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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第10話 ― 日中・日米戦争への道程
大本教事件 〜北朝勢力の攻撃
満洲国設立の頃は、暴力支配と大混乱の時代であり、この背景には禁裡内における北朝勢力と南朝勢力の争いがあったであろうことを前回に見ました。南朝勢力は「いわゆる右翼」という強力な暴力装置を有しており、それで北朝勢力がたてたであろう昭和天皇が重大な危惧に縛られていた模様を確認もしました。
しかし一方では、基本的には北朝勢力からの南朝勢力への攻撃と見るのが自然な大事件も当時に発生してもいます。大本教事件です。
南朝勢力となる裏天皇(八咫烏)直属の五龍会、その五龍会の中の緑龍会の主たる大組織である宗教団体が大本教です。
大本教の創始者は出口ナオ、そして出口ナオの養子に入った出口王仁三郎によって教団は大拡大しています。
「上田家系図」を見れば、出口ナオは緑龍会初代総裁・上田音吉(吉松)の愛人であり、出口王仁三郎はもとの名は上田鬼三郎で緑龍会初代総裁・上田音吉(吉松)の孫です。また出口王仁三郎は有栖川熾仁親王の息子でもあるようです。
大本教は大正編 第4話で見たように、堀川辰吉郎が総裁となった世界紅卍字会と実質は同一団体でもあります。そして大本教には、陸・海軍の大物たちが多く入信してもいましたし、何よりも玄洋社(白龍会)の頭山満や内田良平たちとは密接な関係を結んでいました。大本教関係者たちが玄洋社(白龍会)関係者と協力して大陸に進出もしていました。
この大本教が、日本政府・内務省から1921年の第1次大本教事件の弾圧に引き続き、1935年には不敬罪・治安維持法違反にて徹底的な弾圧攻撃を受け、本部教団施設などは完全な破壊が実行されてもいます。第2次大本教事件です。
この第2次大本教事件では、出口王仁三郎自身も6年余の獄中生活を送ることになりました。南朝勢力である裏天皇直属の五龍会の主要組織とも言えるであろう大本教が、徹底的な弾圧からの破壊攻撃を受けた。これは基本的には北朝勢力による南朝勢力への攻撃と見るのが妥当と思えます。
他方、当時の1932年には三井財団総帥の團琢磨が殺害される事件が発生しています。同年には犬養首相が殺害された5.15事件と、民政党幹事長の井上準之助射殺(血盟団事件)も発生していました。
「ミレニアム」からのこの情報を見れば、五龍会の下には秦氏系の企業群があり、その企業群のトップは三井氏であることは明瞭です。その三井財団総帥の團琢磨が殺害されたのです。
また、同年の5.15事件で殺害された犬養首相は陸軍(関東軍)の暴走を危惧しこれを止めようとはしていましたが、裏天皇グループと近い関係にあった人物でもあったのです。
南朝勢力のはずの三井財団総帥の團琢磨を殺害したのは、(井上準之助を射殺した)1931年に創設された血盟団のメンバーでした。
ただし、南朝勢力の人物が(5.15事件を含め)殺害されたといっても、これは北朝勢力からの攻撃であろう大本教事件とは異なります。これらの殺害テロは当時の大混乱が生み出した事件と見受けられます。
現場の混乱 〜秘密主義の帰趨
満洲国設立の頃は幕末期にも似たような時代だったとの感もします。
幕末期は殺害テロが京都を中心に横行していました。また黄金が日本から海外に大量に流出させられたために、貨幣価値が大暴落して急激な大インフレが発生し、大衆の生活が成り立たなくなっていました。この大不況からの大衆の怒りが、明治維新という革命クーデター成立へのトドメになったのでした。
一方、1930年(昭和5年)の日本は昭和恐慌に突入し、日本経済は危機的な状況に陥っていたのです。1929年(昭和4年)ニューヨークから発生させられた世界大恐慌の大波が日本を襲ってもいたのです。日本は失業者であふれ、特に農村は壊滅的な打撃を受け、若い娘の身売りでやっとやっと糊口を凌ぐような状態でした。そして陸軍にしろ海軍にしても、こういった農村部出身の軍人や青年将校などは多くいたのです。
日本全体がそうでしたが、軍部の中にも不平と不満、そしてやりきれない怒りのエネルギーが、マグマが沸騰するがごとくに溜まっていたでしょう。この怒りのエネルギーがはけ口を求めて動き、これが当時の数多くの暴力テロになっていただろうと見受けられます。国際銀行家が意図的に作り出した世界恐慌が、日本での暴力支配を生み出してもいたと言えるでしょう。そして当時に広がっていたのは目に見える大混乱・混迷でもありました。
地上世界はピラミッド型の社会で構成されています。ピラミッドの頂上部では“当たり前”の情報も、下層になればなるほどその現場では、トップの有す情報は極秘どころかその存在の影さえも見えなくなります。当時の日本社会は溜まった「怒りのエネルギー」と相まった暴力テロの横行、そして大混乱の混迷が具体的な形をとった時代でもありました。大混乱の混迷、これは当然でもありました。
例えば軍部のトップ、元帥クラスであれば裏天皇の存在は常識です。しかしその下の階層、例えば大佐クラスであってもその情報は認識されていません。トップが秘密とする情報に関する司令を出しても下のクラスには理解できずきちんとは伝わらないのは当然です。「伝言ゲーム」の様相で必然的に混乱が生じます。
例えば南朝勢力が自分たちのために利用すべくある組織を創出してそれに司令を出しても、その組織が現場ではあらぬ行動をとって、逆に南朝勢力にマズイ結果となることはあるものです。三井財団の團琢磨を殺害の血盟団のテロ行為などはそういった類のものと思われます。
ただし、全体としては横行する暴力テロもそうですが、生じた大混乱の混迷も利する存在はあり、日本社会は「大戦争」へと導かれていました。
まさにこれ『経済で読み解く日本史』のテーマ、というか歴史法則です。政治家も国民もいい加減学んでほしい。
— 上念 司 (@smith796000) August 15, 2019
戦争礼讃の過激思想は「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる @gendai_biz https://t.co/klNux6KPTR #現代ビジネス
戦争に導くもの 〜陰謀の中心にある宮家
高橋五郎著『天皇の金塊とヒロシマ原爆』p294に「天皇が開戦回避を求めて、密かにバチカンに講和の仲介を懇願している様子も…」との記述が見えます。昭和天皇は日米開戦を避けようとしていた、とこの記述は教えます。そして事実はその通りだっただろうと思えます。
表に出ている天皇、政体天皇は英国女王の配下になるのですから、本気で英米と戦争などできようもありません。そして政体天皇の立場上とは別にしても、昭和天皇は個人としては大戦争を避けたいとの思いを有していたように見えます。
しかし、こういった昭和天皇の思いなどは置き去りにして、当時の横行する暴力テロや大混乱の混迷をも総合的に利して、日本を「大戦争」へと追いやっていった存在があります。
その一つは明らかにマスコミです。敗戦後のマスコミは「軍部の脅しで戦争に言いなりに加担してしまった。このことを大いに反省し」などとのたまわっていましたが、これは不正確な言い方です。
子供の頃。なぜ、戦争を止めなかったのだろう?と思っていたが、ここしばらくの現状を見て理解できた。国は密かに戦争準備を進め、法整備も終え、反対するものは罰せられる環境を作り上げる。マスコミは真実を伝えず煽るばかり。戦争が始まって初めて、国民はそれに気付く。 pic.twitter.com/dJvMxV8ZPJ
— 太田隆文(映画監督) (@ota_director) April 15, 2017
当時、内閣が国際協調で和平を模索する姿勢を見せれば、これを「弱腰」「国益を害す」などと罵倒し、満洲から中国支配を煽りに煽ったのはマスコミなのです。ようは軍による暴走を支持し、軍の日本支配への道をつけたのが当時のマスコミです。そのくせ自分をまるで軍による犠牲者だったと取れるような言い方はいささか卑怯でしょう。
また、「日中・日米戦争に至らせたのが陸軍、関東軍の暴走だった」との説はよく目にすることです。そしてこれは正解ではあります。しかし、日中・日米戦争に至らせたのは陸軍だけでなく海軍もそうです。日米開戦のハワイ真珠湾攻撃を実行したのは日本海軍なのです。
この海軍を独裁で牛耳っていたとされるのが筆頭宮家の当主だった伏見宮博恭王です。長く海軍のトップとして君臨していた伏見宮博恭王は、昭和天皇に対しても明らかに日米開戦を求めていたのです。
伏見宮博恭王、その妻は明治維新の最功労者である徳川慶喜の9女、明治維新の中心人物の久邇宮朝彦親王は叔父、そして現在の第4代裏天皇の伏見宮博明王は孫になります。伏見宮博恭王は南朝勢力の主要な一角だったでしょう。
また、日中・日米戦争への道を主に積極的につけていったのは南朝勢力側だということです。昭和天皇は北朝勢力がたてた天皇のようです。ただ昭和天皇は表に出る政体天皇であって、本気で英米との戦争など進めようもないのです。なぜか?政体天皇は英国女王に従う身なのです。
これは事実としてほとんど認識されていませんが、表情報でもウィキペディアの「陸軍元帥(イギリス)」記事に次のようにあるとおりです。
この元帥は外交上のお飾りとの説もありますが、違う情報では、英国官報ガゼット紙より、昭和天皇が元帥として就任した英国陸軍は正規兵としての名称のようです。英国元帥でもあった昭和天皇は、大戦をその立場上、そして個人的にも避けたかったようです。
しかし、昭和天皇が恐れていたことがあります。日本での軍事クーデターからの軍事的な内乱・内戦です。当時は世界大恐慌の影響で、日本の軍部の中に「怒りエネルギー」が渦巻く危険な状態にあり、「革命前夜」の様相を示していたのです。さらにはそれ以前に、表の天皇と裏天皇という見えない二重構造は、日本社会全体の統制運営の根本問題であり、軍部にも構造的な問題を与えていたと言え、軍部は大混乱の混迷の危険な状態にあったのです。
暴力装置である軍隊にはもとより、厳しい規律による統制が求められます。しかし実際には、天皇が陸軍・海軍の統帥権を憲法上は有しているのですが、それは利用されるだけの名ばかりのもので、正常に機能などしていませんでした。最上部のはずの天皇の統帥権が有名無実であるならば、軍の統制は大混乱となるのは必然でもあります。一糸乱れぬ統制などとは程遠く、軍隊の暴走や暴発、暴力テロ、軍事クーデター騒ぎが巻き起こるのはある意味で当然でもあったのです。
この大混乱の背景が、表の天皇の実際には上位にある裏天皇の存在(南朝勢力)です。ただし、騒乱の背景に南朝勢力があったといっても現場は大混乱ですから、逆に暴力の刃が裏天皇側に向く場合もあります。しかし全体としては、こういった暴力の恐怖と大混乱の混迷も、全てが引っ組められて大戦争への道順として利用もされます。