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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第12話 ― 関東軍の独走開始
中国国内での闘争 〜日本の権益拡大派と協調派
袁世凱が1916年に急死し、中国では群雄割拠していた軍閥の激しい権力争いとなります。時あたかも第1次世界大戦の最中でした。
その第1次世界大戦は1918年に終結し、パリ講和会議のベルサイユ条約締結となります。この会議を取り仕切ったのがロスチャイルドだったのは近・現代編の特別編3で見たとおりでした。
日英同盟にあった日本は連合国側として参戦、講和条約ではちゃっかりと中国の山東省の権益を得ていました。1915年に中華民国の袁世凱に突きつけた「21か条の要求」と併せて、これら日本のふるまいに強い反感をもった中国民衆、1919年5月4日、北京から抗日と反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動が広がります。「五四運動」です。この抗日運動を受けて、孫文が中心となって10月に中国国民党を結成します。
抗日と反帝国主義を掲げる五四運動(天安門広場)
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また、1921年7月にはコミンテルン(国際共産主義組織)の主導により、各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で中国共産党が結成されます。
このような中国国内の状況下、奉天軍閥を率いる張作霖が中国全土の掌握を目論んで奉直戦争(奉天派 vs 直隷派)が引き起こされました。この対応をめぐり、日本では海外での権益拡大派と内政不干渉の協調派との間で紛糾します。
孫崎享氏は『日米開戦の正体』にて、日露戦争以降の権益拡大派(積極介入派)には山形有朋、小村寿太郎、後藤新平、松岡洋右、大隈重信の名を、逆に内政不干渉主義(協調派)に伊藤博文の名を挙げています。そのうえで、1920年台前半になると「積極介入派の代表が田中義一、協調派の代表が幣原喜重郎」と指摘しています。
田中義一を支持していたのが関東軍でした。1921年時点での日本の閣議では「日本は張作霖が満洲や蒙古を支配するには協力、しかし中国全体の支配を求めて動く場合は助けない。」としていました。
満洲国首都(新京)の関東軍司令部(総司令部)
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1922年の第1次奉直戦争ではこの方針が取られます。張作霖は敗走しました。1924年の第2次奉直戦争では張作霖は日本に軍事支援を求めました。日本ではこの対応を巡って権益拡大派(積極介入派)と内政不干渉主義(協調派)との間で大いに紛糾したのです。
結果としては、当時の幣原喜重郎外相の踏ん張りなどで内政不干渉が取られ、軍事協力は避けられました。日本の軍事協力は得られなかったものの、第2次奉直戦争自体では張作霖が勝利して、直隷派は壊滅となりました。
一方、この1924年には国民党と共産党が協力する第一次の「国共合作」が成立し、国民革命軍は華北に進撃。北京入りを果たしますが、しかし孫文は翌年1925年に病没します。孫文の後を引き継いで国民党を率いるのが蒋介石でした。
関東軍の出兵 〜関東軍の背後にいた人物
1924年の奉直戦争時点では、弊原外相の「内政不干渉」の主張が通り、関東軍の動きを抑制できていたのですが、1925年には状況が一変します。
1925年11月に「郭松齢事件」が起きます。郭松齢とは張作霖の息子の張学良の副官的な立場にいた人物ですが、郭松齢は張作霖に不満を持ち、張作霖の打倒を目指し軍事活動に出ました。これが「郭松齢事件」です。
『日米開戦の正体』215頁、「郭松齢事件(1925年11月勃発)で、軍は弊原外相の反対を押し切り、統帥権を前面に出して、出兵します。」とあります。郭松齢によって張作霖が打倒されると満洲の権益が危ういと、弊原外相の反対を押し切り関東軍が独走して出兵したのです。日本における軍の独走の開始です。
この関東軍の独走の背後にいた人物として、孫崎享氏は「満鉄社長・安広萬一郎、奉天の吉田茂総領事、天津の有田八郎総領事」を挙げています。
「デジタル大辞泉の解説」で関東軍とは「満州に駐屯していた日本陸軍部隊。日露戦争後、関東州と南満州鉄道の権益を保護するために設置された関東都督府を前身とし、大正8年(1919)独立。」とあるように、満鉄なしには関東軍は成立しておらず、満鉄と関東軍は分かちがたい関係にあります。このため満鉄の社長が関東軍独走の背後にあったのは当然とも言えます。
1945年における満洲国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)
Author:碧城 [CC BY-SA]
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そして吉田茂、言うまでもなく彼自身が後の首相となるのですが、日本の元首相で黒龍会の会長の麻生太郎氏の祖父です。彼が軍部と協力関係にあったと指摘されているのですが、外交官としての吉田茂について彼のウィキペディア記事では次のようにもあります。
中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。
中国の主権を重視し、協調路線外交を続けようとした弊原外相は「軟弱外交」と非難され、それだけでなく暗殺の対象にもされるのでした。
吉田茂と幣原喜重郎は対立する全く別の路線にあったのですが、外務省においても弊原外相を代表とする国際協調派、これに対する異なる流れ(吉田茂がその中に入るのですが)、満洲利権を確保しようとする「小村寿太郎―山座円次郎―広田弘毅の系統」があったと孫崎享氏は指摘しています。
軍部と一体になった海外権益拡大派が日本の主流となっていったのです。
日本陸軍の背後には八咫烏が 〜大戦乱の昭和期へ
1925年の郭松齢事件を端緒として軍の独走が開始されたのですが、その背景にあった人物が「満鉄社長・安広萬一郎、奉天の吉田茂総領事、天津の有田八郎総領事」。そしてそこには外務省の「小村寿太郎―山座円次郎―広田弘毅の系統」の伏線があったとのことです。
そもそも満洲経営の根幹として満鉄をデザインしたのが、玄洋社社主であり白龍会初代会長の杉山茂丸でした。吉田茂は後の黒龍会4代目会長となる麻生太郎氏の祖父です。
また明治編 第34話でみたように、小村寿太郎の小村外交のキーパーソンが山座円次郎でした。その山座円次郎は玄洋社の社員でした。
そして、広田弘毅は後の首相ですが、彼もまた玄洋社所属と見なしてよいほどの玄洋社関係者でした。有田八郎総領事については不明ですが、広田弘毅内閣では外相を務めています。
そして関東軍が独走を開始した当時、元帥として日本陸軍を統括していたのは上原勇作でした。彼のウィキペディア記事には次のようにあります。
赤龍会初代総裁 上原勇作
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山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。
(中略)
1921年(大正10年)に子爵、元帥。薩摩閥の上原勇作は赤龍会初代会長です。
こういった事実を眺めて見るならば、日本において軍隊が独走暴走を始め、制御が効かなくなり、満洲、中国、アジアへと軍事作戦が膨張拡大していく背後には八咫烏の存在があったと見るのが自然です。
軍の独走が開始された1925年、大正期は間もなく幕を閉じ、大戦乱の昭和期が始まろうとしていました。一方、郭松齢事件で打倒されそうになり関東軍が出兵した相手である張作霖、彼は1926年12月に北京で大元帥に就任し、自らが中華民国の主権者であることを宣言することになります。
その後の張作霖ですが、孫崎享氏は次のように記しています。
張作霖と関東軍の関係を見ますと「植民地」、あるいは「準植民地」を経営しようとする「宗主国」と植民地によくあるパターンが見られます。「宗主国側」は自分に都合のいい人物を見つけ、これを育成します。しかし、「宗主国」の支援を受けた人物は次第次第に勢力を拡大していきます。そうなると宗主国の指示を聞かなくなります。最後は「宗主国」側はこの人物を排斥します。それが張作霖と日本軍部の関係です。
私が幼少時過ごした家、その前の家の主人は私の父の先輩であり、確か学徒動員からのシベリア抑留者でした。帰国後その方は私が通う小学校の教員となっていたのでしたが、クラス担当になったこともなく、あまり話を聞く機会はなかったのです。それでも少ない機会の話の内に抑留中の飢餓と極寒の苦しみは感じ取れました。
シベリア抑留者の辛酸もありますが、終戦時、関東軍に見捨てられた満洲移民の悲惨さはとてつもないものでした。少し調べればレイプと惨殺と自殺の山だったのです。誰がどのようにしてこのような大惨事を引き起こしたのか? 日本の大きな問題は、日中戦争から太平洋戦争の総括がなされず、その責任が問われないままで、今日までその体質が維持されてあることでしょう。「過ちは繰り返さない。」、このような言葉は責任の所在を明らかにしない限りは全く信用できないものです。
日本と米国の国力差は、当時約10倍だったことが孫崎享氏の『日米開戦の正体』の中で指摘されています。この無謀な戦争に舵を切ったのは日本陸軍だったようで、「日本の政府は実質は軍部に乗っ取られ、軍部の独走暴走が日本を地獄に突き落としていった。」こういう話はよく耳にします。
しかしそうだとしても、なぜ?どのようにして?軍部が日本を乗っ取り、独走暴走していったのか? 軍の暴走の背後には何があったのか? これらのことが明らかにならないと、悲惨な戦争の総括と責任の所在が明らかになりません。私達が透明な社会を、まともで豊かな日本を築く方向に向かって進んでいくには、過去の負の遺産の総括が必要なのです。
昭和天皇の戦争責任が話題になったこともあります。確かに昭和天皇に戦争責任がなかったわけではないでしょう。しかし事実を洗い直していくと、日本の軍部が暴走し、軍事行動を中国大陸からアジアへと広げていく背後にあったのはやはり八咫烏、堀川辰吉郎を裏天皇に奉じる五龍会の動きが浮彫りになってくるのです。