「満洲問題に関する協議会」〜児玉を圧倒した伊藤
1906年5月22日、首相官邸において元老および閣僚たち、更に軍部の主立った者がすべて一堂に会します。「満洲問題に関する協議会」が開かれたのです。この模様を孫崎享氏の『日米開戦の正体』から見ます。
p164 、この協議会は、日露戦争後に顕著になった満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念を持つ伊藤博文の要請によって開催されたものでした。一方この伊藤博文と対立、会議上でも満州を我が物にしようとの姿勢を見せたのが、長州閥の陸軍参謀総長児玉源太郎です。
p165、伊藤はこの児玉源太郎の主張に対し反論、その難詰は次のようなものでした。
また更に伊藤は、満洲に権益を拡大する動きには次の危険が内蔵していることを指摘。
この協議会で伊藤は児玉源太郎を圧倒、この結果この会議の席上、日本軍の満洲駐屯を排することになります。
これまで見てきたように、陸軍の児玉源太郎のバックには盟友の杉山茂丸がいたわけですが、彼らは海外拡大路線であって、満洲に対しては「閉鎖主義」、つまり日本以外の外国勢力を排除し、満洲の植民地化を進めようとする姿勢で動いており、満洲に日本の軍隊を駐屯させていたのです。
この「満州を我が物にしようとの姿勢」に伊藤は真っ向から反対したのです。満洲は清国の領土であって日本はその兵を撤退しなければいけないとの伊藤の主張は 、1905年の日露講和条約(ポーツマス条約)の内容骨子に「日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。」が入っており、至極当然でもっともなのです。
連投10RT@iwj_ch1 10.孫崎氏「私が、この人が生きていたら日本が変わっただろう、と思うのは、伊藤博文なんです。伊藤博文は、日本の軍が満州に居残ったことを危惧し、参謀総長を怒って、ポーツマス条約を守るように、と言うんです。伊藤博文が生きていれば満州に出ることはなかった」
— 岩上安身 (@iwakamiyasumi) June 9, 2015
また伊藤は「日本が満州に権益を拡大する動きには、①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発。②中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。とその危険が内蔵していることを指摘」とありますが、この伊藤の懸念憂慮も当然だったのです。
そして不幸なことに、伊藤の懸念・憂慮がその後ことごとく現実化していくのは皆様のよく知るとおりです。
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孫崎享氏の指摘です。孫崎氏は「伊藤博文暗殺が日米開戦の遠因」との見解です。
分水嶺という言葉があります。山の頂などで雨水など水の流れが別れる地点を指します。分水嶺を通過した水の流れはもう一定方向にしか進まず、後戻りや方向転換はできなくなります。孫崎氏の見解もそうですが、私も伊藤暗殺が分水嶺になっていたと見えます。泥沼の日中戦争、そして悲惨な太平洋戦争にまっしぐらに突き進む流れ、これが決してしまい、後戻りできなくなったのが伊藤暗殺と見えるのです。
日本がそこに至っていく大きな流れは既にありました。少なくとも「一視同仁」の世界をつくるため1777年に客家系の華人によって蘭芳公司が建てられ、「四海同胞」の理想の下、日本から大量に流出した黄金が欧州にもたらされるようになった(2019/12/26竹下さん記事)時にはこの流れは既に発動していたでしょう。
日本からの大量の黄金がフランス革命など世界革命に用いられ、世界潮流を発生させているので、日本がこの渦の中に巻き込まれるのは必然とも言えるのです。しかし伊藤暗殺までは、まだ日本は悲惨で泥沼の戦争にいたる流れに引き込まれるのを踏みとどまる余地はあったでしょう。
さて、伊藤暗殺の黒幕には諸説あります。それを細かく見ていくと迷路になりますが、大きな視点でハイアラーキーの計画の上に伊藤暗殺があったと見るのが間違いのない見方だと思えます。日本を中心とするハルマゲドン計画の地上での推進の中核が結社八咫烏でしょう。玄洋社もその組織の一部です。