ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

 自ら望んで「護国の鬼」となったある人物がいます。その人物の名前は明石元二郎ウィキペディア記事によると台湾総督に就任し、台湾軍の初代司令官も兼務し、周囲からは次の総理大臣を期待される中の1919年10月、志し半ばで郷里の福岡で55歳で死去したのが明石元二郎です。
 彼は死に際し「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言したとのこと。
 この遺言に従い、彼の遺骸は福岡から台湾に移され埋葬されたとあります。激烈な生涯を遂げたであろう明石元二郎は別のことで有名でもあります。日露戦争における諜報工作で、明石元二郎の諜報戦によって日露戦争で日本は勝利を得たともされるのです。日露戦争の影の立役者です。
 日清戦争が終結したのは1895年、日露戦争が開戦したのは1904年です。この間僅かで10年も経っていません。日本とロシア、その国力には大きな開きがあり、普通に見れば日本にとって日露戦争は無謀な戦争といえるでしょう。日露戦争で日本が有利に戦局を進められると見ていた国家はほぼ皆無だったのです。その中、意外にも日本は善戦をします。
 ただし、開戦の翌年には日本の戦闘体力はつきようとしていました。その状況下で、ロシアが日本に有利な講和に応じざるを得なかったのはロシアの国内事情からです。革命運動の激化による国内不安がそれで、これを喚起させたのが明石元二郎とされるのです。
 もともと日露戦争を強く誘導したのはロスチャイルドです。ロスチャイルドの帝政ロシア打倒作戦の一端が日露戦争だったのです。それと日本国内にも日露戦争を強く推し進める勢力がありました。それが福岡を本拠とする玄洋社です。明石元二郎も玄洋社の社員だったのです。
 玄洋社は八咫烏の政治組織です。自ら望んで「護国の鬼」となった明石元二郎は八咫烏の一人だったのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

日露戦争の帰趨を決めたロシア国内事情 〜戦闘では敗北していた日本


明石元二郎
Wikimedia Commons [Public Domain]

明石元二郎1904年に始まった日露戦争における日本側の最重要人物が彼でしょう。明石元二郎の諜報戦の働きによって日露戦争で日本の勝利が導かれた、ともされているのです。

日露戦争は、一応は日本が勝利したことになっています。しかし少なくとも、それはいろんな意味で「苦い勝利」と言わなければならないでしょう。

一例を上げます。戦死者数です。「人間自然科学研究所」のデータによると日露戦争の戦死者は日本側は11万5600人、ロシア側は4万2600人となっています。意外なことに日本はロシアの3倍近い戦死者をだしているのです。

戦死者の数を比較し戦闘という観点に絞って見るならば、敗者は明らかに日本側です。日本側は自国兵士を消耗品として扱った大苦戦のすえにようやくロシアとの講和に持ち込んだのです。前回リンク資料とした藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』では次にある通りです。

兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴であった。(中略)...日露戦争の場合は兵士を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。(中略)...旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。

大国ロシアを相手の日本の戦争はやはり無理があったのです。

第一軍司令部と観戦武官
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しかし、日本が苦戦を強いられながらもロシア相手に有利な講和条約にこぎつけられた、これはロシア国内の革命運動による国内不安からだったのです。近・現代編の第6話に次のように記した通りです。

1904年には日露戦争が勃発します。風刺画に描かれていますが日本にとっては、国力がまるで違うロシアが相手で、尻込みするのを英国と米国にけしかけられた戦争といえるでしょう。日本は開戦近くまで戦費の調達すらままならなかったのです。ところが予想外にも開戦から日本は連勝を続けます。しかし翌年には日本の体力は尽きてきていました。

そのような1905年、ロシア国内では1月のガポン神父率いるデモ隊への軍の発砲にて多数の死傷者がでた「血の日曜日事件」をきっかけとして、第一次ロシア革命が起こります。「日露戦争当時、ユダヤ人たちは『ロシア政府の敗北』というスローガンを掲げて革命運動を展開」「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」(イワノフ氏)のです。国内が荒れ不安定化したロシアは、既に体力の尽きた日本と不本意ながらも米国の仲介で9月に講和条約を結びます。


日露戦争はロスチャイルドの計画 〜茶番だったシフの日本国債引取


ウィキペディアの「明石元二郎」記事では、彼の「日露戦争での諜報活動」として次のようにあります。

明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたもの

記事にあるように、明石元二郎の狙いは「ロシアの対日戦争継続の意図を挫折」させることだったのです。日露戦争が継続すれば、大きく国力に劣り、戦闘体力を既に消耗していた日本は敗北に陥るよりなかった筈なのです。

ところが、日露戦争中のロシア国内の革命運動激化による国内不安、「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」ことにより日本が有利な講和条約を結べたのです。そして、このロシア革命を喚起させたのが、明石元二郎の手腕によるものだったとされるのです。

第一次ロシア革命のきっかけとなった血の日曜日事件(1905年)
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それで同記事では「参謀次長長岡外史は、『明石の活躍は陸軍10個師団に相当する』と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、『明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。』と言って称えたと紹介する文献もある」とされているのです。

ただし、ロシアの革命運動を展開・激化させたのはハザール・ユダヤ人グループであり、その背後にあったのはウイーン会議以来のロスチャイルドの画策であったのはこれまで見てきたとおりです。

そもそも日露戦争はロスチャイルドの描いた絵図に沿ったものでしょう。ロスチャイルドは、対ロシア工作として内部では革命運動の激化によって揺さぶり荒廃させ、外的には日本を用いて叩くという作戦です。

日露戦争前の1902年に日英同盟が結ばれています。もともと英領日本と英側の同盟なのでまともな同盟のはずはないのですが、この日英の英とはイギリス東インド会社、および後継の300人委員会と見たほうが本質に近いでしょう。300人委員会の代表は英国女王ですが、その実質的な大ボスはロスチャイルドです。ロスチャイルドが主導したであろう日英同盟の下、日本は帝政ロシアに立ち向かうことになったのです。

従って日露戦争の戦費調達のための日本国債を、ロスチャイルドの大番頭ジェイコブ・シフが引き受けたのはごく当然のことだったのです。日本国債の引き受け先がなく、途方に暮れていたところをジェイコブ・シフに助けられた、などというストーリーなど茶番です。その茶番で、日本はジェイコブ・シフに高利を払った上に勲章を授けてもいるのです。馬鹿馬鹿しい限りです。

編集者註:図中のADLとは「ユダヤ名誉毀損防止連盟」のこと。
Wikimedia Commons [Public Domain]
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ともあれ、ロスチャイルドの対ロシア工作と、日本側の明石元二郎などの工作という合作によるロシアの内部からの弱体化が、日露戦争の帰趨に繋がったのです。


明石元二郎と連動した満洲義軍 〜日露戦争の影に玄洋社の存在


玄洋社の総帥 頭山満(中央)
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編集者註:写真左の人物は大本教主輔 出口王仁三郎、右は黒龍会(五龍会の黒龍会ではない)主幹 内田良平。

ロシアの弱体化に大きく貢献した明石元二郎ですが、彼は1864年に福岡藩(黒田藩)に生まれ、藩校修猷館を経て陸軍軍人となっています。その明石元二郎と連動し、対ロシア工作に働いたのが満洲義軍のようです。明石元二郎のウィキペディア記事に次のようにある通りです。

満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

ロシアをその工作によって内側から揺さぶる明石元二郎、その明石元二郎と連動してロシアを後方から攻撃し、撹乱させたのが満洲義軍だったようです。ウィキペディア「満州義軍」記事では次のようにあります。

日露戦争中の1904年、ロシア軍の後方攪乱・兵站破壊を任務として満州の馬賊を集めて創設された特別任務隊である。

ロシア軍の後方で活動する満州義軍がロシア軍の将兵に与えた心理的ダメージは計り知れない。

満洲で馬賊を集めて構成されたのが満洲義軍であり、明石元二郎の工作と相俟ってロシアに大ダメージを与えたのが分かります。

ところがこの満洲義軍について以下のようにもあります。

満州義軍については、研究がほとんど存在しない。何故ならば、この組織は国際法に抵触する秘匿されたものであり、当時の公式の戦史に記述が存在しないからである。

どうやら満洲義軍は秘密部隊だったのです。

謎の満洲義軍ですが、その正体について記事に「福岡市崇福寺内の玄洋社墓地に『満州義軍義士之碑』がある。」とあります。玄洋社の墓地に「満州義軍義士之碑」、つまり明石元二郎と連動した満洲義軍は、玄洋社のメンバーによって立ち上げられ、構成されていたことを示しています。

滿洲義軍志士之碑(福岡市崇福寺

また、ウィキペディアで「玄洋社」を検索するとその記事の中に、

ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。

とあります。満洲義軍がそうであったように、明石元二郎もまた玄洋社の関係者(社員)だったのです。

実は、日本国内勢力として日露戦争開戦を強く主張していたのが玄洋社のようなのです。日露戦争はロスチャイルドの画策、そして日本では玄洋社の動きによるものだったということでしょう。

ロスチャイルドと深い関係にあったのが八咫烏です。玄洋社も八咫烏の組織です。



Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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