けた伊藤博文は初代韓国統監を勤めていたのです。しかし、この伊藤博文の暗殺事件に関しては多くの謎と疑惑があるのです。その代表的な一つは、伊藤博文の体内の銃弾が安重根の放ったはずの銃弾と異なったものがあったとの報告があることです。伊藤博文暗殺事件を巡っては諸説紛々の様相なのです。

日本と韓国の当時の状況ですが、『世界史の窓』の「韓国併合」記事で次のようにまとめられています。

日本はその戦争中(執筆者註:1904年開始の日露戦争のこと)と戦後にかけて、韓国との間で3次にわたる日韓条約を締結して、保護国化を進め、その外交や軍事という主権国家としての権限を奪うことに成功した。それに対して、韓国では激しい抵抗が組織され、義兵闘争が1905年から続けられていた。


日本は韓国を保護国として扱い、それに対する韓国側の激しい抵抗があったわけです。その状況下で韓国統監を勤めていた伊藤博文を韓国支配の元凶と見た独立派の安重根が銃撃、その狙いは伊藤博文を亡き者にすることで韓国の独立に繋げていくため。これがハルピン駅での伊藤博文銃撃暗殺事件の一応の表層の構図となりそうです。

しかし事実として、事態はこの表層の構図、そしてその狙いとは全く逆方向に動きます。

伊藤博文暗殺の翌年1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」が公布され、大韓帝国は日本に併合されてその統治下に置かれたのです。全くの事実として伊藤博文の暗殺は、安重根の狙いとされる韓国独立どころか、正反対の韓国併合に利用されたのです。

元々伊藤博文は韓国の併合には反対の立場にいたのです。「伊藤博文は、当初は韓国を保護国としたまま独立を維持させる方針をとっていた。それは日露戦争の建前が『韓国の独立を守るためにロシアと戦う』というものだったからである。」(世界史の窓)といった具合にです。

韓国併合については別の機会に改めて見ますが、元来、韓国併合反対の伊藤博文のその暗殺は、韓国独立派には致命的失策といえる行為であり、ここに伊藤博文暗殺に諸説紛々出てくる理由があります。事実としては伊藤博文暗殺によって“得をした”利益を得たのは、日本国内で大陸進出を目指し、韓国併合を目論んでいた勢力となります。

路線対立していた伊藤と玄洋社 〜日英同盟の隠れた意味


暗殺された伊藤博文と奇妙な、そして深い因縁を持つ人物がいました。落合莞爾氏によると「玄洋社の実質社主」とされる杉山茂丸です。

杉山茂丸
JapaneseClass.jp
[Public Domain]
桂太郎
国立公文書館
[Public Domain]
小村寿太郎
れきし上の人物.com
[Public Domain]

『世界史の窓』の「韓国併合」記事を見れば、日本政府中枢で「韓国併合」に向け強く働いていたのが桂太郎小村寿太郎だと分かります。この桂太郎と盟友関係にあったのが杉山茂丸だったのです。ウィキペディアの「杉山茂丸」記事の中に次のような記述があります。

杉山は暢気倶楽部などを通じて陸軍の児玉源太郎と親しく交際し、対露開戦に向けて努力することを盟約した。のちにこの盟約には、明治34年(1901年)に総理大臣となった桂太郎も加わった。桂・児玉・杉山の三者による活動は、対露戦争回避、日露協商を主張する伊藤博文への対処が中心となった。

陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎と盟友関係を築いた杉山茂丸は、杉山、児玉、桂の三者で、ロシアとの戦争を避け協力関係を取ろうとしていた伊藤博文に対処することになったとしているのです。

前回見たように、玄洋社は「日本の(武力行使を含めた)積極的海外進出」を主張し、「日露戦争開戦論を主張」していたのです。

その玄洋社が主張する海外に対する路線と、真っ向対立する路線を主張していた明治政府の巨頭が伊藤博文であったのです。杉山茂丸と伊藤博文は海外に対するその路線にて相容れない関係だったのです。そして次の記事の続きは決定的な内容となっています。

明治35年(1902年)1月、伊藤博文がロシアとの協商を目的にペテルブルク滞在中、桂内閣が電撃的に日英同盟を締結したのは、伊藤を「日露戦争の戦死者第一号」にしようという杉山の献策に従った政略であった。

杉山茂丸そして桂太郎たちは、ロシアと日本の協商関係を結ぼうと伊藤博文がロシア滞在している期間を狙って「電撃的に日英同盟を締結した」としています。当時ロシアと英国は敵対関係にあり、日英同盟は日露戦争に向けたものです。


…となると協商関係を結ぼうとロシアに滞在していた伊藤博文はロシアにとって“裏切り者”です。実際に伊藤博文の銃撃暗殺は、伊藤がロシアを裏切ったので、その報復としてロシアが実行したとするロシア犯人説もあるのです。

記事によれば、杉山たちは「日露戦争の戦死者第一号」を伊藤にしようとした、とあります。この記述が事実であるならば、間違いなく1902年、杉山たちは伊藤博文を謀殺しようとしていたのです。


伊藤の渡韓に同行した内田良平 〜伊藤の動向を把握していた杉山


韓国統監府へ向かう伊藤博文(手前の人物)
Wikimedia Commons [Public Domain]

韓国統監府が置かれ、元老の伊藤博文が統監に任命されて着任したのは1906年でしたが、この時にも杉山茂丸は伊藤博文に絡んでいます。「杉山茂丸」記事に次のようにあります。

杉山は伊藤に、渡韓に際し内田良平を同行するよう薦め、伊藤は内田を統監府嘱託に採用した。内田は韓国において、親日団体である一進会の李容九や宋秉畯と親交を結び、一進会の日韓合邦運動を支援した。杉山は日本国内にあって、内田からの情報を政府首脳に伝え、また内田や一進会からのさまざまな要請について政府との交渉窓口となった。

杉山茂丸の口利きによって伊藤の渡韓に同行し、統監府嘱託に採用された内田良平ですが、彼は玄洋社総帥の頭山満の教え子で黒龍会五龍会の黒龍会と異なるの主幹となった人物です。簡単に示せば、頭山満、杉山茂丸の仲間であり、玄洋社の幹部ということになるでしょう。

黒龍会主幹 内田良平(右側)
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:写真左の人物は大本教主輔 出口王仁三郎、中央は玄洋社の総帥 頭山満。

杉山が1902年に謀殺しようとした伊藤は、1906年に韓国統監に着任することになったのです。杉山はその際に、仲間である内田良平を伊藤に同行させるよう薦め、内田良平は統監府嘱託に採用されているのです。そして杉山は韓国統監府の内田良平から逐次情報を受けとり、それを政府首脳に伝え、政府との交渉窓口になったとされているのです。

いかがでしょうか? 普通に見れば内田は杉山が伊藤につけたスパイだと見て取れるでしょう。内田は統監府嘱託の身分ですから、日韓関係の情報と同時に伊藤の行動やスケジュールも全て把握していたでしょう。

杉山たちが伊藤博文暗殺事件の背後にあったのかどうかは全く不明です。しかしながら伊藤のハルピン駅の非公式会談の行程表を内田は把握していたこと、そしてその報告を杉山が受けていたこと、これ自体は間違いないでしょう。

…それにしても杉山から謀殺されようとしていた伊藤が、なぜ杉山の薦めに応じ内田を統監府嘱託に採用したのか? 伊藤は謀殺されようとしていたことに気づいてはおらず、杉山を信用していたように思えます。

「杉山茂丸」記事によると「伊藤博文が明治33年(1900年)に立憲政友会を結成するに際して、杉山はその創設資金の一部(執筆者註:10万円)を提供した」からです。

しかし「伊藤博文が枢密院議長に親任され政友会総裁を辞任せざるを得なくなったのも、杉山が桂や児玉に伊藤の祭り上げを献策した結果である」ともされています。

杉山は伊藤を持ち上げる運動をしながらも、逆にウラ面に置いては伊藤を引きずり下ろす工作もしていたようです。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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