ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第7話 ― 日本中心のNWO計画

 「満洲だ。満洲のことが分からないと日本のことは分かりはしない。」、いつしかこのように思うようになっていました。それは「日本を中心としたNWO計画があった。」、竹下さんのこの言葉に衝撃と驚愕を覚えてしばらくしてからの頃だったでしょうか。
 10年前、日本で福島原発を中心とした311テロが発生した時、すぐに人工地震と核テロを疑いはしました。「犯人はおそらくデイヴィッド・ロックフェラーたちか?」とも考えました。当時の私は、日本にも311テロのその協力者は当然いただろうが、それは命令を受けていただけで、日本は受け身の立場で犠牲を払わされたと考えていたのです。その後、竹下さんから前田ゴロウなる人物の存在と「日本を中心としたNWO計画」のことを知らされ、驚愕したのでした。
 それまでにも〈古代イスラエルの失われた十氏族が日本に到来。秦氏が古代イスラエル末裔。八咫烏=ハタ(秦)ガラス。京都=エルサレム。祇園祭=シオン祭り〉、こういったことは認識はしてはいました。それでも古代から地球全体を覆う陰謀、その一つの核に日本があったなどとのことは露にも思ってもいなかったのです。
 「日本を中心としたNWO計画? 日本中心のハルマゲドン…、ということは、京都が改めて世界の中心のエルサレムになる? うーん、どうも違う気がする、どこがエルサレムに?」、そうこう思いを巡らしているうちにふっと思い浮かんだのが満洲だったのです。
 満洲を新エルサレムとする「日本を中心としたNWO計画」が進行していたのでは?という考えは、私の中では徐々に強く揺るがなくなっていきました。別の言い方をすれば、約80年前の満洲国の設立とは、古代イスラエルの血流を引く裏天皇と八咫烏たちの計画と意図が潜んでいたと見受けられるのです。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第7話 ― 日本中心のNWO計画

満洲国設立の背景 〜海外侵略路線は誰の意による?


1932(昭和7)3月1日に「満洲国」が設立されました。満洲国は第2話で見たように石原莞爾(第2話での石原莞爾に関する記述に誤りがあり訂正しています。)が主導したと見られる柳条湖事件を発端とした満洲事変からの設立となったのです。ウィキペディアの「満州事変」記事に、

1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。

とあるとおりです。

1931年9月の柳条湖事件後の約半年足らずで、関東軍は全満洲地域を占領し、満洲国が設立されたのです。関東軍は独自の判断でこの満洲事変を引き起こしています。この意味で、満洲国とは関東軍によって作られた国家(傀儡国)だとも言えます。

それでは改めて、その関東軍とはどういう性格の軍隊かと言えば、「デジタル大辞泉の解説」で次のようにされています。

満州に駐屯していた日本陸軍部隊。日露戦争後、関東州と南満州鉄道の権益を保護するために設置された関東都督府を前身とし、大正8年(1919)独立。

要は関東軍とは、南満洲鉄道(満鉄)のための軍隊と表現しても間違いがなく、それぐらいに南満洲鉄道(満鉄)と一体のものだったのです。

1945年における満洲国の鉄道路線図(赤-社線緑-北鮮線青-国線
Author:碧城 [CC BY-SA]
Wikimedia Commons [Public Domain]

大正編 第12話で見たように、満洲事変までには(張作霖爆殺を含む)それに先立つ満洲地域における関東軍の独走暴走がありました。そしてそういった関東軍の行動の裏には満鉄があったのです。

満鉄は、半官半民の形態を取った超巨大国策会社であり、明治の終わりから大正、昭和にかけて大日本帝国が海外進出に動き、侵略主義路線を具現化させていったこと、その中心たる企業体だったのでした。

満鉄は「中国東北部」を侵略・支配してきた大日本帝国の満洲地域における基幹部であり、中国支配のための橋頭堡でもありました。

そして明治編 第33話にて見たとおり、この大日本帝国の海外侵略路線の基幹部となる巨大国策会社の満鉄を、そして満鉄を用いての満洲の経営・植民地化の絵図を描いたのが杉山茂丸でした。

杉山茂丸は、落合莞爾氏によれば玄洋社の実質の社主であり、八咫烏直属の五龍会の一角である白龍会の初代総裁です。

つまり大雑把には、満洲国設立とは関東軍・満鉄の動きによるものであり、その背後には裏天皇・八咫烏の存在が非常に色濃くがあったということです。

また、玄洋社について付け加えると、玄洋社は満洲の地に「満洲義軍」を組織し、日露戦争の際には後方支援部隊としてロシア軍に打撃を与えています。日露戦争を終結させたのも玄洋社の明石元二郎の諜報工作が大でもありました。

頭山満(前列中央)と満洲義軍の幹部となった玄洋社メンバー(明治37年)
呉竹会_頭山満 [Public Domain]
玄洋社:戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。(ウィキペディアより)

日本の海外進出・侵略、大東亜共栄圏構想の背後には、裏天皇・八咫烏の計画と意志があり、とりわけ満洲にはそれが大変に強く働いていたと言えるでしょう。

こうした視点に立つと「関東軍の独走暴走」という表現に違った意味も現れても来ます。

日本帝国の統治者は天皇? 〜関東軍は暴走したのか?



上の図は『太平洋戦争とは何だったのか』というサイトの「【概要】大日本帝国憲法下の国家機構」という中で、大日本帝国憲法下当時の日本の国家機構の図を「この憲法の特徴は、天皇と行政府に極めて強い権限が与えられたことです。」として記載されたものです。

この構図を見れば、日本の軍隊司令部は天皇の直接の統帥権の下にあるのが分かります。それともう一つ、天皇 → 内閣 → 行政機構という秩序の中で、行政機構の中に陸軍省と海軍省もあるところから、日本の軍隊は内閣の下にある行政機構の一つでもあるということにもなります。

関東軍は本国の諮問を受けずに、つまり内閣の許可なしに数々の行動を起こしています。満洲事変がそうであるし、張作霖爆殺事件もそうです。

「歩武堂々、我が軍の奉天入城」(1931年)

関東軍も日本陸軍に属しますから、行政機構である陸軍省の下にあるはずです。その意味から関東軍の独自判断の行動は「独走暴走」です。「関東軍の独走暴走から日中戦争、そして太平洋戦争に至った。その結果日本は滅亡危機の大敗北になった。」という一般的な表現は的を射ているのです。

この「ユダヤ問題のポイント」日本編記事においても「関東軍の独走暴走」と表現してきました。

しかし注意事項があります。日本の軍は天皇の直接の統帥権の下にある」という側面、そして上の構図に出ていない決定的重要事項があることです。裏天皇の存在です。

日本編において幕末から明治維新、明治・大正・昭和の流れを見てきました。そうすると明らかです。表に出てきた明治天皇・大正天皇・昭和天皇よりも裏天皇のほうが上位に位置していたことが、です。

裏天皇の下に表の天皇の構図、大正天皇はその典型でしょう。大正天皇は海外侵略と戦争には反対だったようです。つまり裏天皇の意に沿わなかったのです。その結果、大正天皇は正式な即位をした天皇であるにも関わらず、1921年には大正天皇の意に反して裕仁親王が摂政となって、大正天皇はその社会的生命を失っています。(その後の大正天皇のことは「歴史の襞の中から」を参照下さい。)

歴史の裏を覗くと、裏天皇の意に沿う形で日本が動いていったのが分るのです。軍隊も同様でしょう。日本支配の頂点は裏天皇で、関東軍は裏天皇の意に沿って行動していた、これだと「関東軍の独走暴走」とは言えません。関東軍の行動は必然だったとも言い得るのです。

もう一度確認しましょう。1921年に裕仁親王が欧州外遊し「国家間条約」が締結されています。日本、英国、仏国、米国による第2次世界大戦のあらましがここで合意。而もその裏には裏天皇・堀川辰吉郎、ウォルター・ロスチャイルド、エドゥアール・ド・ロチルド、ジョン・ロックフェラーの合意があったことが明かされています。

1921年、イギリスの首相ロイド・ジョージらと会う皇太子裕仁親王
Wikimedia Commons [Public Domain]


昭和天皇の本意は? 〜天皇へ軍から凄まじい圧力?


大日本帝国憲法では、日本の陸・海軍司令部は天皇の直接の統帥権の下にあります。それでは昭和天皇が満洲事変を起こした関東軍にどう対処したのか?

孫崎享氏の『日米開戦の正体』p298に端的にその答えが記されています。

昭和天皇の立場を見ておきたいと思います。天皇は結局、板垣征四郎と関東軍作戦主任参謀石原莞爾が起こした行動に端を発する関東軍の動きを支持、さらに賛美します。これがその後の動向に大きな影響を与えます。

同本ではこのあと、昭和天皇の満洲事変からの関東軍に対する態度の変化の事実を記しています。

昭和天皇は柳条湖事件勃発当初は、内閣の満洲事変「不拡大」の姿勢を支持していました。ところが徐々にその態度は変化し、関東軍の行動を追認、さらなる関東軍の行動はこれを是認、そして「1932年1月には、天皇は関東軍の行動をたたえる勅語を関東軍に与えます」(同本p300)となります。そして続いてこう指摘します。

ここで重要なことは、天皇が何を考えているかだけではありません。天皇が満州事変を完全に支持していることを、勅語の言葉や、陪食や御紋章付銀花瓶の供与といった手段で軍に伝達していることです。

孫崎享氏は昭和天皇の態度の変化から、昭和天皇は関東軍の行動は決して天皇自身の本意に叶ったものではなかったであろうが、この昭和天皇の変化には「天皇に対する凄まじい圧力が軍からあったと見られます」としています。

昭和天皇の靖国神社御親拝(1934年)
Wikimedia Commons [Public Domain]

こうなると、天皇統帥権の下にある軍から天皇が脅されるというアベコベ現象となっていたことになります。昭和天皇は、関東軍・満鉄の背後に裏天皇・堀川辰吉郎の影を見ていたと受け取るのが自然でしょう。

裏天皇・八咫烏の計画と意向に反するものは、暗殺を持ってしてでも排除される、これが紛れもない事実だったのでしょう。伊藤博文が、大正天皇がそうだったでしょう。

そして、満洲国設立後間もなくに暗殺された首相もいます。1932年5月、犬養毅首相が武装した海軍青年将校に暗殺されたのです。

犬養毅が射殺された五・一五事件を伝える大阪朝日新聞
Wikimedia Commons [Public Domain]

この暗殺の詳細は記しませんが明瞭なことがあります。犬養首相は関東軍に、軍部に対し深刻な憂慮を覚え、軍の暴走を止めようとしていました。満洲国の独立に反対だったのです。

しかし、この犬養首相が暗殺された後、日本の内閣は手のひらを返して、軍の行動を無批判に丸ごと支持していくようになったのです。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.