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ぴょんぴょんの「郡司ファイル」 ~『薬害エイズ事件』に残されたミステリー
かの有名な「郡司ファイル」
郡司氏は医師で、アメリカでエイズが流行し始めたころに厚生省に入った。
厚生省薬務局・生物製剤課長だった彼は、いち早くエイズ研究班を立ち上げたが、郡司氏の名を一躍有名にしたのは、かの有名な「郡司ファイル」だった。
厚生省薬務局・生物製剤課長だった彼は、いち早くエイズ研究班を立ち上げたが、郡司氏の名を一躍有名にしたのは、かの有名な「郡司ファイル」だった。
元東大教授の郡司篤晃氏が死去 厚生省でエイズ研究班設置 http://t.co/E9uWoJLiP9
— 4nwanelson (@4nwanelson) September 29, 2015
研究班が最終的に製剤の継続使用を認めたため対策が遅れ、血友病患者のウイルス感染が拡大した。…お亡くなりになりましたか。 pic.twitter.com/slESh1JZbt
長期化した薬害エイズ訴訟もそろそろ和解へ、という1995年10月、東京・大阪地裁は、原告一人あたり一時金4,500万円を支給する第一次和解案を提示した。
が、厚生省が加害責任を否定したため、和解に至らなかった。
で、1996年2月、原告団は厚生省前で座り込みを決行。
「原告団 体調悪い中、厚生省前での座り込み。雪交じりの霙降る連日、被害患者が病状を押して全国から結集、支援者ら3日間で3万人が厚生省をにらみつける」。
(薬害被害者から学んだこと 13p)
が、厚生省が加害責任を否定したため、和解に至らなかった。
で、1996年2月、原告団は厚生省前で座り込みを決行。
「原告団 体調悪い中、厚生省前での座り込み。雪交じりの霙降る連日、被害患者が病状を押して全国から結集、支援者ら3日間で3万人が厚生省をにらみつける」。
(薬害被害者から学んだこと 13p)
そこに登場したのが、1ヶ月前に厚生大臣になったばっかの菅直人。
菅は、外で座り込みしていた原告団を大臣室に招き入れ、
「こんなものが倉庫に隠されていました。83年当時、厚生省内に非加熱製剤が危険だという認識がありました」と言って、「郡司ファイル」を見せて謝罪した。
菅は、外で座り込みしていた原告団を大臣室に招き入れ、
「こんなものが倉庫に隠されていました。83年当時、厚生省内に非加熱製剤が危険だという認識がありました」と言って、「郡司ファイル」を見せて謝罪した。
菅さんは自民党が橋下政権時代に厚生大臣してた人ですもんね
— えひめの風雲🐾 (@theCYClings) February 24, 2020
国と製薬会社がひた隠しにして非加熱製剤を使わせ続けてHIVウイルスが広がった事実も調べて、国として初めて非を認め謝ったんじゃ無かったかな?
福島事故の時この人叩いてた人達も居たけど僕も悪い人とは思わないhttps://t.co/nBgHjmuxWx pic.twitter.com/Osz0DdgtzQ
その時のことが、Wikiには、こう書かれている。
「1996年2月9日、厚生大臣菅直人は自身が独自に名付けた通称"郡司ファイル"が1月26日に自分が探して発見されたことを発表し、2月16日に原告団に謝罪。」
「1996年2月9日、厚生大臣菅直人は自身が独自に名付けた通称"郡司ファイル"が1月26日に自分が探して発見されたことを発表し、2月16日に原告団に謝罪。」
大臣就任1ヶ月でよく見つけました、前の厚生大臣は何やってたんだってな。
「郡司ファイル」の作者、郡司氏本人はこう書いている。
「そのファイルは、自分で作ったものだからどんなものなのかすぐわかった。(中略)...新人の技官補佐が着任早々、いわば自分の勉強のためにいろいろと書いては私に見せるので、私が手直しをして、そのまま捨てるわけにも行かず、ファイルしていたものである。課としては重要なファイルではないが、課長が残したものなので捨てるわけにも行かず、どこかに置かれていたものだろう。」(「安全という幻想」148p)
「郡司ファイル」の作者、郡司氏本人はこう書いている。
「そのファイルは、自分で作ったものだからどんなものなのかすぐわかった。(中略)...新人の技官補佐が着任早々、いわば自分の勉強のためにいろいろと書いては私に見せるので、私が手直しをして、そのまま捨てるわけにも行かず、ファイルしていたものである。課としては重要なファイルではないが、課長が残したものなので捨てるわけにも行かず、どこかに置かれていたものだろう。」(「安全という幻想」148p)
たしかに、非加熱か加熱かで揺れる当時の厚生省の様子も、ちょこっとメモに残されてはいたが。
とは言え、菅直人が原告団に謝罪してから、ことは急展開。
3月7日、東京・大阪両地裁は、エイズ発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し、製薬会社も政府も和解受け入れを発表。原告側も3月20日に受け入れを決め、3月29日に両地裁で和解が成立した。
(Wiki)
とは言え、菅直人が原告団に謝罪してから、ことは急展開。
3月7日、東京・大阪両地裁は、エイズ発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し、製薬会社も政府も和解受け入れを発表。原告側も3月20日に受け入れを決め、3月29日に両地裁で和解が成立した。
(Wiki)
徹底的なメディア攻撃にさらされた安部医師と郡司氏
血液製剤を製造していたアメリカの「トラベノール社」が、供血者にエイズ患者が見つかって世界中から自社製品を回収した。その報告が厚生省に入ったのは、ちょうど、郡司氏がエイズ研究班をつくる直前のことだった。
だが、それから約10年の時を経て、郡司氏はNHKの取材を受ける。
当時、「トラベノール社」の報告はちゃんとなされていたのか。
郡司氏が「記憶がない」と答えたのを、NHKは「研究班会議で報告しなかった」と取って、あたかもそのせいで日本でエイズが広がったように報道した。
だが、それから約10年の時を経て、郡司氏はNHKの取材を受ける。
当時、「トラベノール社」の報告はちゃんとなされていたのか。
郡司氏が「記憶がない」と答えたのを、NHKは「研究班会議で報告しなかった」と取って、あたかもそのせいで日本でエイズが広がったように報道した。
しかもこの番組は、薬害エイズ事件の理解に役立つとして、多大な評価を受けた。
裁判所では証拠として上映され、日本ジャーナリスト会議本賞も受賞し、本にもなった。
が、郡司氏はこの番組のせいで、攻撃の的となった。
郡司氏は思い出す。
取材に来たNHKのプロデューサーI氏に、開口一番、
「1982年の暮れから1983年6月の研究班会議までの間、あんたはいったい何をやっていたんだ?」と言われたことを。(「安全という幻想」133p)
裁判所では証拠として上映され、日本ジャーナリスト会議本賞も受賞し、本にもなった。
が、郡司氏はこの番組のせいで、攻撃の的となった。
郡司氏は思い出す。
取材に来たNHKのプロデューサーI氏に、開口一番、
「1982年の暮れから1983年6月の研究班会議までの間、あんたはいったい何をやっていたんだ?」と言われたことを。(「安全という幻想」133p)
だが、事態は一変する。
放映後、東京地検が厚生省を家宅捜索する機会があり、その際、第1回研究班会議の録音テープが出てきた。なんと郡司氏は、会議の冒頭にちゃんと「トラベノール社」の回収について報告していたんだよ!
放映後、東京地検が厚生省を家宅捜索する機会があり、その際、第1回研究班会議の録音テープが出てきた。なんと郡司氏は、会議の冒頭にちゃんと「トラベノール社」の回収について報告していたんだよ!
どころか、川田龍平氏との対談をエサに郡司氏を呼び出し、根掘り葉掘りの取材で、郡司氏を貶める番組まで作られた。
「私はまたNHKにだまされたという結論を下すしかなかった。」
(「安全という幻想」164p)
「なぜNHKが巨大な権力を使って、一個人を攻撃しなくてはならないのだろう。」(「安全という幻想」167p)
「私はまたNHKにだまされたという結論を下すしかなかった。」
(「安全という幻想」164p)
「なぜNHKが巨大な権力を使って、一個人を攻撃しなくてはならないのだろう。」(「安全という幻想」167p)
郡司氏が本に書かなければ、この事実は、永遠に葬り去られたことだろう。
だが、NHKだけじゃない、櫻井よしこもひどかった。
郡司氏「櫻井氏はあちこちの雑誌に、安部医師と私に対して、ヘイトスピーチのような文章を書いた。」(「安全という幻想」136p)
だが、NHKだけじゃない、櫻井よしこもひどかった。
郡司氏「櫻井氏はあちこちの雑誌に、安部医師と私に対して、ヘイトスピーチのような文章を書いた。」(「安全という幻想」136p)
薬害エイズ裁判の頃、東大教授になっていた郡司氏、
彼が原告側で証言したことが、「偽証罪」で告発されたことがあった。
「教授室の外に多くの人がやってきた。ノックがあったので、何事かと思ってドアを開けたら、櫻井よしこ氏を先頭にして、マイクとカメラを抱えた人たちがドッと押し入ってきた。」
「『これはどういうことか? 突然のカメラはやめてください』と言うと、櫻井氏が顎で合図し、カメラマンがカメラを肩から下ろした。」(「安全という幻想」137p)
ところが、櫻井よしこの番組を見たら、郡司氏は盗み撮りされていたと知る。
彼が原告側で証言したことが、「偽証罪」で告発されたことがあった。
「教授室の外に多くの人がやってきた。ノックがあったので、何事かと思ってドアを開けたら、櫻井よしこ氏を先頭にして、マイクとカメラを抱えた人たちがドッと押し入ってきた。」
「『これはどういうことか? 突然のカメラはやめてください』と言うと、櫻井氏が顎で合図し、カメラマンがカメラを肩から下ろした。」(「安全という幻想」137p)
ところが、櫻井よしこの番組を見たら、郡司氏は盗み撮りされていたと知る。
また、薬害エイズ患者の代表、川田龍平氏との関係もビミョーだった。
川田氏と彼を支える会は、郡司氏の最終講義に押しかけて、教室の前方の席を陣取った。
そして、郡司氏が講義を始めようとすると、「まず、エイズの質問に答えろ」と妨害した。
郡司氏は「私の知ってることは何でも話す」「二人の対話を本にしよう」と川田氏に提案したが、川田氏とは結局、まともな関係を築けなかった。
川田氏と彼を支える会は、郡司氏の最終講義に押しかけて、教室の前方の席を陣取った。
そして、郡司氏が講義を始めようとすると、「まず、エイズの質問に答えろ」と妨害した。
郡司氏は「私の知ってることは何でも話す」「二人の対話を本にしよう」と川田氏に提案したが、川田氏とは結局、まともな関係を築けなかった。
外にもさまざまな妨害を受けた。
東大構内で突然、男に顔を殴られたり、東大新聞への投書、大学の至るところに「血友病患者1800人」「殺人政策の責任を取れ」という写真入り立て看板を立てられたり、大阪の団体から「天誅が下るだろう」と書かれた脅迫状が届いたり、電話もたくさんかかってきたり、あやしい脅しもあったので、ポケットにはスパナを忍ばせ、地下鉄ではホームから離れて立つようにしていたと。
東大構内で突然、男に顔を殴られたり、東大新聞への投書、大学の至るところに「血友病患者1800人」「殺人政策の責任を取れ」という写真入り立て看板を立てられたり、大阪の団体から「天誅が下るだろう」と書かれた脅迫状が届いたり、電話もたくさんかかってきたり、あやしい脅しもあったので、ポケットにはスパナを忍ばせ、地下鉄ではホームから離れて立つようにしていたと。
Author:Kakidai[CC BY-SA]
『圧力をかけた人物』の正体
さあな。
いろいろ、絡んでいそうだな。
「七転び八転び!? 15分で1冊」という、薬害エイズ患者のブログがあるが、郡司氏の「安全という幻想」については、郡司氏を評価する内容を書いている。
「完璧ではないが郡司は頑張ったと思う。本を読んでやはりその考えは変わらない」。(七転び八転び!? 15分で1冊)
だが、こんなことも書いてある。
「第1回会議では郡司に限らず安部、塩川も郡司と同じ『救済すべき』という方向に向いていた。しかし第2回会議から安部、塩川らがトーンダウンするどころかベクトルが逆に向く。それは会議後の郡司も同じ。『上からの何らかの圧力』があったのではないか?ということだ。」(七転び八転び!? 15分で1冊)
いろいろ、絡んでいそうだな。
「七転び八転び!? 15分で1冊」という、薬害エイズ患者のブログがあるが、郡司氏の「安全という幻想」については、郡司氏を評価する内容を書いている。
「完璧ではないが郡司は頑張ったと思う。本を読んでやはりその考えは変わらない」。(七転び八転び!? 15分で1冊)
だが、こんなことも書いてある。
「第1回会議では郡司に限らず安部、塩川も郡司と同じ『救済すべき』という方向に向いていた。しかし第2回会議から安部、塩川らがトーンダウンするどころかベクトルが逆に向く。それは会議後の郡司も同じ。『上からの何らかの圧力』があったのではないか?ということだ。」(七転び八転び!? 15分で1冊)
それを探していると、こういう下りが、
「そしてなんといっても(郡司氏は)、『中曽根首相(当時)が郡司に圧力をかけた』ことは書いていない。期待はしていなかったがやはりという感じだし墓場まで持って行く気だろう。」(七転び八転び!? 15分で1冊)
「そしてなんといっても(郡司氏は)、『中曽根首相(当時)が郡司に圧力をかけた』ことは書いていない。期待はしていなかったがやはりという感じだし墓場まで持って行く気だろう。」(七転び八転び!? 15分で1冊)
二人は、海軍を通しての知り合いだった。
戦時中、安部医師は海軍の巡洋艦「愛宕」の軍医、中曽根は海軍将校だった。
「海軍の同朋会『青年懇話会』を通して、中曽根康弘と親交があり、中曽根によって『エイズ研究班班長』に選ばれた男だ。」(阿修羅)
戦時中、安部医師は海軍の巡洋艦「愛宕」の軍医、中曽根は海軍将校だった。
「海軍の同朋会『青年懇話会』を通して、中曽根康弘と親交があり、中曽根によって『エイズ研究班班長』に選ばれた男だ。」(阿修羅)
結果的にはそうだが、こういう風には考えられねえか?
あの時、和解に立ちふさがる唯一の壁は、厚生省だった。
厚生省に非を認めさせれば、和解が成立する。
「郡司ファイル」の存在は、おそらく歴代の厚生大臣の誰かが知っていて、いつか切り札にしようと隠していたのだろう。
それをここぞとばかり、世に出した。
「郡司ファイル」という名までつけて。
あの時、和解に立ちふさがる唯一の壁は、厚生省だった。
厚生省に非を認めさせれば、和解が成立する。
「郡司ファイル」の存在は、おそらく歴代の厚生大臣の誰かが知っていて、いつか切り札にしようと隠していたのだろう。
それをここぞとばかり、世に出した。
「郡司ファイル」という名までつけて。
郡司氏には悪いが、悪者になってもらおう。
そのためにNHKに手を回し、彼のイメージを悪くする番組を作らせ、番組に日本ジャーナリスト会議本賞を取らせ、本も出版し、新聞、雑誌に叩かせて、櫻井よしこも走らせた。
これで、原告団も国民も、厚生省を悪者と信じるだろう。
そのためにNHKに手を回し、彼のイメージを悪くする番組を作らせ、番組に日本ジャーナリスト会議本賞を取らせ、本も出版し、新聞、雑誌に叩かせて、櫻井よしこも走らせた。
これで、原告団も国民も、厚生省を悪者と信じるだろう。
安部英(たけし)医師以外にもう一人、事件の矢面に立たされた人物がいます。当時の厚生省薬務局・生物製剤課長、郡司篤晃(ぐんじあつあき)氏。
事件当時、非加熱製剤を管理する立場にあったため、バッシングされました。
そして、郡司氏を有名にした「郡司ファイル」とは?