ホツマツタヱを素直に読むと、超古代に富士山麓に「富士王朝」があったのは確実!〜 その王朝の血筋はあべぴょんではなく伏見(宮)家など八咫烏が守護する北朝の家系

竹下雅敏氏からの情報です。
 昨日の記事で、「不二阿祖山太神宮」は、“「宮下文書」を根拠として、200~300万年前の富士山麓(富士高天原)に天皇を頂点とする「富士王朝」(古代富士王朝)があったとする世界観を教義としている”ということでした。
 このような世界観は、一般人にはトンデモで完全にナンセンスだと思いますが、ホツマツタヱや神智学の世界観では、十分に整合するものなのです。
 ホツマツタヱには、鈴木暦、天鈴暦が記されており、年代を正確に知ることができます。3月4日の記事では、「日ユ同祖論」の誤りを指摘しました。この中で、ホツマツタヱの年表を紹介しました。この年表は、ところどころに計算間違いがありますが、そのほとんどは正確なものです。年表の冒頭にある紀元前3億年は誤りで、正確には紀元前33,000,717年が鈴木暦の開始です。
 記事の「日本古代史年表」は、イザナギ、イザナミの婚礼から始まっていますが、先の年表によると、これは紀元前1,794,718年のことです。原見山というのは富士山のことで、紀元前1,793,187年に天照神が誕生します。イザナミは子をはらんで96か月(8年)の後に天照神を生んだとされます。天照神が原見山(富士山)の安国宮に遷座したのは、紀元前1,793,100年です。
 「日本古代史年表」の引用元をご覧になると、天照神の寿命は1,732,500歳で、先の年表では紀元前60,687年に神上がっています。約173万歳というのは特別なものではなく、先の年表によれば、天児屋根命は156万歳。積葉八重命は84万歳。また、紀元前5年に、倭姫命は208万歳になる猿田彦命に会ったと書かれています。
 また年表では、大己貴命(奇杵)が出雲に大社を築いていることが発覚し咎められ、国譲りをしたのは大己貴命が5,620歳の時のことであり、紀元前1,555,090年となります。ホツマツタヱには、このような驚くべき情報が正確に記述されているのです。
 多くの研究者は、あまりにも数字が大き過ぎるので、75万年は75年だろうと勝手に解釈して、自分の世界観に合うように辻褄を合わせているのですが、実のところ、文字通り受け止めるべきなのです。というのは、これらの数字は私の直感と完全に合致するからです。何度調べてもこの数字になります。アカシックレコードが正確に読める人なら、同じ結論になると思います。もっとも、アカシックレコードが正確に読めるようになるには、進化段階が4.0以上なければならないかも知れません。
 “続きはこちらから”をご覧になると、“ハラミ山麓が古代から文明の一大拠点だったことは疑いない”と書かれているように、ホツマツタヱを素直に読むと、超古代に富士山麓に「富士王朝」があったのは確実だと言えるのです。
 しかし、その王朝の血筋とあべぴょんは何の関係もありません。現在、この王朝の血筋を受け継いでいるのは、伏見(宮)家など、八咫烏が守護している北朝の家系です。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
神武天皇東征の真実
引用元)
(前略)


(以下略)
————————————————————————
日本古代史年表
引用元)
●二神の婚礼 仲人 事解之男命(ことさかのを) (2-8)
 高仁尊、伊佐子。西南の筑波の伊佐宮で婚礼が行われる。
 伊奘諾尊、伊奘冉尊となる。
 伊奘諾尊(40歳) 伊奘冉尊(31歳)

●筑波山の伊佐宮で昼子姫の誕生
 伊奘諾尊(40歳) 伊奘冉尊(31歳) 昼子姫(1歳)
 伊奘諾尊(42歳) 伊奘冉尊(33歳) 昼子姫(3歳) (3-4)
 ・天の節に当たり、葦船に乗せて流す。(3-5)

●淡路(近江)の八尋殿でヒヨル子、流産する。

天の原見山(富士山)の原宮で天照神の誕生。 96ケ月(8年)後に。 (3-9)

●伊奘諾尊、伊奘冉尊の足跡
 ①日高見
 ②筑紫
 ③葦原淡国(全国国作り)
 ④原見山

●筑紫、月隅(九州)で月読尊の誕生。(3-10)

●熊野宮(素戔:ソサ)で素戔鳴尊の誕生。(3-11)

●熊野(伊奘冉尊の神上がり)(5-6)

天照神、原見山(富士山)の宮へ遷宮。(6-1)

●十二后制定(6-2)
 ②日高見仙台宮
 ・忍穂耳尊は豊受神より天の道の奥義を学ぶ。30年間。
 後に、この宮は忍穂耳尊が天照神より譲り受ける。(28-)
 ③大山本日高見安国宮(富士山)(6-2)

(以下略)
————————————————————————
天照神の年表(『完訳 秀真伝』の巻末資料、『 注釈 上紀(うえつふみ) 』より)
引用元)
(前略)



(以下略)

————————————————————————
ハラミノミヤ
語義

孕みの宮。蓬莱身の宮。 
ハラ宮サカオリ宮
ハラミとは、(1)二尊がアマテルを孕んだ山。(2)=蓬、=莱、=身 の千代三草が生える山。

イサナキ・ミは八島生みの後、タガ宮に遷るまでここで政を執る。
アマテルはこの宮で生まれ16歳までいた。 
アマテルはその後、ヒタカミトヨケの下でアメナル道を学ぶが、後にこの地に戻り『ヤスクニ宮 (=ト下宮)』に新築し即位する。イセの『イワサ宮』に移るまではここが都であった。
ニニキネはここに『ハラアサマ宮』を建造し遷都する。それをムメヒト(ホノアカリ) が受け継ぐ (ムメ大宮)。

宮の所在は少しずつ違うのかもしれないが、ハラミ山麓が古代から文明の一大拠点だったことは疑いない。
サカオリ宮 (イサナキ・ミ) → ヤスクニ宮 (アマテル) → ハラアサマ宮 (ニニキネ) → ムメ大宮 (ムメヒト)。
  
■富士市の海岸部に『原・蒲原・吉原・厚原・原田・柏原』など「原」の付く地名が多く残る所から、ハラミの宮は現在の富士市の海岸部にあったと推測している。

(以下略)
————————————————————————
おおやまとひたかみのやすくにのみや  オオヤマトヒタカミノヤスクニノミヤ ooyamatohitakaminoyasukuninomiya
【太山下日高みの和国の宮】
太山(富士山)麓にあり、日が巡り恵んで和す国の都。

『ひのやまのなも おおやまそ かれおおやまと ひたかみの やすくにのみやホ6

(以下略)

Comments are closed.