注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
山崎雅弘さんの「1937年の日本人 」読了。日中戦争が始まる直前まで、いや始まってからもしばらくは、想像以上に民主主義や言論の自由が存在していたんだなと驚くとともに、それらがあまりにも早く、かつあっけなく失われていくことに恐怖を感じた。軍の民主的コントロールがいかに重要かも痛感。 pic.twitter.com/bzQ5rUeuW4
— 布施祐仁 (@yujinfuse) May 2, 2018
演説する斎藤隆夫(1940年)
1940(昭和15)年2月2日、斎藤隆夫は、所属していた民政党の異端代議士として、米内光政首相(海軍大将)の施政演説に対する代表質問に立った。そこでおこなったのが、日中戦争がはじまって2年半が過ぎたのに、「陸軍はひたすら聖戦と称して、国民が疲弊している状態にあることを知ろうともせず、戦争継続のみに政党政治を解体せしめるかのような動きを示している」と批判する、1時間半にわたる「反軍演説」だった。
「反軍演説」では、「この間においてわが国民が払った犠牲、すなわち遠くは海を越えて支那事変のためにどれだけ日本の国費を費やしたか (中略)
それ等の軍費は、ことごとく日本国民の負担となる、日本国民の将来を苦しめるに相違ない。かの地に転戦する100万、200万の将兵諸士をはじめとして、近くはこれを後援する国民が払った生命、自由、財産その他一切の犠牲は、いかなる人の口舌をもってしても、その万分の一をも尽くすことはできない」
「しかるに、この不公平な事実を前に置きながら、国民に向かって精神運動をやる、国民に向かって緊張せよ忍耐せよと迫る、国民は緊張するに相違ない、忍耐するに相違ない、しかしながら国民に向かって犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない」
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斎藤隆夫(当時70歳)は、国会の場で、満州事変後の軍部主導の内閣の暴走、そしてそれによる立憲政治の破滅を強く警告しました。長周新聞が当時の斎藤の「反軍演説(粛軍演説)」を紹介しています。
とりわけ今の日本に対する鋭いメッセージになっていると思われる部分です。
「もし軍人が政治活動に加わることを許すということになりまするというと、政争の末、ついには武力に訴えて自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢いでありまして、事ここに至れば、立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありますからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。」
これは226事件をも念頭に置いた言葉ですが、現在、自衛隊幹部が国会議員に暴言を吐き、恬として恥じないことは、その水面下で何が起こっているのかを如実に示します。この対応を誤ることの危険を、当時、国会の場で堂々と訴えているのです。
さらに、「いやしくも立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家のために公明正大なるところの政治上の争いをなすべきである。軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり、堕落であり、また実に卑怯千万の振る舞いであるのである。」
胸のすくような発言ではありませんか。
今この言葉を晴れ晴れと聞くことのできる政治家がどれほどいることか。
しかし今も昔もやることは同じ、拍手と同時に凄まじいヤジで演説は聞こえなくなります。そして、国会の速記録からは演説の後半部分をそっくり削除されます。当時から真実を書き換えていたのか。さらに斎藤は軍部の怒りを買い、じきに議会から懲罰動議を受け、所属する民政党からは離党と謹慎、除名処分を迫られます。不屈の斎藤は、自ら離党し、議会除名処分に対しても、戦中の選挙で激しい軍部や右翼の選挙妨害にもかかわらず、トップ当選で応えました。斎藤が除名処分になった背景として、長周新聞では、野党が軍部になびいたこと、その頃には共産党はすでに壊滅状態であったことが書かれています。
民主主義が崩壊する時、いくつもの兆候が現れ、気付いた時には取り返しがつかなくなっている。当時の斎藤の演説は、弾圧の中でかき消され、議会は大政翼賛会へと向かいますが、その教訓はむしろ今に向けられたメッセージだったのかもしれないと思うのです。