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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第9話 ― 暴力支配
右翼思想の謎 〜天皇が抹殺対象に
孫崎享氏は『日米開戦の正体』p486にて、天皇を巡る戦前史の見方について以下のように投げかけています。
日米開戦へ向かう道で、日本の向かう方向の最終決断を握っていたのは天皇です。この天皇が、自分は軍部や、右翼に暗殺される危機を感じていたとすれば、戦前史の見方が大きく変わります。
この上で続いて孫崎氏は、新右翼団体「一水会」の最高顧問鈴木邦男氏との対談の様子を記載し、右翼の天皇に対する態度について驚くべき、そして決定的な言質を引き出してもいます。以下のとおりです。
孫崎:...(中略)右翼思想の根本は天皇陛下を重視することでしょう?
鈴木:確かにそうなのですが、実は右翼の思想上、それが難しい。例えば2.26事件で蹶起した将校たちは、昭和天皇の決断で処刑されました。(中略)...さらには、戦後に人間宣言をしたのも間違いだと思っている右翼はいるわけです。そうすると天皇のすべてが偉いのではなく、天皇の理念こそが正しいという考え方が出てくる。だからゾルレン(あるべし)としての天皇と、ザイン(ある)としての二つの天皇が存在するというわけです。これが極端にすすむと、ゾルレンの天皇を守るためには、ザインの天皇を殺してもいいとの暴論まで吐く人もいました。
(『いま語らねばならない 戦後史の真相』)
右翼の鈴木氏が、「ゾルレンの天皇を守るためには、ザインの天皇を殺してもいいとの暴論まで吐く人もいました。」と指摘しました。満洲事変の頃から、軍部には、この考により、自分達の政策を支持しない天皇は排除すべき、という動きが見られます。
(『日米開戦の正体』p487)
この孫崎氏と鈴木氏の対談は、平成の後期、現在の明仁上皇が憲法を遵守し、日本の民主主義を大切にしようとの姿勢を明瞭にされたのに対し、時の安倍政権、そしてそれと与する右翼を名乗る人物たちが、天皇のこの姿勢に抗する動きを見せたことが発端になっています。
天皇の統帥権、戦前軍部は軍事関係を統帥権の下、他の介入を排除。しかし、天皇の意思は無視。軍の政策に反対する時は天皇を排除する脅しを行ってきた。今天皇の権限を強めようとする人々は、今日の天皇の平和への願いは全く無視。天皇という制度を自分達の政策を遂行する道具として使いたいだけ。
— 孫崎 享 (@magosaki_ukeru) December 24, 2014
安倍政権は一貫して憲法の改正を、より具体的には「緊急事態条項」の憲法への埋め込みを窺う姿勢を見せてきました。これは現憲法を戦前の帝国憲法に戻す動きと言えます。(この帝国憲法回帰の動きは現在も同様です。先日令和3年5月3日には菅首相が憲法改正と「緊急事態条項」への言及があった通りです。)
帝国憲法は国家元首を天皇と定め、「神聖にして侵すべからざる」現人神の天皇は、皇軍を統帥する定まりになっています。帝国憲法では絶対権限を有していると言っても過言でもない天皇、この天皇をひたすらに敬重し、おしいただくのが右翼思想のハズ。
旭日旗の小旗を持つ幼少期の昭和天皇(1902年)
Wikimedia Commons [Public Domain]
ところが、現実には右翼を名乗る人物たちは、天皇が自分たちの思い描く姿と異なる姿勢を、つまり現憲法を遵守し、日本の民主主義を大切にする姿勢を見せれば、これを排撃する動きをとります。
天皇を敬重するはずが、天皇の思いや姿勢が気に入らなければこれを無視したり攻撃対象とする、この右翼のどう見ても矛盾したあり方と言動を「なぜなのか?」と孫崎氏は鈴木氏に問うたのです。
この孫崎氏の問に鈴木氏は決定的なことをコメントしたわけです。すなわち、右翼には「自分たちの理想の天皇を守るためには、その理想と外れた現実の天皇は殺しても良い」と主張する人間がいると言明したのでした。そして問題は、「理想のためには現実の天皇を殺しても良い」と暴論を吐く右翼は、現在のごく一部の「はねっかえり」だけではないということです。
この「理想のためには天皇も排除すべき」との動きや考え方は、既に満州事変の頃の軍部に浸透していたもので、それが連綿として現在まで続いているというのが孫崎氏の見解なのです。
昭和天皇の危惧 〜軍事クーデター
「自分達の政策を支持しない天皇は排除すべき」、この軍部の姿勢は、単なる言葉だけではない具体的なもので、現実に多大な影響を与えたことを孫崎氏は引き続いて以下のような内容にして記述しています。
*(1931年9月の柳条湖事件が始まりとなって満州事変は拡大・展開していき、満洲国設立に繫がったのですが、)昭和天皇は満州事変が拡大する軍事作戦(1933年の熱河作戦)の中止を指示しようとした。
しかし、この天皇の動きは側近の反対の進言により取りやめに。具体的には、軍の動きに天皇が口を挟み反対するならば「天皇の排除も」起こりうると進言され、天皇は作戦中止の司令の発出を取りやめた。
1933年2月5日の熱河作戦で、昭和天皇は「これ以上軍が作戦行動を続けるなら、連盟から除名される危険性が高い」とし、統帥最高命令で制止させようとするも、奈良侍従武官長に「国策の決定は内閣の仕事であり、陛下の御命令で中止させると政変の原因となる」と返されている。
— 公衆衛生上の緊急事態を宣言する枢密院勅令 (@order1914) June 25, 2018
*満州事変に関し「『天皇が反対する時には短刀を突きつけても俺たちの主張を認めさす』と叫んだ昭和の軍閥」の存在があった。
*こういった軍部に対し、昭和天皇は「もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう」と語った。
そして昭和天皇は日米開戦に至る経緯において、軍によるクーデターを非常に危惧していた。
昭和天皇の軍部などに対する危惧、天皇が暴力テロ暗殺の対象となること、これが昭和天皇や側近たちの単なる杞憂ではないことは「歴史の襞の中から」で見てきた通りです。
実際に天皇が、具体的には大正天皇が精神病扱いされ、社会的生命は奪われ、それだけでなく暴力テロ、そして暗殺攻撃を受けていたのです。さらには皇太子選出を巡っての血みどろの争いが、私たちの目に触れないところで発生していたのです。
大正天皇へのテロ攻撃には昭和天皇も一枚かんでいたでしょうが、この攻撃は昭和天皇自身にも跳ね返る類いのものだったのです。昭和天皇もまた、その命を狙われるような危険な状況にあったわけです。
またこの当時、日本社会では目に見える形で暴力テロの嵐、そして軍事クーデターの大騒動が発生してもいました。犬養首相が青年将校によって殺害された1932年の5.15事件がそれですし、同年のその前には、民政党幹事長の井上準之助射殺(血盟団事件)、三井財団総帥團琢磨殺害が発生しています。
そして最大の暴力軍事クーデター事件が、高橋蔵相らが皇道派青年将校によって殺害された1936年の2.26事件です。
無論これらだけでなく、未遂や計画だけで終わったテロやクーデターは数多くありました。
二・二六事件を起こした陸軍青年将校ら
Wikimedia Commons [Public Domain]
陸軍トップが「天皇退位計画」? 〜右翼の崇敬の対象
満洲事変の頃は、暴力とその恐怖によって支配された時代であり、また大混乱の時代でもあり、無数の具体的な暴力を伴った抗争が起きていたのです。
これには多くの重要人物が関係するのですが、その中で一人だけ重要人物に触れてみます。孫崎氏が5.15事件、2.26事件にも深く関わると見る荒木貞夫です。
1933年、タイム誌の表紙を飾った荒木貞夫
Wikimedia Commons [Public Domain]
孫崎氏は『日米開戦の正体』p310、この荒木貞夫の但し書きを次のようにしています。
陸軍軍人、政治家。1931年、犬養内閣の陸相となり、陸軍中央を皇道派で固めると共に、青年将校たちの急進的な行動を容認。5.15事件や2.26事件が起きる要因の一つとなる。第1次近衛内閣で文相となり軍国主義教育を推進。
そしてこの荒木貞夫についてp311に次の記述があります。
極東国際軍事裁判における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという
この通りだとすれば、天皇が統帥する陸軍、そのトップの荒木陸相自体が天皇退位の計画を有し、それに基づいて「青年将校たちの急進的な行動を容認」していたことになります。
この荒木貞夫ですが別視点として、落合莞爾氏の『國體アヘンの正体』p278には「國體参謀総長としての上原勇作の後継者となった荒木貞夫が」とあります。
上原勇作は赤龍会の総長です。赤龍会総裁の上原勇作は、落合氏によれば國體参謀総長でもあって、この國體参謀総長の座を引き継いだのが荒木貞夫だというのです。
この國體参謀総長の座の変遷については確認ができませんが、どうもやはり、昭和天皇の危惧の背景には裏天皇・堀川辰吉郎の影が見えます。
翻って、右翼思想の矛盾、つまり「天皇を絶対視し敬重するはずが、現実の天皇の思いや姿勢は無視し、あまつさえ排除抹殺さえ厭わない」、なぜ右翼にはこのような矛盾した考えが成立するのか?
私たちにはその答えは既に自明です。右翼の原点を見れば明瞭なのです。
右翼の原点はアムール川の内田良平の黒龍会であり、さらに遡れば玄洋社(白龍会)です。玄洋社は憲則として「第一条 皇室を敬戴すべし。」とあります。しかし、玄洋社の頭山満が育成し、仕えたのは裏天皇の堀川辰吉郎です。
玄洋社(白龍会)の「敬戴すべし。」の対象は、大正天皇や昭和天皇の政体天皇ではなく、國體天皇と彼らが見る裏天皇の筋だったのです。
玄洋社(白龍会)にとっては、裏天皇の意向に反するならば、現実の政体天皇も抹殺の対象となっていたのです。これが右翼思想の矛盾への解答です。
これらの争い抗争は、単なる議論や誹謗中傷などでの攻撃ではすまず、実力行使の暴力による流血の抗争が多くあったのです。多くの人物がその抗争によって殺傷されています。この具現化された日本社会での争いには、いくつもの要因はあったでしょう。
ただ、その争いの最上部、そして種々の日本での抗争の元にあったと思えるのが、禁裡内、皇室の争いだったでしょう。幕末期から明治維新にその原点が生じていたものです。
幕末、日本は英領(正確にはイギリス東インド会社、後の300人員会のシマ)となり、國體天皇である孝明天皇は薨去を偽装し裏に回り、英国女王の下に政体天皇として明治天皇がたてられました。
明治維新は「南朝革命」とも言われます。明治期の早々に、それまで天皇が禁じていた「鬼神祭り」を専らとする「招魂社」(靖国神社など後の護国神社)が日本各地に創建されました。また、湊川神社を始め、南朝に貢献した楠正成などを英雄や神と祀る神社群も創建されていきます。南朝勢力が日本を牛耳っていったと言えるでしょう。
しかし、北朝勢力も座視していたわけでもないのでしょう。竹下さんは2014/10/25記事にて、
こうだとすると、北朝勢力の巻き返しがあったと見られます。ただし、勢力が強大で強力な暴力装置を有していたのは、やはり南朝勢力(裏天皇側)。当時の状況を検証すれば「喉元に匕首を突きつけられた」ような難しい状態にあったのが昭和天皇だったように見受けられます。