アーカイブ: *霊的世界

第9代開化天皇の過ちにより、「ホツマの神々」の一団が3.0次元の「6層」から「7層」に転落してしまった事件

竹下雅敏氏からの情報です。
 今回は、ホツマツタヱの記述では何も不自然なところは無いにもかかわらず、その本質では最も理解が困難な箇所です。私自身がいまだに良く分からない部分なのです。
 「ホツマの神々」が約3500万年前から現在に至るまで、3.0次元の肉体に転生に入っていることは分かっていました。私自身が「ホツマの神」であり、日本がその中心とはいえ、日本以外にも「ホツマの神々」が地球に「人」として転生に入ることは、例えば金正恩氏の例を見ても分かります。また、転生に入っている「ホツマの神々」のほとんどは無名のままで、自身が「ホツマの神々」の一柱であることを自覚していません。そのくらい肉体に転生すると、無明(無知の暗闇)に覆われてしまうのです。
 天照大神、神武天皇などのホツマの神が実在の人物で、3.0次元に肉体を持って地球に転生に入っていたことは何度も確かめていましたが、不可解なのは彼らの寿命です。天照大神は寿命が長すぎ、神武天皇はそれまでの神々に比べて短すぎるのです。
 この謎がようやく解けたのは最近のことで、3.0次元の肉体(狭義)といっても、「5層」「6層」の違いがあることが分かりました。私たちが認識している肉体(狭義)は「7層」です。
 今回は、第9代開化天皇の過ちにより、「ホツマの神々」の一団が「6層」から「7層」に転落する事件です。記事をご覧になると分かるように、白人(シラヒト)、胡久美(コクミ)と類似した過ちを犯したことで、開化天皇を中心とする一団が「7層」に転落してしまいます。
 不思議なことですが、開化天皇と伊香色謎姫は崇神天皇を産む前には、肉体(狭義)の「身体」の焦点は3.0次元の「6層」にあるのに、崇神天皇を産んだ後は「7層」に落ちてしまうのです。そして、歴史家は崇神天皇以降の天皇を実在と見なします。
 これは、仙道の最奥義「白日昇天」の逆で、我々から見れば通常では見えない存在が、ある時を潮に忽然と物質化したように見えます。こんなことが果たして起こり得るのか?
 中西征子さんの天界通信61の「ひとみちゃん」は、ガヤトリー・マントラによって、飛躍的な進歩を遂げて女神となり、肉体(狭義)の「身体」が3.0次元の「6層」から、3.3次元の「6層」に変化したことを2020年12月6日の記事でお伝えしました。上昇の例があるので、下降して3.0次元の「7層」に移ることも理論上はあり得るのは分かりますが、納得しがたいのは事実です。
 また、2020年12月13日の記事で、第一根幹人類は「5層」、第二根幹人類は「6層」、第三根幹人類(レムリア人種)以降は「7層」に肉体(狭義)の「身体」があったことを示しました。神智学では、第一根幹人類はアストラル体、第二根幹人類はエーテル体であったと考えている様なのですが、これは間違いであると指摘しました。しかし、いずれにせよ、どの様にして「6層」に居た第二根幹人類から、「7層」の第三根幹人類(レムリア人種)が生まれたのかは、分からないのです。 
 ここでも、開化天皇と伊香色謎姫、崇神天皇の場合と同じ困難がつきまとうのです。この部分が解明できれば、全ての謎が解けると思っています。
(竹下雅敏)
————————————————————————
【32 藤と淡海瑞の紋】


https://www.gejirin.com/hotuma32.html
ほつまつたえ 人の巻32 ふしとあわうみみつのあや 【ふじとあわ海 見つの文】

(前略)
ときあすす ゐもむそふゆ   時アスズ     五百六十年冬
 
そふ かすかいさかわ   十月の十二日   春日率川
 
にいみやこ みことしゐそひ   新都       皇子 歳五十一
 
ふそ あまつひつきお   十一月の二十日  和つ日月
 
うけつきて いむなふとひひ   受け継ぎて    斎名フトヒヒ
 
わかやまと ねこひこあめの   "ワカヤマト    ネコヒコ天の                          (開化天皇)
 
すへらきと たみおかま   " と      民に拝ませ
                         (陽陰の御孫の典)
 
ははあけ そふのきさきも   母も上げ     十二の后も
                (ウツシコメ)
 
さきあり あくるきなゑお   先にあり     明くるキナヱを
                          (アスズ561年)
 
はつのとし としはつそふ   初の年      七年一月十二日
                         (アスズ567年)

いきしこめ たてうちみや   イキシコメ    立てて内宮                 (=イカシコメ)

これのさき きみめすときに   これの先     君召す時に
 
おみけぬし いさめもふさく   オミケヌシ    諌め申さく
                (ミケヌシの子)
 
きみきくや しらうとこくみ   「君 聞くや     シラウドコクミ  

ははおかす かないまあり   母 犯す      汚名 今にあり
                 (サシミメ)
 
きみまねて かなおかふるや   君 真似て     汚名を被るや」
(以下略)
 
「完訳 秀真伝 下巻 鳥居礼編著 八幡書店」を参考にすると、意味は次のようになる。
 
天鈴560年(紀元前208年)の冬、10月12日、春日(奈良市)の率川(いさかわ)の宮に都を遷した。皇子は51歳であった。11月12日に君の御位を受け継ぎ、諱フトヒヒ、ワカヤマトネコヒコアメノスメラギ(開化天皇)となった。君は正装を民に拝ませ、母親を御上后とし、12人の后もすでに定まっていた。翌キナヱの年を元年とした。
7年1月12日にイキシコメ姫(伊香色謎姫)を内宮にした。これより先、君がイキシコメ姫を召そうとした時に、大御気主命(オオミケヌシノミコト)は君を諫めて申し上げた。「君はお聞きになられたことはございませんか。昔、白人(シラヒト)、胡久美(コクミ)の二人が母と娘を犯した汚名は今に伝わっております。君も同じことをして、汚名を被るおつもりですか。」

開化天皇は大御気主命の言葉に耳を貸さず、大御気主命は「これでは我が御親神が見放すでしょう。」と言って去って行ったという事です。

http://www.tukinohikari.jp/nenpyou/index.html
天照神の年表
(『完訳 秀真伝』の巻末資料、『 注釈 上紀(うえつふみ) 』より)


(前略)
紀元前
208年


















天鈴(あすず)510年
第8代孝元(こうげん)7年


















2月2日、鬱色謎(うつしこめ)姫を内宮に冊立。
兄の鬱色雄(うつしこお)命をケクニ臣と定める。
12月1日、鬱色謎(うつしこめ)姫が日の出と共に、
諱〔太日日(ふとひひ)〕、稚日本根子彦(わかやまとねこひこ)尊〔のちの開化天皇〕を生む。
(以下略)

系図を見ると良く分かりますが、イキシコメ姫(伊香色謎姫)は、孝元天皇の后です。開化天皇の母にあたる女性を内宮にしたことになります。開化天皇と伊香色謎姫の間に第10代崇神天皇が生まれます。この崇神天皇は実在が確実視される人物です。

白人(シラヒト)、胡久美(コクミ)の事件については、こちらのブログをご覧ください。

» 続きはこちらから

3.0次元の「5層」に転生に入っていた「ホツマの神々」の没落の始まり

竹下雅敏氏からの情報です。
 冒頭の系図をご覧ください。ニニキネとアシツ姫 (コノハナサクヤ姫) の間に生まれた三つ子の三男である彦火火出見尊(ヒコホオデミ、山幸彦)は、第3代大物主の子守神の娘、イソヨリ姫を内侍とします。天皇の后は典侍(スケ)、内侍(ウチメ)、下侍(シモメ)に順に位が下がります。内侍は中位の后です。
 系図を見ると分かりますが、驚いたことに彦火火出見尊はイソヨリ姫を後に賀茂建角身命(カモタケツミ)の妻として下すのです。いくらでも美しい女性を妻に出来る身分とは言え、自分の妻を部下への褒美として与えるというのは、女性をモノだと見做しているとしか思えないものです。この辺りから3.0次元の「5層」に転生に入っていた「ホツマの神々」の没落が始まっていたのではないかという気がします。
 系図をご覧になると、彦火火出見尊の子・鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアワセズ)と、以前の妻のイソヨリ姫の子・玉依姫との間に生まれたのが神武天皇です。しかも、これから見るように、玉依姫に関しては略奪婚の可能性があります。
 私には相容れない感覚で、この一族が「天界の改革」で滅ぼされたのもやむを得ない所です。
(竹下雅敏)
————————————————————————
前回の記事で、玉依姫(タマヨリヒメ)が「白羽の矢」によって身籠り、後に御毛入尊(ミケイリノミコト)と名付けられる子を産んだという伝承を紹介しました。

https://www.gejirin.com/src/Ta/tamayorihime.html
タマヨリヒメ
→ 語義

玉依姫。 
カモタケズミイソヨリ姫娘。コモリおよびハテスミの孫。
なかなか子が出来なかった二人が、ワケツチ神に祈って賜った娘。 白羽の矢によりミケイリを生み、日似山麓の出雲路森(高野の森)に隠れ住む。 
その後ウガヤ内局になってイナイイを生み、さらにウガヤの内宮になってカンヤマトイハワレヒコを生む。


ホツマツタヱによれば、“人々はその矢を「別雷の神」だと噂した”という事でした。別雷神は「アマテルがニニキネに授けた名」であり、噂された「矢」はニニキネという事になるはずなのですが、前回の記事のコメントで「白羽の矢」は大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしました。
 今回はその根拠となる伝承を見て見ます。

https://www.gejirin.com/src/Ya/yamakui-yamakuhi.html
ヤマクヒ・ヤマクイ・ワカヤマクイ
→ やまくひ わかやまくい

山咋(山構ひ)。若山咋(分山構ひ)。
ホツマツタヱには記述がないが、古事記の記事を信じれば、オオトシクラムスビの子。
ニニキネの命により山背の野を掘り、その土をオキツボの峰に盛って大日山を模した日似山(一枝山)を造る。

ワカヤマクイ (古事記に大山咋の甥とある) は「分山構ひ」の意で、「分山」とは「大日山」を写した「日似の山」を指すものと思われ、これはヤマクヒと同一人物と推測する。
 
一時シノ宮に居たらしく、シガの守が海幸彦の鉤を返しに行く時に招かれている。ウガヤは都を多賀に移して以降は、シノ宮の地域はヤマクイが治めを預かったと推測される。

高野の森に隠れ住んでワケツチ神を祭るタマヨリ姫への勅使となり、姫を宮に迎える。
(中略)
(以下略)
 
大山咋神(おおやまくいのかみ)は、大年神(おおとしのかみ)と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子とされています。
 ホツマツタヱの伝承では、ニニキネの命により山背の野を掘り、その土をオキツボの峰に盛って日似山(比叡山)を造ったということです。
 この記事では、ワカヤマクイと同一視していますが別の神で、“古事記に大山咋の甥とある”と書かれている通りだと見て良いでしょう。

https://www.gejirin.com/src/Wa/waketuti.html
ワケツチ
→ 語義

分土。別地。
「(川に)分けられる土地」の意で、カモ(賀茂)カアヒ(河合)の同義語。
狭義には下賀茂の区域であるカアヒ(河合)に対して、上賀茂の区域を指す。
(中略)

ワケツチミヤ
→ 語義
  
分土宮。別雷宮。
当初は神山 (ワケツチ山) にあった。ワケイカツチ神 (ニニキネ) を祭る。 トヨタマ姫がこの山にニニキネを纏ったことが起源のようだ。
垂仁天皇オオカモツミをして現在地に遷したか。
ウガヤから三種八重垣剣を預かるタマヨリ姫は、世を去る前に、ここに八重垣剣を預ける。

京都府京都市北区上賀茂本山、賀茂別雷 (カモワケイカヅチ) 神社
 
ワケツチ(分土、別地)とは上賀茂の区域を指す言葉であり、ワケツチミヤ(分土宮)には別雷宮という漢字をあてて、“ワケイカツチ神 (ニニキネ) を祭る”とあります。また、賀茂別雷 (カモワケイカヅチ) 神社との関連を示しています。
 この辺りの伝承は混乱していて分かりにくいのですが、私は人々が噂した「白羽の矢」の正体である「別雷神」とは、ニニキネではなく、比叡山を造った功績によりこの辺りの地域を治めていた大山咋神(おおやまくいのかみ)だと考えています。
 
» 続きはこちらから

玉依姫(タマヨリヒメ)が内宮となり神日本磐余彦尊(神武天皇)を生んだ紀元前711年の前後で、ホツマの神々の世界に異変が起こった!

竹下雅敏氏からの情報です。
 鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアワセズノミコト)と玉依姫(タマヨリヒメ)の子が神武天皇(カンヤマト・イワワレヒコ)です。玉依姫には不思議な伝承があって、賀茂川で禊をしていたところ、白羽の矢が飛んできて河合の館の軒に刺さり子を身籠ったというのです。この子は後に御毛入尊(ミケイリノミコト)と名付けられます。
 ホツマツタヱの年表から分かるように、玉依姫が後にミケイリと名付けられる子を産んだのは、紀元前118,624年です。また、鵜葺草葺不合命が玉依姫を内局に迎え、連れ子を御毛入尊と名付けたのは、紀元前66,055年になります。
 紀元前60,687年に、天照大神が神上がります。そして、玉依姫が内宮となり神日本磐余彦尊(神武天皇)を生んだのは、紀元前711年です。
 記事で触れたように、別雷神(ワケイカヅチノカミ)は「アマテルがニニキネに授けた名」なのですが、玉依姫は「白羽の矢」によって身籠り、“矢は「別雷の神」だと噂された”というのですが、後に御毛入尊と名付けられた子の父親はニニキネではなく、大山咋神(おおやまくいのかみ)だと私は考えています。
 この部分の伝承は混乱しており、恐らくはわざと混乱させていると思われるのですが、この伝承に関しては次回に詳しく解説するつもりです。
 いずれにせよ、玉依姫が内宮となり神日本磐余彦尊(神武天皇)を生んだ紀元前711年の前後で、ホツマの神々の世界に異変が起こったようです。神武天皇誕生以前では、鵜葺草葺不合命と玉依姫、天児屋根命(あめのこやねのみこと)積葉八重命(つみはやえのみこと)、饒速日命(にぎはやひのみこと)などのホツマの神々は、図に示した「3.0次元の5層」に肉体(狭義)の「身体」の焦点があるのですが、神武天皇誕生以降では「3.0次元の6層」に変化しているのです。
 天児屋根命は、先の年表によれば紀元前685年に1,560,025歳で神上がり、積葉八重事代主命は、紀元前668年に843,048歳で神上がっています。神武東征で神武天皇のもとに下った饒速日命は、この時少なくとも89万歳でした。ところが、神武天皇は紀元前711年に生まれ、紀元前660年に52歳で即位し、紀元前585年3月10日に、わずか128歳で崩御しているのです。
 神武天皇以降は寿命が急激に短くなるのですが、「ホツマの神々」が神武天皇の誕生の前後で、3.0次元の「5層」から「6層」に降下した理由は、今のところ「謎」のままです。
(竹下雅敏)
————————————————————————

【27 御祖神船魂の紋】


hotumatutaye.com/wp/wp-content/uploads/2014/06/260610ほつまつたゑ全文.pdf より一部抜粋
御祖神(ミヲヤカミ)船魂(フナタマ)の紋(アヤ)
    (前略)
    レノサキ   カモタケツミト  これの先  カモタケツミと 
    イソヨリト  ソミスズマデモ  イソヨリと 十三スズ迄も 
    コナキユエ  ワケツチカミニ  子なき故  ワケツチ神に 
27-25 イノルヨノ  ユメニタマワル  祈る夜の  夢に賜わる 
    タマノナノ  タマヨリヒメヲ  玉の名の  タマヨリ姫を 
    ウミテノチ  ヒタシテヨハヒ  生みて後  養して齢 
    ソヨスズニ  タラチネトモニ  十四スズに タラチネ共に
    カミトナル  アカヒノカミゾ  神となる  アカヒの神ぞ
    (中略)
    ミソギナス シラハノヤキテ  ミソギなす 白羽の矢来て 
    ノキニサス アルジノオケノ  軒に刺す  主の月経の
    トトマリテ オモハズヲノコ  留まりて  思はず男子  
    ウミソダツ ミツナルトキニ  生み育つ  三歳なる時に 
    ヤオサシテ チチトイウトキ  矢お指して 「父」と云う時 
    ヤハノボル ワケイカツチノ  矢は昇る  ワケイカツチの 
    カミナリト ヨニナリワタル  神なりと  世に鳴り渡る

「完訳 秀真伝 下巻 鳥居礼編著 八幡書店」を参考にすると、意味は次のようになる。

河合の館に暮らしていた賀茂建角身命と五十依姫は、十三鈴経っても子供が出来ないので、別雷神(ワケイカヅチノカミ)に祈ると、夢に玉が現れ子供が出来たので、その子を玉依姫と名付けました。産み育てて十四鈴の時に両親は神上がりました。
 玉依姫はある日、禊をしていると白羽の矢が飛んできて河合の館の軒に刺さりました。すると姫の月経が止まり子を身籠りました。その子が3歳になった時、白羽の矢を指して、「父」と言うと矢は空に飛び上がりました。この噂はたちまち広がり、その矢は「別雷の神」だと噂しました。
 
この伝承にあるように、玉依姫の両親は別雷神(ワケイカヅチノカミ)に祈り、子を授かったので、玉依姫は両親が神上がった後も別雷神を祠に祀っていました。別雷神とは、「田水のために各地に池川を掘り、その土を盛って山を造るというニニキネの大いなる功績を称えて、アマテルがニニキネに授けた名」で、ニニキネのことです。

http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya27.html
タマヨリ姫に白羽の矢
神武天皇の誕生
(前略)
怪しくも、お美しい姫御子(ひめみこ)の元に、諸国の国神からの結婚の申込が殺到しますが、姫は頷かずに、タカノの森に御子共々隠れ家(かくれが)を造り、世間から身を隠して住まわれ、そこにワケイカツチ神の小祠(ほこら)を造り、常に御陰(みかげ)を慕いてお祭りしておりました。
 この噂が、いよいよ君のお耳にも入り、真実を確かめよとの詔が伝えられました。
(中略)
君が親しく姓名(うじな)をお尋ねになると、姫はりんとした声でお答えになり、
 「私の父はタケズミで、母の名はイソヨリと申し、両親が私の名前をタマヨリと名付けました。ハデズミの孫でございます。私のこの子には、父はございません。神に授けられた子です。父がなければ、イミナもできず、人は皆イツモの御子と呼んでおります」
(中略)
君は詔りされ、姫を内局(うちつぼね)として迎え、イツセ御子を養育されることになり、イツモの御子には、ミケイリ御子と名を賜わりました。その後、局の時に産んだ御子の名はイナイイ君ともうします。
 中宮になられてからお生まれになった御子の名こそ、カンヤマト・イワワレヒコの御子となられ、その時アメタネコがタケヒト君と実名(いみな)を捧げました。
(以下略)
 
鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアワセズノミコト)は、八瀬姫(ヤセヒメ)との間に五瀬尊(イツセノミコト)を儲けたのですが、八瀬姫は身罷り御子に与える乳が無いので、御乳姫(おちつも)を求めるお触れを出しました。
 お触れを見た民が、“一枝山(比叡山)の麓にお姫さまが住んでおり、たいそう良い乳が出る”と申し上げると、鵜葺草葺不合命は玉依姫を内侍として迎えて、五瀬尊を養育させました。玉依姫の連れ子(イツモの御子)は御毛入尊(ミケイリノミコト)と名付けられました。

https://www.gejirin.com/src/Ta/tamayorihime.html
タマヨリヒメ
→ 語義

玉依姫。
カモタケズミイソヨリ姫の娘。コモリおよびハテスミの孫。
なかなか子が出来なかった二人が、ワケツチ神に祈って賜った娘。
白羽の矢によりミケイリを生み、日似山麓の出雲路森(高野の森)に隠れ住む。
その後ウガヤ内局になってイナイイを生み、さらにウガヤの内宮になってカンヤマトイハワレヒコを生む。


(以下略)

» 続きはこちらから

神武天皇より前のホツマの神々は「3.0次元の5層」に肉体(狭義)の身体の焦点があった ~神話的元型が存在すると考えられる無意識の層「3.0次元の5層」は実在の世界

竹下雅敏氏からの情報です。
 12月6日の記事で、“西王母の肉体(狭義)の「身体」の焦点の存在界層を詳しく調べたところ、3.0次元の5層”であったことをお伝えしました。
 ホツマツタヱによれば、西王母は豊受大神(東王夫)からヤマノミチノク(神仙の奥義)を授けられ、ニニキネから三千年に一回実がなるという「三千実の桃」を授けられたという事なので、ホツマツタヱに描かれている神武天皇より前のホツマの神々は「3.0次元の5層」に肉体(狭義)の身体の焦点があったことが分かります。
 地球人の肉体(狭義)は3.0次元の5~7層にありますが、肉体(狭義)の身体は7層にあり、5層6層は夢の中、あるいはファンタジーや神話の世界になってしまいます。ユングは「3.0次元の5層」を、“神話的元型が存在すると考えられる無意識の層として「集合的無意識」と定義した”のですが、理にかなった定義だと言えます。
 しかし、その「神話的元型が存在すると考えられる無意識の層」が、私たちが現実として認識している「3.0次元の7層」と変わらない「実在の世界」であることを理解している者はあまり多くありません。地球に来ている宇宙人の多くは、3.0次元の5層6層7層のいずれかから来ているのです。まれに3.1次元、3.2次元から来ている宇宙人もいるようです。
 さて、こうした事柄を理解すると、ブラヴァツキー夫人の「シークレット・ドクトリン」のスタンザの意味が良く分かるようになります。神智学では「根源人種(根幹人類)」という概念があります。第一根幹人類は肉体を持たないアストラル体の存在で、第二根幹人類は肉体を持たないエーテル体の存在だと考えられているのですが、これは間違いで、いずれの根幹人類も肉体(狭義)を持った存在でした。
 第一根幹人類は「3.0次元の5層」に、第二根幹人類は「3.0次元の6層」に肉体(狭義)の「身体」を持つ存在でした。第三根幹人類(レムリア人)以降は私たちと同様に「3.0次元の7層」に肉体(狭義)の「身体」を持っていました。彼らが存在した期間は、次のようです。
 第一根幹人類:約3,986万年前~3,001万年前
 第二根幹人類:約3,001万年前~2,535万年前
 第三根幹人類:約2,535万年前~1,582万年前
第三根幹人類(レムリア人)が男女両性に分離したのは、約1,633万年前です。
 「スミワタルタカキホシノヒメミコ様からの通信文2」で、“今から約4000万年に直立歩行の人類の先祖が、アフリカ大陸、インド、メソポタミヤなどの地域で、ほとんど同時に出現することになりました。”とあったのですが、「シークレット・ドクトリン」では、“わたしたちの住む地球上の七つの異なる場所で、七つの人類のグループが、それぞれ別個に同時に進化した(「シークレット・ドクトリンを読む ヘレナ・P・ブラヴァツキー」p156)”とあります。
 また、「シークレット・ドクトリン」のスタンザⅥ-22には、「第三根幹人類は最初両性具有であったが、後に男性と女性に分離した。」とあり、スタンザⅦ-26には、「汗から生れる者が、卵生者(第三根幹人類)をつくった。卵生者は、二重(両性具有)でつよく、骨があった。」と書かれています。
(竹下雅敏)
————————————————————————
「シークレット・ドクトリンを読む ヘレナ・P・ブラヴァツキー著 東條真人編訳 出帆新社」より要約
第Ⅱ巻 人類発生論

スタンザⅣ 第一根幹人類の創造

15.七度、未来の人間たちの七つの影(チハーヤ)が生まれた。それぞれが固有の色と性質を持っていた。どれも彼の父たちより劣っていた。骨のない父たちは、骨のある存在に生命を与えることはできなかった。彼らが生みだしたものたちは、形体も精神もないブータたちだった。それゆえ、彼らはチハーヤ(像あるいは影)と呼ばれた。

スタンザⅤ 第二根幹人類の創造

19.二番目の人類は蕾と増殖から生まれた。性別のない影たちから生まれた単性の生命形態である。おおラヌー(弟子)よ、第二根幹人類はこのようにして生まれたのだ。

スタンザⅦ 亜神性なる者から最初の人類まで

24の注釈
1.第一根幹人類、つまり≪自ら生まれる者たち≫は、彼らの先祖たちの影たちである。彼らの身体は、あらゆる理解(意識、知性、意志)に欠けている。内的存在(ハイアーセルフ、つまり、モナド)は、地上的な枠組みのなかにあるにもかかわらず、身体とは結びついていない。結びつけるもの、つまり、マナスは、まだ存在しない。
 
2.第一根幹人類から、≪汗から生まれた者たち≫とか≪骨なし≫と呼ばれる第二根幹人類が流出した。支配者たちと転生することになる神々(アスラたちとクマーラたち)によって、最初の弱い火花が第二根幹人類のなかにうえつけられた。……これらから、今度はつぎのものが生まれた。
 
3.第三根幹人類は≪二重(つまり両性具有)≫である。第三根幹人類の最初の亜人種たちは[いわば後に転生してくる者たちの]殻であり、最後の亜人種のなかに大天使(ディヤーニ)たちが転生する。

» 続きはこちらから

「武帝が西王母から蟠桃を授かった」という神話は、西王母が5層から7層に下り、武帝の前に姿を現したという事 ~西王母の肉体(狭義)の「身体」の焦点の存在界層は3.0次元の5層にあった

竹下雅敏氏からの情報です。
 11月29日の記事で、西王母(せいおうぼ)の伝承を考察しました。ホツマツタヱではニシノハハカミとして登場し、三千年に一度熟すという桃は、「三千実(みちみ)の桃」としてニニキネが西王母に授けたものでした。
 ホツマツタヱの記述の多くはリアルであり、史実を記したとしか思えないものばかりなのですが、一部には「ヤマタノオロチ」の伝承のようにどう解釈すれば良いのか頭を悩ますものも有ります。そうしたものの中で、最も理解が困難なのはタイムスケールの大きさです。
 ホツマツタヱを文字通り受け取ると、大濡煮尊、少濡煮尊の婚礼の制定は紀元前300万717年イザナミは子をはらんで96か月(8年)の後に天照神を生んだとされ、天照神の誕生は紀元前1,793,187年です。天照神の寿命は1,732,500歳で、紀元前60,687年に神上がっています。
 こうした数字はあまりにも荒唐無稽 で信じられないのですが、私が何度調べてもこれらの数字は1の位までピッタリこの通りなのです。また天照神を始めとするホツマの神々が、3.0次元の肉体(狭義)に転生していたことも確認しています。
 この難問がようやく解決しました。11月29日の記事で紹介した西王母のイラストはプラズマ体なのですが、このイラストを眺めていた時に、突然、“2009年1月31日の神事のヴィジョンに現れた西王母は肉体(狭義)があった”ことに気付いたのです。西王母の肉体(狭義)の「身体」の焦点の存在界層を詳しく調べたところ、3.0次元の5層の図に示した位置でした。
 地球人は、武帝と同じく3.0次元の7層の図に示した位置に肉体(狭義)の「身体」があります。なので、通常の地球人には3.0次元に転生している西王母のようなホツマの神々は見えないのです。
 「武帝が西王母から蟠桃を授かった」という神話は事実だと思いますが、西王母が5層から7層に下り、武帝の前に姿を現したという事でしょう。これは私たちから見れば霊の物質化現象に見えますが、そうではなく西王母の肉体(狭義)の「身体」の焦点が5層から7層へと移っただけです。
 3.0次元の5層は地球人の集合的無意識がある処で、深い眠りの夢の中で訪れる世界です。訓練を積むと夢の中で目を醒ましていることが可能になり、この世界を見て帰ることが出来るようになります。これを「夢ヨーガ」と言います。「夢ヨーガ」を超える段階が、最も初歩のサマーディ(有尋三昧)です。地球の宗教レベルはものすごく低いです。
 中西征子さんの天界通信61に出てきた「ひとみちゃんとモモちゃん」は、驚いたことに肉体(狭義)でした。彼らの「身体」は3.0次元の6層にありました。二人とも現在は3.3次元の6層にいるようです。3.3次元まで意識が届いていれば、彼らの姿を見ることは可能だと言うことになりますが、進化段階は最低1.8~1.9は要りますね。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
西王母が武帝に桃を贈る 伝説の蟠桃は実在したのか?
引用元)
(前略)
神話の中で出てくる蟠桃ですが、歴史上では中国前漢の第7代皇帝、武帝が西王母から蟠桃を授かったとの記載があります。
(中略)
元封元年4月のある日、武帝が承華殿で大臣と話している時、青の色の衣装の綺麗な娘が目の前に現れ、「私は天宮の天女で、西王母の命令で王様を見に崑崙山から来ました」と言い、武帝にその日から国事は問わず、齋戒に専念するとことを求めました。そして7月7日になると、西王母が自ら承華殿に臨むと告げると、さっと姿が消えました。
(中略)
7月7日その日がやって来ると(中略)… 武帝は誰も大殿の中を覗かないように命じ、華麗な礼服を着て、玉の階段の下で恭しく西王母の到来を待ちました。
 
夜中になると、西王母は九色の龍が引く紫雲仙車に乗って承華殿に降りました。
(中略)… 西王母が仙車から降りてくると随従の仙人たちは姿を消し、50人ぐらいの背丈が高い侍衛の仙人だけが残りました。
(中略)
宴会の途中に、西王母は仕える天女に仙桃を持ってくるよう命じました。しばらくすると天女は玉の皿に7個の桃を持ってきました。桃は淡い青色をしていて、西王母は武帝に4個をあげ、自分は3個食べました。
(以下略)
————————————————————————
【西王母の存在界層】

PDF

訂正)図の一部に誤りがあったため、図及びPDFを差し替えました。 (2021.10.17追記)