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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第8話 ― 実験国家・満洲国の建国
満洲皇族と八咫烏の関わり 〜「嵯峨浩」の出自
満洲国とは関東軍の傀儡国とも言えるのですが、それでもやはり、その国家元首は当然ながら重要です。清朝は満洲族が創建した国家でした。その清朝最後の皇帝が愛新覚羅溥儀であり、その溥儀が満洲国の元首として選定されたのです。
満洲帝国軍大元帥服で皇帝に即位する溥儀
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さて、満洲皇族たちの代々の居城が言うまでもなく紫禁城でした。清朝崩壊後もしばらくは満洲皇族たちは紫禁城にありました。この紫禁城に裏天皇・堀川辰吉郎の居住場所があったことは、大正編 第11話で見たとおりです。
落合莞爾氏によれば溥儀の摂政を勤め、清朝末期の満洲皇族の中心だったのが醇親王、この醇親王のはからいによって、満洲皇族との対応を担当した堀川辰吉郎が紫禁城内に居住場所を構えることになったようです。
この事実にたてば、満洲国設立にあたり清朝最後の皇帝溥儀が満洲国元首になったこと、これに堀川辰吉郎・八咫烏が関わっていないはずなどないのは全く明白です。
そして満洲皇族では、溥儀の弟の愛新覚羅溥傑も八咫烏絡みであるのが見て取れて興味深いです。愛新覚羅溥傑本人そのものよりも、その妻の出自に目を引かれるのです。
溥傑の妻が「嵯峨浩」です。自伝『流転の王妃』を著した女性で、侯爵嵯峨家(公家華族)の長女とウィキペディアの「嵯峨浩」記事にあります。
ただし、嵯峨浩は嵯峨家の娘ではありますが、この記事の系図をみれば分るように、嵯峨浩は同時に中山忠光の忘れ形見の中山南加の孫娘でもあることが分かります。
中山家、嵯峨家、満洲皇族の系図
Wikimedia Commons [Public Domain]
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中山忠光とはいかなる人物であったか?
倒幕、そして明治維新を導いた中核組織が、八咫烏の政治組織として結成された「天忠党」でした。この天忠党の下部組織に「天誅組」があり天誅組の主将が中山忠光だったのです。
幕末期、中山忠光は天忠党総督・中山忠伊(光格天皇の皇子)の采配の元に決起挙兵、「大和天誅組の変」を起こします。しかし敗走し、長州に逃れ潜伏。ところが、そこで中山忠光は斬殺され、非業の死を遂げたのでした。
中山忠光は、五龍会の中心・黄龍会の初代総裁でもある中山忠能の息子でもあります。忠光は長州の地にて非業の死を遂げますが忘れ形見、中山南加を遺していたのでした。
この中山忠光の遺児である中山南加の孫娘が嵯峨浩だったのです。八咫烏の政治組織の重要人物で、かつ非業の死を遂げた人物の血流を引く女性が、愛新覚羅溥傑の妻となっているのです。
八咫烏は本来政治活動を行わず、それで八咫烏の政治組織として江戸期に結成されたのが「天忠党」でした。同様に五龍会も八咫烏の政治組織であり、五龍会とは「天忠党」の後継組織とも見なせます。
中華民国初代大統領の孫文も五龍会、とりわけ黄龍会の中山家とは深い関わりがありましたが、満洲皇族たちとも五龍会が深く絡んでいたのは明白でしょう。
満洲国旗のデザイン 〜国旗に秘められた意味
満洲国の国旗
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設立された満洲国の国旗があります。五色旗です。
満洲国設立に関し『コトバンク』には「実権は関東軍司令官が掌握し,駐満大使,関東庁長官を兼任していた。建国当初は日,漢,満,蒙,鮮の五族協和による王道楽土の建設が理想とされ...(以下略)。」とあります。
この記述を見れば、満洲国国旗は「日,漢,満,蒙,鮮の五族協和」が象徴されているようにも思えます。ただし、その意味も含まれてあるかも知れませんが、ウィキペディアの「満州国の国旗」記事には次のようにもあります。
満州国の国旗(滿洲國ノ國旗、まんしゅうこくのこっき)は、1928年(民国17年)以前の中華民国の国旗(五色旗)を基として1932年(大同元年)に制定された。
(中略)
国旗の意義解釈について、1933年(大同2年)2月24日の国務院佈告第3号「國旗ノ意義解釈ニ関スル件」には、青は東方、紅は南方、白は西方、黒は北方、黄は中央を表し、中央行政をもって四方を統御するという意味であると記されている(五行思想による五色)。満洲国国旗の意義解釈によれば、満洲国国旗の五色とは中央と東西南北の方角を表し、中央が「四方を統御する」意味とされるようです。そして「青は東方、紅は南方、白は西方、黒は北方、黄は中央を表し」、これは五龍会の位置づけ構図と重なることが分かります。
満洲国国旗の基は「1928年(民国17年)以前の中華民国の国旗(五色旗)」とのことです。中華民国の建国(孫文の活動)に堀川辰吉郎、そして中山家の黄龍会を中心とした五龍会が深く絡んでいたのは既に見てきた通りです。そして満洲国設立にも五龍会が深く関与していたのも明白です。
ただし、中華民国国旗と満洲国国旗が重なり、その構図は五龍会と重なる、この事自体はある意味表面的には不自然ではありません。ウィキペディア「八咫烏(結社)」では八咫烏は「正式名称は八咫烏陰陽道」であり、どれも陰陽五行説から導かれたデザインとみなすことができるからです。
…しかし中華民国のそれもそうですが、満洲国の国旗は単に陰陽五行説からデザインしたものではなく、隠された意図がそこにあるようにも見えるのです。
…それは世界統一国家の実験、もしくはそこに至るためのモデル国としての実験の意味です。こう思えるのは、中国大陸にミトラ・マイトレーヤのホワイト・ロッジが関与し、「破壊と構築」の実験をしてきていたと見られるからです。
明治編 第11話で見たように、古くは「1351年の紅巾の乱」、1796~1804年と1813年に白蓮教によって起こされた乱、そして1851年勃発の「太平天国の乱」がそれです。
これらが既存の王朝の破壊と別の王朝の建設に繋がっています。この実験の目的は、世界が一旦破壊されたあと構築される「世界統一国家」を見たものでしょう。
「八紘一宇」の意味 〜満洲建国の目的
満洲民族の独立国家、これが満洲国設立目的、これだと自然ではあるでしょうが、しかし実際は違っていて、満洲国設立は「日,漢,満,蒙,鮮の五族協和による王道楽土の建設が理想」だとされています。
そしてあの言葉、「八紘一宇」が満洲国設立の目的を表しています。「日中友好新聞」2017年3月5日号に次のようにあります。
関東軍が1936年9月、植田謙吉司令官(当時)名で作成した「満洲国の根本理念」に関する秘密文書では、「満洲建国は、八紘一宇(はっこういちう)の理想を顕現すべき」「世界史的発展過程における第一段階」と規定。
(日中友好協会(日本中国友好協会)より)
ウィキペディアの「八紘一宇」記事を読めば、「八紘一宇」は解釈次第でどうにでも受け取れ、受け取りには差異があるのが分かります。
ただし、この言葉が作られた目的から勘案し、ウィキペディアの「八紘一宇」記事の中の記述から取り上げていくと、「田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年(明治36年)に造語した」を根本とした「天皇総帝論」と受け取るのが妥当でしょう。より具体的には「天皇中心の世界一体観」が現実に馴染んでいたでしょう。
そうすると、前の「日中友好新聞」記載の1936年文書は次のようになります。
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天皇を中心に四方八方全ての民族がまとまる、この理想を満洲建国にて体現すべきである。
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天皇を中心にまとまった世界、これを地球世界全体に広げる、満洲建国はその第一段階である。
満洲国のポスター
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こうすると、満洲建国のスローガン「五族協和」「王道楽土」の意味も明瞭になってきます。
要は、天皇が支配する世界が「王道楽土」です。「五族協和」を満洲国旗の五色旗から振り分けると、天皇に直属する民族(黄色)が中心となって、四方の他の民族を統御する、これが「五族協和」の意味となるでしょう。
問題は、
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この世界を統制支配する天皇とは誰を指すのか?
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黄色で表される世界の中心の民族はどの民族なのか?
天皇は誰を指すのかはもうお分かりでしょう。それでは黄色の世界の中心民族とは?
どうも、普通は五色は「青:漢族、黄:満州族、白:モンゴル族、黒:朝鮮族、赤:日本民族」と受け取られるようです。
…しかし「黄:満州族」、これは違うでしょう。では日本民族か? …これも大いに疑問です。
満洲には「河豚計画」という秘密計画があった、これが一つの視点になるかも知れません。今回は「河豚計画」の名前だけ挙げておきます。
鮎川(日産)は1934年、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題する論文を発表した。彼は、5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を立案した。
— Yasu (@yasu_yasuno_sa) July 5, 2018
さて、満洲建国の首都は「新京」と名付けられました。私などは字を見れば「新“京”?」「ああ、京か、新エルサレムだな」と、こうすぐに思ってしまいます。ただし「新京」と言っても「新しい京都(平安京=エルサレム)」とは限らないのでは?」との疑問があっても当然ではあります。
ところが、“京”特産、“京”名物、“京”織物、“京”料理、“京”野菜、“京”間…等々、“京”の一文字がそのまま京都を示す事例は多いのです。新たな国の新たな首都を意味するだけならば「新都」でもいいのでしょうが、これだと都の個性が出ません。わざわざ「新“京”」としたのは、名付けた主体者が「京都」を意識し、その名称に触れた者に「京都」を連想させる意図があったように見受けられます。新たな“人造国家”満洲建国に求められる役割は、新首都「新京」の名称に込められていただろうと思う次第です。
満洲国創設の動きは1904年に勃発した日露戦争、もしくはどう遡っても、1894年に勃発の日清戦争がその始まりと見るのが普通で、それは正しいでしょう。
しかし、あえて言えばこういった数十年単位の構想のみで、満洲の建国が果たされていったわけでもないと思えます。満洲建国は世界統一国家のモデルとしてなされたと受け止めています。中国大陸にて世界統一国家建設に向けた「破壊と構築」のモデル実験は、満洲建国の数百年前からなされていたはずだからです。
ミトラ・マイトレーヤのホワイト・ロッジの中国大陸への介入がそれであり、その具体例としては「1351年の紅巾の乱」まで遡れるでしょう。
こういった数百年単位の動きの底流があって「新エルサレム」の実験を行うべく満洲建国がなされたと思えるのです。