翻訳チームからの情報です。
注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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金塊の歴史年表
転載元より抜粋翻訳)
Kグループ 15/12/22付け
6.00 CIAが、とある政権と口座管財人M1を転覆させる
アメリカ政府とCIAの援助、さらにオーストラリアとイギリス当局の密接な支援もあり、1965年10月1日スハルト将軍下のインドネシアで軍事クーデターがセッティングされた(記事:「CIAによる他国政府転覆の仕方」)。結果として、大半の推計によると、スカルノの支持者や労働者や農民、学生、政治活動家や華僑の人々が最大100万人は虐殺され、何万人もの無抵抗の人々が投獄されたり強制収容所送りになったという。

当時スカルノは徐々に自宅軟禁状態に追い込まれ、(大統領宮殿のある)ボゴール市からジャカルタ市への移動だけが許されていた。スハルト将軍はスカルノ大統領を支持していた他の将軍たちへ接近していき、彼らが拒絶できないような申し出をしてみせた。
スカルノの娘、メガワティ・スカルノプトゥリがインドネシアのTVで語ったところによると、謀反革命が起こった際には父親の支援者たちが父の側に付くと思い込んでいたが、将軍たちは父親に対してもその家族に対しても何ら手を差し伸べなかったのだそうだ。スハルトのこの一手は、スカルノの自宅軟禁への反対論を完全に封じ込んだ。
1967年1月には、軍隊におけるスカルノへの主立った支持は全て取り払われた。1968年3月27日、スハルト将軍がインドネシアの大統領となる。彼は人民によって選ばれた訣ではない。彼が自ら選んでおいた議会によって選出され、任期5年の大統領の第一期目を務めることとなったのだ。
諜報機関(CIA)によって画策されたこの1965年のクーデターは、共に手を携え連邦準備銀行ならびにCIAを壊滅させるという、ケネディとスカルノの合意のせいだった。これは紛れもない報復行為だ。彼らはそれを謀反的革命だと言ってのけ、共産主義国を非難したが、実のところは西側が引き起こした革命であり、こんなことは“超大国"とやらのお言葉に従わなければ、世界のどこでだってしょっちゅう起こっている。
1965年後半から1966年前半にかけ、軍隊とイスラム集団が一丸となって日々最低でも1500人のスカルノ支持者を銃殺か斬殺か撲殺して行き、さらに時にはその首を棒に突き刺してはパレードしていた様子を、アメリカやオーストラリアの高官はそれぞれ自分たちの政府に肯定的に報告(プロパガンダ)していたことが文書に記されている。
この大量殺戮に対する欧米の大使館の熱狂ぶりは、戦略的および政治的な利害を深く反映したものだった。
クーデター以前の10年間、世界の主要国々はスカルノ大統領率いる不安定かつ国粋主義のインドネシア政権と日増しに軋轢を生じるようになっていた。1957年後半やさらに1964~65年になると、スカルノは労働者や農民の大衆運動をかろうじて抑え込むのがやっとだった。このようなストライキや立て篭もりは、まずはオランダの、そしてやがてアメリカやイギリスの諸銀行・企業・プランテーションを脅かしていった。
スカルノは自宅軟禁下の1970年6月に亡くなっている。

西側諸国と米国株式会社の復讐は思惑通りの、悪意に満ちたもので、全国土を席捲し、その爪痕は未だにインドネシアに残されている。今日もアメリカの巨大企業がインドネシアの天然資源を掠奪しているのだ。
6.02 1965年CIA職員でオバマの継父ロロ・“ソエトロ"の関与
ビジネス・インターナショナル会社というCIAの隠れ蓑で、世界のリーダー陣によるセミナーを開催し、ジャーナリストを海外での諜報員として使うという1983年のオバマ大統領自身の仕事は、彼の母親スタンリー・アン・ダンハムが行っていたCIAのスパイ活動とぴたりと符合する(記事:「CIAが作り出したオバマという男」)。それは1960年代のクーデター後のインドネシアで、ハワイ大学にあるイースト・ウェスト・センターや米国国際開発庁やフォード財団といったCIAの数々の出先機関の意向を受けて行われていた活動の一環だった。

ハワイのイースト・ウェスト・センターでアン・ダンハムはロロ・ソエトロ(オバマの継父)に出会い、結婚した。1965年、ロロ・ソエトロは、スハルト将軍によってハワイから呼び戻される。インドネシア軍の上級陸軍将校となり、スカルノ大統領を転覆させるためにCIAが支援する血なまぐさい虐殺を開始するのを手助けするためだ。
スハルトが自らの権力を揺るぎないものとした1966年という年は、バラク・オバマの実の父親であるオバマ・シニアが友人のンボヤと共にCIAによるガーナのクワメ・エンクルマ転覆に対するアメリカ寄りのアフリカ諸国の支援を取り付けるのを手助けしていた年でもある。クワメ・エンクルマはスカルノ同様、非同盟運動を立ち上げた「発起五人組」の一人だった。
6.03 1966年、欧米はマルコス大統領を“M1"に“任命"する
1966年、フィリピンのマルコス大統領は欧米から違法な手続きでM1に“任命"され、その地位を1986年まで占めた。これで【世界発展のために資金を使用するというブレトンウッズ】体制は第二次世界大戦以来、口座を作り支配してきた三国つまりアメリカとイギリスとフランスの手に戻され、確立された筈の体制が組織ぐるみで、かつ法を無視した形で蝕まれていった。彼らは1995年にも第二回ブレトン・ウッズ協定を踏みにじっている。

6.04 1966年、預金者と担保口座群に対する支配体制の確立
【中略】本来、所有権に関しては民間銀行の預託口座に署名した人々が、管理権限に関してはM1が握っている。そして実際に「選ばれた」M1はたった一人であり、それがスカルノ大統領だった。
【しかし5.04~6.03の政権転覆工作などにより】全世界の金塊や金貨の供給が引き揚げられ、連邦準備不換通貨が出回るのが通常となってしまった。【中略】
6.05 グリーンヒルトン合意:ケネディ債券
グリーンヒルトン合意は、スハルトがインドネシア大統領に就任するまで施行されなかった。
スカルノの金塊がケネディ側に渡されたことで、連邦準備制度はケネディ債券として知られることになる1968年米国財務省債券を発行した。【中略】
【ちなみに】1968年の金塊の米国への引き渡しは、1934年時のそれとは条件を異にしている。
6.06 合意を尊重する義務
それから30年が経過したが、利息は約束通り支払われなかった。金塊の所有者であるドラゴン・ファミリーは、その代わりに額面を増額して再発行した記念の債券を渡された。
【中略】グリーンヒルトン・メモリアル合意においては、資金の額と金塊およびプラチナの量は特定されている。また、その点について正確なIDコードや認証コードがふられた証明書と元帳の写しが存在している。さらには、これらの証書は銀行書類によって証明することが可能で、今はその写しをニール・キーナンが所有している。【中略】
【しかし】預金者たちは70年以上もの間、意図的な詐欺によって当該合意で取り決めた義務を履行されていない。
我々は亡きスカルノ大統領の書類と記録、国際口座群のコードと元帳の全てを入手した。1961年から最終署名の1972年の間に創設され、構築され、機能するようになったガルーダ・メモリアル・ヒルトン・インドネシアとグリーン・メモリアル・ヒルトン・ジュネーヴァ相互の総意を確認することで、これら口座の全体の量は把握可能である。【中略】
①何百万トンにも上る黄金とプラチナの預託
②アメリカのドルに換算して何千兆ドルにも上る1934年発行の連邦準備債券、1928年発行の連邦準備券、ケネディ債券
全てのドラゴン債券はグリーンヒルトン・メモリアル合意文書によって記録され、認められている。
以上の全財産は、アメリカ合衆国政府を経由して連邦準備制度という民間の一企業の国際口座群へと託されたのだった。
【上の記載に混在していた内容:】
当該合意によって「国際担保口座群」としてまとめられた【上記の】資産は、ほどなくして銀行の運用制度を書き換えるために悪用されてしまった。銀行はお粗末なカジノ操業者と成り果て、自分たちが所有していないものを取引し、売るようになった。
6.07 適切な手続きが許されない事態
正規の引き出し手続きとは、以下のようなものだ。登録されている所有者が連邦準備制度で債券を換金しようとする場合、まずは1つの大掛かりな主要プロジェクトか複数のプロジェクトのリストを提出しなければならない。プロジェクトが承認され、債券が本物として認められたとしても、連邦準備制度から銀行に振り込まれるのは額面の三割からよくて八割方まで。限度額が事前に設定されているのだ。次に連邦準備制度は所有者に免責特権を付与し、指定された銀行へ債券を持参しても逮捕されないようにしてくださるという按配だ。
この【連邦準備制度の定めた複雑な】方法以外で、債券を換金しようと【どこかの銀行へ】提示しに行けば、独擅で真正を否定され、違法な所有者として投獄されることになっている。この工程を実現するために、連邦準備債券はあたかも公的な機関が作成していなかったかのような外観を帯びるよう印刷されており、不完全に仕上がっているため、【本物が提示されても】無効を言い立て易いのだった。
翻訳者:Yutika
※【 】内の文字は、訳者が付け加えたものです。
読み易さを重視しましたので、正確な情報は元記事をお確かめください。
実は訳者の私、中学校時代をインドネシアのスラバヤ(二番目に大きい都市)で過ごしまして、「日本人は華僑と間違えられ易いから有事の際には気をつけなさい、中国人はスハルトのクーデターの時に沢山殺されて、あの大きな川(多分スラバヤの「マス川」)が彼らの血で赤く染まったんだよ」という話を当時よく耳にしました。別にスカルノ支持云々じゃなくて、「華僑=お金持ち」「現地の人=使用人階級」という図式が東南アジアでは形成されることが多く、どさくさ紛れに次々襲撃されたとのことでした。子供相手に誇張していたのかと思いきや…今回の記事を読むと全然そーでもなさそー過ぎてコワイっす。
また、欧米が勝手に選んだ「偽M1(口座管財人)」が誰だったのかもやっとこさっとこ判明します!以前の金塊史では偽者が誰か明らかにされていなかったのですが、真相を知ると、「だからこそ彼はあそこまで栄華を極められて、調子に乗っちゃって、最後は西側に潰されたのか~」とナットク出来ました(詳しい経緯は金塊史シリーズ第二回目にて)。
そして記事最後、正当な所有者が口座を動かせない点については、投獄の危険もさることながら、シリーズ第一回目などでもご説明しました通り、正確には皆さん殺されてます。偽M1なんかは、その前に拷問も実施してて…あれ?そこら辺詳しかった二回目の元記事の1つ新しい明日さんも消されてる…嗚呼”はっぴぃ・はろうぃん”ですがなっヽ(ll゜д゜)ノ