ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線

 前回、白龍会総裁、玄洋社の杉山茂丸と伊藤博文が奇妙で深い因縁の関係にあったことを見ました。また、ハルピン駅での伊藤博文暗殺が日本の韓国併合に繋がっていたのでした。
 杉山茂丸と伊藤博文の海外に対する方針姿勢は相容れないものでした。「日本の(武力行使を含めた)積極的海外進出」を主張していた玄洋社の韓国への主張は「日韓合邦」(日韓併合ではない)でしたが、これにしても元来の伊藤博文の姿勢とは相容れないものでした。
 そして対ロシアの方針は玄洋社と伊藤のそれは全く相容れないものでした。日露開戦を強く訴えていた玄洋社、それに対して伊藤はロシアとの戦争回避の協商路線を模索していたのです。
 更にあります。今回はその詳細を見る余裕はありませんが、日露戦争後の満州に対する方針は、玄洋社の杉山茂丸とその盟友である陸軍の児玉源太郎たちと、伊藤のそれとはこれも完全に相容れないものだったのです。
 日本は日露戦争後のポーツマス講和によって満鉄の権利を得ました。杉山たちはこの満鉄を満州の「植民地経営を具体化」に利用する方針で設立、この姿勢を憂慮した伊藤はこれを真っ向から反対したのでした。
 伊藤博文暗殺は韓国併合に繋がりましたが、それだけではなく満州国設立にも繋がっています。更には伊藤暗殺は日米開戦の遠因との指摘もあるのです。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線

杉山茂丸の出自 〜符合してくる事柄


杉山茂丸は、ウィキペディアの記事によると「戦国大名・龍造寺隆信の末裔」と記されています。ところが落合莞爾氏は杉山茂丸について、確かに「杉山家の家系は龍造寺氏の男系」としながらも更に次のようにも記述しています。

茂丸の実父が黒田藩主黒田長溥であることは、7歳時に長溥にお目通りして茂丸の名を頂いた話しで十分判ります。したがって茂丸の実の祖父は黒田長溥の実父の薩摩藩主島津重豪なのです。(『ワンワールドと明治日本』p286)

落合氏の説によると杉山茂丸は黒田藩主の息子であり、更に血統的には薩摩島津氏の流れとなります。蘭癖大名で有名だったのが薩摩藩主島津重豪とその息子の黒田藩主黒田長溥であり、杉山茂丸はこの血族だということになります。そして留意点があって、それは薩摩島津氏は秦氏であることです。

落合氏の説に基づく杉山茂丸の系図


この杉山茂丸に対する落合氏の見解は事実と思えます。なぜならば落合氏の説に基づくならば幾つもの事柄が「ああ、なるほど、それで」と符合してくるからです。見ていきましょう。

玄洋社の墓は黒田氏の菩提寺である博多の崇福寺にありました。これは杉山茂丸が玄洋社の実質社主であり、黒田藩主の息子であるなら「ああ、なるほど、それで」となります。

②ウィキペディアの「玄洋社」記事には次の記述があります。

 多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館

玄洋社の社員で日露戦争の影の立役者であった明石元二郎は修猷館(しゅうゆうかん)の出身でした。

また里見甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)という非常に重要な人物がいました。彼は現在の電通の前身である満州国通信社の社長兼主筆を勤め、更にアヘン貿易の里見機関の主でアヘン王と称された人物です。この里見甫も玄洋社の関係者で修猷館を卒業しています。


このように元々黒田藩の藩校であった修猷館が「多くの玄洋社の運動家を輩出」し、玄洋社と非常に縁が深かったのも、玄洋社の社主杉山茂丸が黒田藩主の息子ならば「ああ、なるほど、それで」となります。

修猷館の徽章:六光星
日清戦争直後の1894年に制定。
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:六芒星についてはこちらを参照。

前回、杉山茂丸と伊藤博文が非常に奇妙で深い因縁にあったことを見ました。杉山茂丸が伊藤博文を暗殺しようとしたのが縁の始まりで、杉山は日露関係などを巡り伊藤博文を謀殺しようとしていた模様でした。

こういった背景には何があったのか? 杉山茂丸が血統としては島津氏つまり秦氏の血流だと知れば「ああ、なるほど、それで」の部分もでてきます。

八咫烏は秦氏を中心とする秘密結社です。その八咫烏は明治維新の際には長州の田布施一族と確かに手を組みました。それで薩長を主力とした勢力が成立し明治維新は成功しました。

その後ですが、明治政府は長州田布施出身の大室寅之祐を明治天皇として戴いており、薩長勢力の中でも明治政府の中で実権を握っていったのは伊藤博文を中心にした田布施一族であったといえるでしょう。

さて、明治維新で手を握った秦氏と田布施一族でしたが、しかし元々は秦氏と田布施一族は仇敵の関係にあったはずなのです。杉山茂丸は秦氏の血流であり、伊藤博文は田布施一族であって、秦氏と田布施一族が仇敵の関係にあったことを踏まえれば、伊藤博文に対する杉山茂丸の行動がある程度は理解できるのです。

1858年の日英修好通商条約以降の日本における2つの支配構造

裏天皇と長州勢の関係 〜明治政府によってダメージを受けた八咫烏


杉山茂丸と伊藤博文の関係、そして伊藤博文の暗殺には、杉山と伊藤の両者が仇敵であった秦氏と田布施一族であることを含め、他の伏線もあったでしょう。

ウィキペディア「玄洋社」記事に、

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。

とあります。

この玄洋社の「敬戴すべし」とされる皇室は大室寅之祐からの皇室ではなく睦仁親王、堀川辰吉郎の裏天皇の皇室になるでしょう。

ところが睦仁親王たちと田布施一族を含めた長州勢との関係…。

1864年に「禁門の変がありました。これはその前年「八月十八日の政変」で三条実美ら急進的な尊攘派公家と共に長州藩が京都を追放されており、その長州勢力が巻き返しを目指して挙兵し京都市街戦を繰り広げた事件です。


この際に長州勢は何と孝明天皇そして睦仁親王が住まう御所に砲撃をするという前代未聞の暴挙に出ています。長州勢の御所襲撃の際に睦仁親王は、砲声と女官達の悲鳴に驚き「失神」したと伝わっています。

御所をそして京都を守護する主力は会津藩で、そこに薩摩藩なども加わった京都守護勢力が朝敵長州勢と対峙し武力衝突しました。この時点では会津&薩摩と長州勢は敵同士です。それで長州藩士のあいだでは「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」が合言葉になったとされます。

そして明治維新を成立させた一連の戊辰戦争の中の「会津戦争」で、政府軍(長州勢が中心と思えますが)はさんざん会津を蹂躙し、住民を虐殺など残虐行為も犯しています。

御所を襲撃砲撃した長州勢に対し睦仁親王は生涯嫌悪の感情を持っていたと推察されます。これは孝明天皇も同様だったでしょう。

長州勢を京都から追放した「八月十八日の政変」は孝明天皇の意向を受けた朝彦親王が画策しています。また蹂躙された会津に関しても、京都をそして御所を身を挺して守護した会津藩主松平容保(かたもり)は、孝明天皇が最も心を許し信頼した人物とされるのです。

更にあります。明治政府のいわゆる「廃仏毀釈」で修験道そして陰陽道は廃止させられ、いうまでもなく本来の八咫烏は大ダメージを受けています。ウィキペディア「八咫烏(結社)」記事で「大日本帝国憲法が公布される頃には解体寸前まで追い込まれるほど衰退の危機に瀕した。」とある通りです。


杉山茂丸と伊藤博文の複雑で深い因縁と伊藤暗殺の背景には、

杉山と伊藤がそれぞれ仇敵の関係にあった秦一族と田布施一族であった。
田布施一族たち長州勢に対し玄洋社が「敬戴すべし」とした孝明天皇、そして睦仁親王が嫌悪の思いを持っていたであろうこと。
田布施一族が実権を握っていった明治政府が、その政令で八咫烏に大ダメージを与えていたこと。

以上の点が伏線として挙げられるように思えます。ただしこれらのことはあくまでも伏線にしか過ぎません。


杉山の満鉄創設への立案 〜植民地経営を具体化


杉山茂丸が成した事業の最大のものが南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立に関することでしょう。日露戦争と満鉄設立は一連のものですが、満鉄の設立はその後の日本にとって計り知れないほどの影響を与えるものだったのです。

ウィキペディアの「満鉄」記事には次のような記述がある通りです。

最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンで、鉄道総延長は1万キロ、社員数は40万人を擁した。

ウィキペディア「杉山茂丸」記事の「日露戦争の幕引きと満鉄設立」には、

①日露戦争の1905年奉天会戦後、杉山の進言に従い児玉源太郎が帰国し、政府首脳に講和の必要性を説いた。
講和の聖旨を伝達するため山縣有朋が渡満、杉山はこれに随行。
③児玉から戦後の満洲経営策を立案するよう依頼され杉山は、半官半民の合同会社の鉄道会社創設を立案。この立案によって満鉄が設立された。

とあります。

前回取り上げたように、杉山と陸軍の児玉源太郎とは盟友関係にあり、「対露開戦に向けて努力することを盟約」していたのです。日本の海外拡大路線を基調に日露戦争開戦に杉山と児玉が深く関与していたわけです。

杉山茂丸
JapaneseClass.jp
[Public Domain]
児玉源太郎
平成の松下村塾
[Public Domain]
明石元二郎
Wikimedia Commons
[Public Domain]

そして「日露戦争の幕引き」ですが、日露戦争の影の立役者、玄洋社社員の明石元二郎の諜報戦は、ロシアの日露戦争継続を断念させる工作でした。

日露戦争の開戦幕引きそして日露講和に玄洋社が大きく関わっていたわけです。日露講和で手に入れたのが満鉄の権利だったのです。

ウィキペディアの満鉄記事では、児玉がイギリス東インド会社を参考にしたとし、その上で児玉の満鉄の設立目的を次のように記しています。

日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満州経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった。

日本の植民地経営を具体化していくための組織」、これは盟友であった杉山の方針でもあったでしょう。この方針に沿って杉山は「半官半民の合同会社の鉄道会社創設を立案」、満鉄の設立に至ったわけです。

しかしこの杉山や児玉の海外拡大路線、そして満鉄による満州の「日本の植民地経営を具体化」、これに真っ向から反対したのが伊藤博文だったのです。

長州閥全体が海外拡大路線に反対していたわけでは全くありません。しかしその中で伊藤博文は日本の行方に対して深く憂慮し、韓国併合もそうですが、満州での植民地経営に強く反対の意を表明していたのです。

私はこれが伊藤の運命を決したように感じます。

1909年10月26日、ハルビン駅で安重根に狙撃される伊藤博文


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.