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ぴょんぴょんの「絶体絶命の硫黄島」 〜栗林中将は「太平洋戦争最高の名将」だったのか?
激戦地だった硫黄島
1945年2月23日 硫黄島
— J.WH (@JPNHistoria) February 23, 2021
*摺鉢山の星条旗
第二の星条旗を立てる様子。
この時撮影された写真は、史上もっとも有名な報道写真の一つとなり、1945年度のピューリッツァー賞の写真部門に受賞した唯一の写真となった。また写真に写っている6名のうち、3名はその後硫黄島で戦死。 pic.twitter.com/TTGKKWi74b
硫黄島に行ったら「島のものはゼッタイに持ち帰ってはいけない」という決まりがあるそうだ。
というのも、硫黄島の石を持ち帰った自衛隊員が、行方不明になって、樹海で亡くなってたなんてことも。(YouTube)
それを知りながら、硫黄島を出る直前、隊員たちが、きらいな上官の荷物に石をたくさん入れたという話もある。
というのも、硫黄島の石を持ち帰った自衛隊員が、行方不明になって、樹海で亡くなってたなんてことも。(YouTube)
それを知りながら、硫黄島を出る直前、隊員たちが、きらいな上官の荷物に石をたくさん入れたという話もある。
じゃねくて、本で読んで、行ってみたくなったんだ。
だが、飛行機は飛んでねえし、船もねえ。
おかしいと思ったら、あそこに行けるのは米軍、自衛隊、建設関係者、式典の出席者、遺骨収集の人くらいで、一般人は立入禁止だったんだ。
東京都なのにって、おどろいた記憶がある。
だが、飛行機は飛んでねえし、船もねえ。
おかしいと思ったら、あそこに行けるのは米軍、自衛隊、建設関係者、式典の出席者、遺骨収集の人くらいで、一般人は立入禁止だったんだ。
東京都なのにって、おどろいた記憶がある。
だが、実際には、とても人が住めるような島じゃない。
まず、飲み水がない。
井戸水はしょっぱくて飲めないから、島民は雨水を貯めて飲料水にしていた。
しかも、沖縄なみに暑い。
米も作れないので、本土からの輸送に頼っていた。
まず、飲み水がない。
井戸水はしょっぱくて飲めないから、島民は雨水を貯めて飲料水にしていた。
しかも、沖縄なみに暑い。
米も作れないので、本土からの輸送に頼っていた。
絶体絶命の危機に登場した栗林中将
かもしれねえ。
武器も食料も水もない。兵士は寄せ集めで、年取ったのばかり。
相手はアメリカさんで、多勢に無勢、勝ち目はない。
そんな前線に送り込まれたのは、よっぽど、なにかしでかしたんだろな。
しかし、栗林が来たことで、大勢が死ぬことになろうとは。
武器も食料も水もない。兵士は寄せ集めで、年取ったのばかり。
相手はアメリカさんで、多勢に無勢、勝ち目はない。
そんな前線に送り込まれたのは、よっぽど、なにかしでかしたんだろな。
しかし、栗林が来たことで、大勢が死ぬことになろうとは。
たしかに彼は、死を覚悟で、できる限りのことをした。
自分たちは捨て駒になっても、本土のために、時間稼ぎでがんばった。
部下とともに働き、最期まで硫黄島から一歩も出なかった。
だが、彼は頭が良すぎたんだ。
自分たちは捨て駒になっても、本土のために、時間稼ぎでがんばった。
部下とともに働き、最期まで硫黄島から一歩も出なかった。
だが、彼は頭が良すぎたんだ。
栗林は、硫黄島を視察した。
このまったいらな火山岩の島には、摺鉢山がちょこんとあるだけ。
そうか、アメリカ軍を上陸させて、丸見えになった所を攻撃しよう。
だが、海軍の考えは違っていた。
海岸線で待ちぶせて、上陸してくるアメリカ軍を、ありったけの火器で攻撃する。
そして最期は「天皇陛下、バンザイ!」と叫んで突撃する「バンザイ突撃」だ。
このまったいらな火山岩の島には、摺鉢山がちょこんとあるだけ。
そうか、アメリカ軍を上陸させて、丸見えになった所を攻撃しよう。
だが、海軍の考えは違っていた。
海岸線で待ちぶせて、上陸してくるアメリカ軍を、ありったけの火器で攻撃する。
そして最期は「天皇陛下、バンザイ!」と叫んで突撃する「バンザイ突撃」だ。
重機なんてもんは、ねえよ。
しかも、近海はアメリカの飛行機や船がうろついていて、食料すら届かなくなっていた。
「栄養失調と過重労働のため、兵士の多くはやせ細り、本来なら闘える体ではなかった。」(XTECH)
しかも、近海はアメリカの飛行機や船がうろついていて、食料すら届かなくなっていた。
「栄養失調と過重労働のため、兵士の多くはやせ細り、本来なら闘える体ではなかった。」(XTECH)
半年後の12月、蟻の巣みたいに張り巡らされた、総距離18キロメートルの巨大地下壕がようやく完成した。
1945年2月19日、硫黄島にアメリカ海兵隊が上陸し、かの有名な写真が撮られたのは、その5日後の2月23日。
しかし、そこからさらに戦闘は4週間続き、アメリカ軍兵士11万人のうち、2万6000人が死傷した。 (NATIONAL GEOGRAPHC)
日本兵も2万人以上が亡くなり、今日でも1万人を超える日本兵の遺体がトンネルの中に埋まっている。(XTECH)
1945年2月19日、硫黄島にアメリカ海兵隊が上陸し、かの有名な写真が撮られたのは、その5日後の2月23日。
しかし、そこからさらに戦闘は4週間続き、アメリカ軍兵士11万人のうち、2万6000人が死傷した。 (NATIONAL GEOGRAPHC)
日本兵も2万人以上が亡くなり、今日でも1万人を超える日本兵の遺体がトンネルの中に埋まっている。(XTECH)
栗林中将の「死の真相」
だが、これは事実じゃない、と作家の大野芳氏は言う。
雑誌SAPIO(2006年10月25日号)の『栗林中将の「死の真相」異聞』には、
「事実は正反対で、栗林中将が米軍に投降しようとしたため、それに反対する部下が栗林中将を斬った」。(XTECH)
雑誌SAPIO(2006年10月25日号)の『栗林中将の「死の真相」異聞』には、
「事実は正反対で、栗林中将が米軍に投降しようとしたため、それに反対する部下が栗林中将を斬った」。(XTECH)
戦記ものにはまって、激戦地だった硫黄島に行こうと思ったことがあります。
ところが、飛行機も飛んでないし、船もない。
一般人は立入禁止と知って、がっかりした覚えがあります。