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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第23話 ― 日本とドイツの架け橋

 第2次世界大戦で日本がナチス・ドイツと同盟を組んでいたことは、誰しも知っていることです。ただし、同盟を組む以上はその架け橋となる存在があったのは当然です。
 1920年に結党したナチスのシンボルはハーケンクロイツ、赤地に卍の組み合わせです。同時期に赤と卍の組み合わせをシンボルとする団体が設立されています。1922年設立の世界紅卍字会です。会長に就任しているのは裏天皇堀川辰吉郎です。
 大正編 第4話で見たように結論としては、大本教の印の○十字から、世界紅卍字会の紅卍もナチスのハーケンクロイツも作られています。
 ○十字、赤(紅)十字、ハーケンクロイツ、それぞれシンボルが意味するものは同じです。要は薔薇十字であり、性錬金術です。クンダリニー・エネルギー、オカルトパワーの駆使を意味すると言っても良いでしょう。
 大本教は緑龍会の組織です。ドイツ人で武官として1909年頃日本滞在中にこの緑龍会に入会した人物がいます。地政学者のカール・ハウスホーファーです。カール・ハウスホーファーはクンダリニー・エネルギーに相当するヴリル・エネルギーを追求した人物で、アドルフ・ヒトラーの師匠でした。日本とドイツの架け橋となった人物がハウスホーファーです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第23話 ― 日本とドイツの架け橋

ドイツを導いていたハウスホーファー


日本がアジアの雄となることを目指しながらも、日中戦争突入を「無謀、時期尚早」と批判したのが、満州事変の主役だった石原莞爾でした。

石原と同じように日本の「大東亜共栄圏」講想に賛同支持しながらも、日中戦争を無謀な進出として日本軍部に警告した人物がいます。アドルフ・ヒトラーの師匠であったカール・ハウスホーファーです。

Although our eyes can not penetrate the darkness of the future, scientific geopolitical analysis enables us to make certain predictions. - Karl Haushofer
編集者訳:我々の目は未来の闇を突き通すことはできないが、科学的・地政学的分析は、我々が特定の予測をすることを可能にする。
― カール・ハウスホーファー ―

『ヘブライの館2』の「ナチスとチベットの妖しい関係」記事に次のようにあります。ハウスホーファーは、

日本は満州と経済ブロックを組んで力をたくわえ、ゆくゆくは中国とインドを含む「モンスーン諸国」のリーダー格となって、その自立と発展をはかるべきだ、とまで主張。

しかし、

日本軍部が盧溝橋事件によって日中戦争(支那事変)に突入し、上海・南京を占領して、ハウスホーファーの助言を裏切る形に出ると、彼は在日のドイツ武官を通じて、この無謀な侵出を中止するよう警告していた。

ハウスホーファーは緑龍会の会員であり、緑龍会に終生の忠誠を誓っていました。地政学の権威でもある彼は、日本に関する著述をいくつも発表している卓越した日本通です。そのハウスホーファーが、日中戦争以降の日本の海外浸出を無謀だと断じたのです。

戦争での国家の勝利を念頭に置くのならば、戦略家としてハウスホーファーや石原莞爾の感覚は、通常の意味で非常にまともなものだったでしょう。別の言い方をすれば大東亜戦争、そして第2次世界大戦は通常の戦争ではなく、戦略家の企図を外れた様々なパワーバランスの中で動かされ、利用されてもいった戦争だった、ということになるのでしょう。


さて、大正編 第5話〜10話で既に見てきたように、ハウスホーファーは1918年創設の(ナチスの母体となった)トゥーレ協会の会員であり、また同年創設のヴリル協会の創設者でもあります。ヴリル協会はクンダリニー・エネルギーに相当するヴリル・エネルギーを追求し、駆使するために創設されました。ハウスホーファーは、「ヴリル・エネルギーを獲得し、自在に駆使できるものがこの世界を制覇する。」「ヴリル・エネルギーを自在に駆使できるのが自分たちアーリア人種である。」との確信があったのです。

トゥーレ協会の紋章

ハウスホーファーがヒトラーと出会うのが1921年、1923年にはハウスホーファーがヒトラーと『わが闘争』を共同執筆しています。ヴリル・エネルギーに対するハウスホーファーの確信がヒトラーの「自身が救世主である」との自覚へと繋がり、これがドイツを衝き動かしていきます。ナチスの結党が1920年、ヒトラーが首相に就任し全権委任法を取り付けたのが1933(昭和8)年。1920年台から1930年台のある時期までドイツを導いていたのがハウスホーファーと言っても間違いないでしょう。



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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第22話 ― 変化しない体質

 コロシアムでの奴隷剣士たちの戦い。
古代ローマで、市民への見世物として互いに戦闘することを強制された奴隷を剣奴、あるいは剣闘士奴隷という。いわゆるグラディエイターである。多くは戦争捕虜の中から選抜されて養成所で育成され、各地の闘技場で互いに戦わされたり、猛獣と戦わされるなどした。
 今回の東京オリンピックそのものと感じます。例外を除き選手全員が毒ワクチン接種の強制、熱中症で死亡事故や後遺症が残っても不思議でない酷暑での屋外競技、屎尿と放射性物質が貯まりこんだ水質での競技、オリンピック主催者たちが選手たちをどういう目で見ていたのかは明白でしょう。古代ローマの時代からその本質は同じということです。
 戦争とは国家対国家の争いとされますが、実情は異なるでしょう。何時の時代でもどこの国でもエリートを自認する者たちがいて、そのエリートがゴイムと見なし利用する一般民衆がいる。そして国家間の戦争と言っても犠牲になるのはいつでも利用される一般民衆という構図が実情です。エリートを自認する者たちは痛みも負わず、責任も取ることのない構図です。
 太平洋戦争の日本も同じだったということです。日本の兵隊はその殆どが徴兵された一般民衆です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第22話 ― 変化しない体質

エリートのもみ消し体質


2.26事件、昭和恐慌という日本の特に農村部の大苦境が背景にあって決起した皇道派青年将校たち、叛乱軍となってしまった彼らたちですが、軍部には彼らに呼応しようとしていた多くの者たちも存在し、叛乱将校の取扱いに軍部は苦慮し揺れていました。軍部は叛乱将校たちに対しては当然といえば当然ですが同情的だったのです。


しかし、そのような軍部にあって全く毛色の変わった者もいました。朝香宮鳩彦麾下の上海派遣軍の軍団長として南京事件の実行部隊のあの中島今朝吾です。2.26事件当時、すでに中島今朝吾は陸軍習志野学校の校長でした。「1933年 永田鉄山と小泉軍医学校校長は、毒ガスを習志野学校で、細菌戦は731部隊で行うことを決定。」を受けて、毒ガス兵器の習志野学校校長となっていたのでした。

中島今朝吾
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中島今朝吾は、叛乱軍となった青年将校たちに対しての直ちに化学兵器を用いた鎮圧を提唱します。有り体に言えば、中島今朝吾は叛乱将校たちを毒ガス兵器の生体実験の対象に、化学兵器による鎮圧と言うよりは毒ガス兵器による殲滅という言い方のほうが正確になるでしょう、これを提唱したのでした。

同じ日本陸軍の仲間だったはずの青年将校たちを、毒ガス兵器による実験と殺害の対象とするのです。このあたりのメンタリティはまさしく「731の遺伝子」そのものです。事実としてウィキペディアの中島今朝吾の記事には以下があります。

1936年(昭和11年)2月26日、東京で皇道派の青年将校らによってクーデターが起こされた(二・二六事件)。一貫性のない陸軍中央の動きとは違い、早くから反乱軍鎮圧を口にしていた今朝吾であったが、2月28日になり、催涙弾、くしゃみ弾を携行して東京に出撃するようにとの命令が下り、出発する。

青年将校たちが投降したため、結局は化学兵器の使用はされませんでしたが……。

また、ウィキペディアの記事のこの部分の前の記述も注目に値します。こうあります。

1933年(昭和8年)8月1日、陸軍習志野学校初代校長を命じられる. 1934年(昭和9年)5月18日、群馬県群馬郡桃井村(現・榛東村)の相馬原で陸軍習志野学校幹事である今村均大佐の計画・実施で日本初の毒ガスを用いた演習を行った。だが不備が生じ、誤って毒を吸った者が続出して上等兵が亡くなった。これにより、真崎甚三郎教育総監は今村を退役処分にするつもりであったが、今朝吾が真崎教育総監の他、林銑十郎陸軍大臣と参謀総長閑院宮載仁親王に直訴し、身を挺して今村を守ったため、今村は不問に付された。

今朝吾が「身を挺して今村を守ったため、今村は不問に付された。」、こう言えば聞こえはいいです。しかし……実態は「もみ消し」です。

今村均
Wikimedia Commons
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毒ガス兵器の演習によって自軍の兵たちに被害が広がり死者まで出た。これは自軍の兵士を毒ガス兵器の実験台にしたということではないでしょうか? その結果死者まで出た、これは担当者が責任を取らなければいけないのは当然です。しかし、それが不問に、誰も責任を取らない、大変な「生体実験、もみ消し事件」でもあるはずなのです。

そして、この隠蔽と無責任体質は現在日本まで継続しています。日本のエリートたちも自軍の兵士や自国民をゴイム扱いしているのです。


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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第21話 ― 幻想の不協和音

 現在のテレビや新聞などのマスコミのルーツが、プロパガンダを専門とするような情報機関であったことは既に見てきました。
 昔、プロパガンダとは、敵側に敵国に向けて発せられるものと私は思っていました。……違っていました。
 プロパガンダの標的は、先ずは味方のはずの自国民です。自国民を騙し、幻想を植え付けるのです。どうもこれは鉄則らしく、現在、日本でも自国民相手のプロパガンダが最大限に発動しているのは、私たちが日々経験している通りです。「敵を欺くには先ずは味方から」という諺があるにはありますが、少し意味が異なるような…。
 幻想とは恐ろしいもので、簡単に植え付けられます。大日本帝国、かつて存在していたはずの帝国で、日本人のおびただしい数の血が流されたのは、この帝国の興亡をかけてのものだったはずなのです。
 ところが、この帝国も幻の帝国だったとも言えそうです。なにせ大日本帝国はその最初から英領として始まっていたのですから、少なくとも独立国家としての帝国ではなく、幻想にまみれていたのは事実です。
 その英領の帝国が、宗主国のはずの英国、そして米国を相手に戦争することになったとされます。無論、末端の現場レベルに近い程、本気で戦争に勝利しようとしたでしょう。しかしトップの方、とりわけ裏天皇は何を考えていたのやら…どうも理解不能の部分が残ります。
 しかも、この帝国は内部に深刻な対立を抱えてもいました。戦争の始まる前からおびただしい数の一般民衆が犠牲になるのは必然でした。幻想の不協和音の中での戦争です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第21話 ― 幻想の不協和音


三笠宮も裏天皇に仕えていた?


前回、『★阿修羅♪掲示板』からの情報で、「金(黄金)の百合」作戦で戦局の最終盤に略奪された莫大な財宝が、フイリピン山中に「山下将軍の財宝」として埋蔵され、その隠匿工作をした人々が生き埋めにされたことを見ました。

この情報源は、『櫻井ジャーナル』でも指摘されているスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブ夫妻の著書のようです。

いくつかのブログでシーグレーブ夫妻の著書を翻訳した記事が掲載されていますが、その一つ『マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから』2007-06-05記事の中で以下のような記述があります。

ベンは竹田宮、そして裕仁の兄弟である秩父宮、三笠宮、そして南京虐殺において日本軍の指揮をとった年長者、朝香宮を指さした。ベンは彼らが在庫を調べ財宝基地に収納する間、ともに過ごし食事を運びお茶やタバコをもっていったと話した。

竹田宮恒徳
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秩父宮雍仁
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三笠宮崇仁
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朝香宮鳩彦
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ここで竹田宮たち皇族を指さしたベンとは、竹田恒泰親王の従者として財宝隠匿に従事したフィリピンの若者ベン・バルモアで、彼は財宝隠匿関係者たちの中での生き残りの人物である旨が記されてあります。

このベンが指さした皇族、つまり竹田宮、秩父宮、朝香宮は裏天皇の部下であったことは既に見ていますが、ここに加えて三笠宮の名前も出ています。

『夢幻と湧源』サイトの2009年6月2日記事には、キムスこと竹田宮、秩父宮雍人陸軍少将、三笠宮崇仁陸軍参謀、朝香宮鳩彦陸軍中佐、「これらの皇族たちは、1943年にマニラで開かれた会議の参加者だった。」とあります。

こういった情報から、三笠宮も裏天皇側に所属していた可能性があります。三笠宮は南京事件や731部隊の振る舞いを批判していた人物で、その意味で三笠宮が裏天皇側に属していたとすれば意外ではあるのですが……。


また、現在は表示されていませんが2015/11/15竹下さんの記事紹介されてあった記事の中に次の記述がありました。

鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。どちらのクーデターもヤラセだった。

2.26事件は後述するとして、三笠宮が策を練ったとされる「8.15宮城事件」について。これはごく簡単には、終戦に反対する将校が宮城(皇城)を占拠し「玉音放送」を阻止しようとしたが、逆に鎮圧された事件です。

昭和天皇の意志に反し皇城を占拠した将校たちは、普通に見れば裏天皇側の者でしょう。そしてその叛乱将校を鎮圧、指揮の功労者が田中静壱司令官でした。

陸軍中将時代の田中静壱
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ところが、この田中静壱こそが、フィリピンで山下将軍の前に第14軍を天皇に親任され、率いていた司令官です。つまり、田中静壱は「金の百合」の実働部隊の司令官で、裏天皇の部下なのです。


鬼塚氏によれば、三笠宮が練ったとされる「8.15宮城事件」とは、裏天皇の部下がクーデターを謀り、それを同じ裏天皇の部下が鎮圧した構図になります。これだと確かにヤラセです。

一口に裏天皇側といっても、その中には派閥とその争いもあったであろうし、個々人の考え方の相違もあったであろうことは間違いないでしょう。また、その彼らの為した作業の中には、見せかけのヤラセ工作もあったでしょう。

問題はヤラセにしてもその目的なのですが…、残念ながら現在は不明です。


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ぴょんぴょんの「国境の島で、今何が」 〜石垣島と陸自配備計画

「国境の島」と呼ばれる石垣島で、今、何が起こっているのか。
南の島々が、好き放題にどんどん軍備されていく様を見せられながら、
日本の最南端で起きていることは、日本の最先端を物語っていると感じます。
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「国境の島で、今何が」 〜石垣島と陸自配備計画


今、石垣島がピンチ


石垣市の自治基本条例(住民投票の請求及び発議)
第28条 
第1項 市民のうち本市において選挙権を有する者は、市政に係る重要事項について、その総数の4分の1以上の者の連署をもって、その代表者から市長に対して住民投票の実施を請求することができる。
(中略)
第4項 市長は、第1項の規定による請求があったときは、所定の手続きを経て、住民投票を実施しなければならない。

暑い暑い夏が来た! 沖縄行きたいなあ!

この暑いのに、沖縄かあ?

石垣島がいいよ〜! 
海はきれいだし、人はのんびりしてるし。

石垣島、沖縄本島からさらに420キロ南、
面積は沖縄本島、西表島に次いで沖縄県第3位。
人口も沖縄本島、宮古島に次いで第3位の4万9,823人(2020年1月時点)で、
若者や、外国からの移住者が増えて増加傾向だ。
石垣島ナビ

Author:Flappiefh[CC BY-SA]
石垣島の位置

くろちゃん、なに、AIみたいにデータ吐き出してるの?

ちょうど石垣島のこと、調べてたんだよ。
石垣島は、古くから中国、台湾、沖縄本島などと交易があった島。
石垣ブランドのパイナップルやマンゴーも、台湾人が育て方を教えてくれたもの。
石垣島の暮らしは近隣国の人たちとも調和しながら発展してきた。
長周新聞

多国籍で豊かな島、理想的だねえ。

ところが今、この島がピンチだ。

何があったの?

「前編)住民投票の権利抑圧!石垣市陸自配備強行問題」


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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第20話 ― 戦争の秘された目的

 帝国憲法では、「現人神」の天皇はすべての法に超越した絶対的な存在に規定されます。これを違う角度から見れば、天皇を自在に動かすことができる者がいれば、その者は天皇の名を借りて、その看板の元に好き放題ができるということになります。言うまでもなくこれを狙っていたのがアベシたちです。
 また、帝国憲法で超越的存在の天皇に準ずるのが皇族たちで、「法の上」にあるような存在でした。帝国憲法では、皇族たちは皇族典範でその地位が規定され、皇族会議、枢密院、貴族院に席を有することになります。これらは国家中枢を動かすものでもあります。「法の上」にある皇族たちは、自在な活動をしても処罰されるようなことは無かったのです。
 法の支配下にない彼ら皇族たちの一部が頭になって、秘密の軍事作戦を展開します。大東亜戦争の目的の第一義は「日本人国家の勝利」ではありませんでした。戦争目的の第一義が「大東亜共栄圏設立のための布石」という言い方ならば嘘ではありませんが…。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第20話 ― 戦争の秘された目的

無謀な戦域拡大のわけ


前回、引用された櫻井ジャーナルの記述には以下の4つの柱があると指摘しました。

日本軍による東アジアでの財宝略奪(金の百合)プロジェクトは1937年の南京攻略から開始された。
②南京攻略(つまり南京大虐殺と略奪の真の犯人は軍の最高指揮官の松井石根ではなく朝香宮鳩彦。
財宝略奪(金の百合)の主導者が秩父宮雍仁。その補佐が竹田宮恒徳。
秩父宮と駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーは懇意。

①②については前回に多少言及しました。「金の百合」即ち日本軍による財宝略奪が本格的に始動するのは1937年の南京攻略からで、この「金の百合」の総指揮は秩父宮が執っていたようです。

秩父宮雍仁
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ただし、日本側による財宝の略奪は1937年の前から始まっていました。あの1921年国家間条約」に基づき始まっていたようです。2019/12/16の竹下さんの記事全体を通しては以下のことが明かされています。

  • 欧州外遊中の昭和天皇はイギリスのジョージ五世国王、ウォレン・ハーディング米国大統領、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相らと1921年国家間条約」を締結。しかしこの締結は実際には堀川辰吉郎とウォルター・ロスチャイルド、エドゥアール・ド・ロチルド、そしてジョン・ロックフェラーの合意。
  • ウォルター・
    ロスチャイルド
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    エドゥアール・
    ド・ロチルド
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    ジョン・
    ロックフェラー
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    堀川辰吉郎

  • 「1921年国家間条約」の当初合意した内容に沿って、金塊の大半が1924年から1945年の間に日本が建設したインドネシアやフィリピン諸島の秘密の掩蔽壕の中へと運び込まれた。その量600万トン以上?
  • 日本からの掠奪をおそれたアジアの王族たちなどが、すでに1928年頃から財宝をアメリカに預けるようになる。その合わせた量“約200万トンの金塊”。
  • このアメリカに預けられた金塊をもとにブレトン・ウッズ協定が1944年に行われる。1945年、このアメリカの金塊が“M1”と名付けられ、インドネシアのスカルノ大統領をこの巨額の資産を管理する口座管財人に選出。

1937年の日中戦争開始以降、日本は戦域を広げに広げていきます。こうなれば戦力を分散せねばならず、しかも補給線なしの戦域の拡大で、明らかに素人目にも無謀です。

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あの満州事変を起こした石原莞爾は、日中戦争を起こし戦域を拡大するのには反対していました。石原莞爾は日本がアジアの雄となるのを目指していましたが、戦域拡大はあまりにも時期尚早で、無理があると見たのです。戦争での勝利を目指す軍人の視点としてはごく当然のものでしょう。

補給線なしの戦域の現場で、日本兵たちがどんな目にあったかはよく知られていることです。日本兵の戦死者のほとんどは実質は餓死です。補給路の確保(兵站)は戦略の初歩の初歩です。ところが、この初歩の兵站を無視して戦域を拡大したのは何故か?

「戦争での勝利のため」では明らかにおかしいのです。
黄金の略奪を急ぐため、これが目的ならばやっと話が通じます。


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