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音楽の街プラハ
プラハの駅を降りて、目に飛び込んだのが、
駅の待合場に佇む、一台のアップライトのピアノ。
プラハが音楽の街であることがわかります。
チェコの作曲家、スメタナが作曲した、
チェコの国民の心の音楽、
「我が祖国」6曲の連作交響詩
5月12日は、スメタナの命日です。
プラハの春音楽祭は、スメタナの命日からはじまり、
スメタナの「我が祖国」が演奏されます。
スメタナはどのように自分の国を想ったのだろう・・と、
この曲を聴きながら想いを馳せます。
なぜなら、私も、自分の国を想わない日は、
一日たりともないからです。
ハープで奏でる美しい旋律が、心に響き渡り、
まるで祈りのような出だし部分です。
マエストロも祈るように指揮をしています。
スメタナは、聴覚を失いつつも、この曲を作曲したのです。
小林研一郎指揮、スメタナ連作交響詩 我が祖国
ウィジェフラド(高い城)より
チェコ・フィルハーモニー
『我が祖国』(わがそこく、チェコ語: Má Vlast)は、ベドルジフ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩。第2曲『ヴルタヴァ(モルダウ)』が特に著名である。
ベドルジハ・スメタナ(またはベドジフ・スメタナ ベトルジヒ・スメタナ、チェコ語: Bedřich Smetana [ˈbɛdr̝ɪx ˈsmɛtana] 発音[ヘルプ/ファイル]、1824年3月2日 - 1884年5月12日)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。ドイツ語名のフリードリヒ・スメタナ (Friedrich Smetana)でも知られる。
プラハの歴史
ドブリデン、チェコ語でこんにちは。
独自の言語というのは、国民の心の言葉ですが、
チェコという国は、宗教問題に翻弄され、
チョコ語の禁止、文化弾圧もあったと言われています。
2世紀以上に渡り、暗黒時代を経てきたとも言われています。
しかし、かつて、カール4世時代は、
プラハは、神聖ローマ帝国の首都であり、
中欧初の大学、カレル大学、カレル橋も建設されて、
黄金のプラハ時代を経験します。
その後、宗教改革で、カレル大学の総長である、ヤン・フスが
ローマ教皇庁への抗議を行い、
ヤン・フス(Jan Hus[1], 1369年頃[2] - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。
1415年のコンスタンツ公会議でフスが火刑となり、
フス派によって、フス戦争がはじまり、
一旦は、十字軍を破りますが、
その後、ハプスブルグ家が ボヘミア王になり、
フス派が支配下に入り、
プラハは、欧州の中心都市となり、
文化や芸術が、錬金術なども発展していきます。
その後また、宗教対立、プロテスタント対カトリックで、
皇帝のカトリック優勢で、スウェーデン軍がプラハを包囲して
プラハ王宮に突入、国王の美術品などが、
クリスティーナ女王の下へ持ち去られます。
(やっぱり、奪っているのね・・)
その後、王宮は、ウィーンに移転して、プラハは人口が減っていくのです。
資本主義の高度成長にも巻き込まれなかったので、
プラハは、中世の建築が残っていて、世界遺産にもなっているのです。
その後の、民主化運動は、音楽祭に合わせて、プラハの春とよばれました。
チェコを愛する作曲家スメタナ(1824−1884)も
カレル大学の総長、ヤン・フスの想いを汲み取って、
詩情豊かに、『我が祖国』の曲の中で想いを表現したのかもしれません・・。
ウィキペディア ヤン・フスより
真実は勝つ
フスは処刑される直前に、もし異端であることを認めれば命は助けるという要請を拒否し、処刑されたが、彼の最期の言葉は「真実は勝つ(チェコ語: Pravda vítězí)」だったとチェコ人の間に伝わり、外国支配の続いたチェコ人のよりどころとなり、1920年にチェコスロバキアが独立すると国の標語となった。プラハ城に国章に「真実は勝つ」とのモットーがついた旗が掲揚された。
1967年のプラハの春ではこの旗は剥ぎ取られたが、『憲章77』では「真実に生きる者のために真実は勝つ」という標語があり、1989年のビロード革命ではヴァーツラフ・ハヴェルは「愛は憎しみを、真実は虚偽を征服しなければならない」というスローガンを唱えた。以降は、1992年までラテン語の「Veritas vincit」が標語となった。チェコとスロバキアに分離(ビロード離婚)するとチェコ語のものが国の標語となり大統領府の旗に使用されている。
フスは処刑される直前に、もし異端であることを認めれば命は助けるという要請を拒否し、処刑されたが、彼の最期の言葉は「真実は勝つ(チェコ語: Pravda vítězí)」だったとチェコ人の間に伝わり、外国支配の続いたチェコ人のよりどころとなり、1920年にチェコスロバキアが独立すると国の標語となった。プラハ城に国章に「真実は勝つ」とのモットーがついた旗が掲揚された。
1967年のプラハの春ではこの旗は剥ぎ取られたが、『憲章77』では「真実に生きる者のために真実は勝つ」という標語があり、1989年のビロード革命ではヴァーツラフ・ハヴェルは「愛は憎しみを、真実は虚偽を征服しなければならない」というスローガンを唱えた。以降は、1992年までラテン語の「Veritas vincit」が標語となった。チェコとスロバキアに分離(ビロード離婚)するとチェコ語のものが国の標語となり大統領府の旗に使用されている。
プラハの街に、黒い聖母の家というのがありましたので、
黒い聖母とは?という疑問が湧き、
そういえば、竹下先生の宗教講座にあったことを思い出して
早速、宗教学156回 新約聖書(黒い聖母)の講義で学びました。
カトリックとプロテスタント、キリスト教とは?などが
はっきりと理解できます。
ダビンチコードまでつながっているという素晴らしい講義でした。
チェコの国が歴史の中で、翻弄されてきたこと、その意味など
竹下先生の講義でよりよく理解できました。
プラハでの生活
プラハの通貨は、コルナ。
ハンガリーのブタペストと比較してみると、
やはり、チェコは工業が盛んということで、
プラハの街の中も機能的で利便性がよく、トラムも縦横に走り、
地下鉄の駅なども近代的でした。
若者のクラブなども盛んだそうです。
街中のカフェでのインターネットも高速ワイファイです。
工業が進んでいるというのは、チェコの車
スコダが人気であることからもわかります。
チェコの食べ物では、チェコビールが人気です。
チェコの人気な肉料理といえば、
スヴィチュコヴァーという、牛肉、ソース、クネードリキという
チェコの主食、ふわふわパンが添えられたものです。
チェコのグヤーシュは、ハンガリーとは少し
違うのだな・・というのも興味深かったです。
チェコの人気なお菓子、トウルデルニークを
観光客は、食べあるきしていました。
欧州どこでも人気ですが、プラハの
アプフェルシュトーデルも美味でした。
面白ミニミニ知識
・・・フォークがケーキに突き刺さっているのは、
ドイツでも同じで、ドイツ語圏あたり定番です・・
フォークを落とさないためらしく・・。
モルダウの風景
プラハといえば、ドイツ語名モルダウ川
チェコ語で、ヴルタヴァ川の景色が有名です。
カレル橋は、観光客でいつも混雑していますので、
ちょっと時間をずらして、人が少ない時に
ゆっくりとモルダウ川の流れを満喫したいものです。
あ、プラハのお店では、カナビスクッキー(大麻クッキー)、
カナビスチョコレートが売っていました。
合法なのですね・・。
私たち日本人は、資本主義の世界に巻き込まれて
翻弄されていますが、
資本主義に巻き込まれなかった国には、いまだに良きものが
残されているのかもしれない・・・と
つくづく感じたチェコ・プラハの旅でした。
モルダウの風景は、以下の音楽を聴きながら
ご堪能いただくと、嬉しい限りです。
スメタナの「我が祖国」の2曲目、モルダウ
カラヤン指揮、ベルリンフィルでお楽しみください。
チェコ・プラハへの旅です。
2018年、つい先日の春の旅からお届けしたいと思います。