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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 特殊稿3 ― 聖婚儀礼(1)
最初の文明メソポタミア文明 ~「死と再生の儀礼」である「聖婚儀礼」
私たち現人類の文明は、四大文明のメソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明から開始されたとされています。この四大文明で僅かに早く、最初にスタートしたのがメソポタミア文明で、都市が形成されたのが紀元前4000年期とされます。この文明とその宗教の影響はその後の人類の歴史に対して甚大だったのです。
pixabay [CC0]
ウィキペディアで「メソポタミアの神話」の記事の中に「メソポタミアの宗教は後の宗教に多大な影響を与えていると考えられている。その影響はカナン人、アラム人、古代ギリシア人、フェニキア人の宗教、さらにユダヤ教、キリスト教、マンダ教、イスラム教などの一神教にも及んでいる。」とある通りです。
メソポタミアの宗教の何がそれほどの大きな影響を後に与えたのか?
色々ありますが、その一つは、ユダヤ教やキリスト教への絶大と言っていいほどの影響を与えた「ノアの方舟」でしょう。「ノアの方舟」は『旧約聖書』のオリジナルではありません。古代メソポタミアの神話である「ギルガメッシュ叙事詩」から来ていて、起源はこちらなのです。メソポタミアの古代の伝承を『旧約聖書』が取り入れたのです。
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— Pan Dora (@Pansbx) 2017年2月17日
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Ölümsüzlüğü arayan, yarı tanrı yarı insan, Kral #Gılgamış'ın hüzünlü hikâyesini okumak gerek.
- pic.twitter.com/sG8jxeI9Dw
編集者註:ギルガメッシュ叙事詩の場面。(左上)暴君としてのギルガメッシュ。(左下)切り倒した杉を持ち帰るギルガメッシュ。(右)若返りの海草を見つけるために海に潜るギルガメッシュ(大洪水伝説)、だと思われます。
しかし、影響の意味では「ノアの方舟」以上に全ての宗教だけではなく、人類全体に、そして現在にも直結している影響を秘かに与えたのが、現文明上では最初にメソポタミアで行われていた「聖婚儀礼」だと思えるのです。
「聖婚儀礼」とは、ウィキペディアで「聖婚は、象徴的な意味を持つ古代の儀式であり、一般的に春に行われる。これは冬が生命活動に乏しく死を象徴するため、春はそれからの蘇りと考えられたことによるもので、死と再生の儀式の一環である。」とあるように、「聖婚儀礼」は 「死と再生の儀礼」の一環であり、実はこれがクリスマスとイースター(復活祭)の起源になってもいます。
太陽活動が冬至に最低下(死)し、その太陽が月の働きによって春に再生復活する。この復活祭と「聖婚儀礼」が重なるわけです。
12月25日は、元をずっと辿ると古代メソポタミアで建設されたバビロンの大安息日で、バビロンで太陽神になぞらえられたある人物の誕生日とされています。イースターも太陽神を復活させた月神になぞらえられたある人物の名前がその由来です。クリスマスとイースター、これらはそれぞれがイエス・キリストの誕生と復活を祝う祭典などではなく、むしろキリスト教にとっての異教の祭典「死と再生の儀礼」なのであってメソポタミアがその起源なのです。
聖婚儀礼と神殿娼婦の制度は一体 ~愛と真逆の性エネルギーの方向性である聖婚
「聖婚」は「ヒエロス・ガモス」ともいい、ウィキペディアで冒頭次のように記されています。
「「聖なる結婚」を意味するギリシア語由来の言葉で、神婚、聖婚、聖体婚姻ともいう。 聖婚は神話や儀礼などにみられる男女二神の交合や神と人の婚姻のモチーフである。創世神話において世界の創造をもたらした天の神と地母神の交わり、豊穣をもたらす男神と女神または神と人の結婚を模倣した祭儀。」
「聖婚儀礼」を理解する上で重要な要素の一つが、〈聖婚儀礼が王権を確立させる〉点です。ブログ「世に倦む日々」にある次の一文は示唆に富んでいます。
「聖婚とは王が神と契ることだ。神の霊を感染した聖娼と王が契ることで、王は神の霊エネルギーを身体に帯び、地上における神の代理者として地上を統治する。天空の支配者である神と地上の支配者である王は、聖娼の身体を媒介して繋がり、王は神霊能力を分与される。聖婚によって即位が根拠づけられる。古代メソポタミアではジッグラトの上の神殿で聖婚の儀式がとり行われた。」
太陽と月の結婚(1578年)
Wikimedia Commons [Public Domain]
この文には〈聖婚が王権を確立させる〉重要点と、もう一つの重要な要素が記されています。
王が契る(性交渉)相手は「神の霊を感染した聖娼」であり、「聖婚」がなされるその場所は「神殿」であるということです。要は〈聖婚儀礼と神殿娼婦は一体〉なのです。
(こう見ると女祭司である神殿娼婦が王を生みだす「聖杯」であったことに気づきます。メシア(キリスト)つまり「塗油を受けたもの」の起源がここにあるのですが、これは次回にでも見ていくこととします。)
女祭司と王の性交渉、これが言葉の上では「聖婚」「聖なる結婚」になるのですが、実際にやっていることは「神殿での売春」に他なりません。「聖婚儀礼」の目的とは、女祭司にはその支配者としての高い地位を保全し、生活を保障させるためです。王にとっては「お楽しみ」を含みますが、王権の確保です。
つまり「聖婚儀礼」で支配権と所有権、権力を得るのです。明瞭です。宗教行為として崇められ神聖とされる性行為が、「野心」を満足させるための利用物となっているのです。「聖婚」は愛の方向とは真逆だったのです。
“野心”を満足させるための「聖婚」は“愛”の方向とは真逆
性的狂宴を伴う「聖婚儀礼」 ~悪魔崇拝儀式との関連
「聖婚儀礼」つまり「神殿娼婦(売春)」の形態はエジプト、インド、中国・・・世界中に広がっていることを確認出来ます。日本にもそれが残ってきてそのままあります。
歴史家ヘロドトスが指摘するように、バビロンではこの「聖婚儀礼」と一体である「神殿売春」が国家事業だったようです。これは新春における国家をあげての祭典でもありますから、一般国民もこの祭典に参加します。どんな光景が広がっていたか? 聖娼と言葉ではされていますが実態は娼婦です。それも国家から義務づけられた娼婦なのです。想像はつくでしょう。性乱交劇が繰り広げられていたであろうその光景が・・・。
Good morning World...
— Elijah J. Magnier (@ejmalrai) 2015年4月23日
The ziggurat at the ancient city of Ur located in the Thi Qar province, southern Iraq. pic.twitter.com/MbgOChJERT
The Great #Ziggurat of Ur - https://t.co/haeU9Y5Rv6 pic.twitter.com/yF0CYem8kN
— Ancient Origins (@ancientorigins) 2017年8月13日
編集者註:シュメールの都市国家ウルのジッグラト(聖塔)。最上部の月神ナンナ(男神)を祀る神殿には、寝所が設けられ、神殿娼婦が占拠していたようです。
性的狂宴は悪魔崇拝儀式の特徴でもあります。ただし、乱交の性的狂宴だけでは悪魔崇拝の儀式とはなりません。しかし、ここに幼児生け贄とそれに伴う性暴行や飲血、人肉食が加うるとこれは紛れもなく悪魔崇拝とその儀式になります。そして事実それは行われていました。
それが始まった中心地はバビロンですが、そこに留まりません。中東全域にエジプト、インド全世界に悪魔儀式をも伴う「聖婚儀礼」は広まっていました。そして、その儀礼は現在までそのまま直結しているのです。
「聖婚儀礼」は「地の恵み」、豊穣を祈念する儀礼でもあります。収穫された初穂は「恵みをもたらしてくれた神」に捧げられます。これ自体は何の問題も無く、米麦の初穂を神に捧げるのは日本でも行われており、美しい習慣でもありましょう。しかしその初穂が人間の初子であったならば・・・。
Firstborn(初子、長子)で検索下さると、その最初に出てくる記事の中に次の下りがあります。
「最古の時代から、神のもうけた初子はサケルsacer、すなわち特別な運命のために最初に選び抜かれた者たちと考えられた。この時代には、あらゆる種類の初物の果実が、それらを与えてくれたと思われる神に捧げられた。初めに生まれた息子は神の姿を写し、神になり、神に捧げられた。厳しい旱魃のときに、神々をなだめるために、エジプトで大量に初子が生贄にされたことが、ユダヤ人の律法学者によって旧約聖書に記録されていた。」
自分の子をモレク神に捧げるイスラエルの民
Wikimedia Commons [Public Domain]
神に捧げるために「エジプトで大量に初子が生贄にされた」とありますが、これは初子を神?に捧げる儀礼がエジプトに伝わったのであり、その原型はメソポタミアにあるのです。古代メソポタミアの神?が初子を生け贄として捧げることを欲求したのです。
その欲求はその神に仕える女祭司に伝えられます。これが「神の霊を感染した聖娼」の意味でもあり、「神の霊を感染した聖娼と王が契る」ことで王は民に初子を捧げさせて地上を統治するのです。
それでは「神の霊を感染した聖娼」女祭司はどの神に仕えているのか? 「神聖娼婦」等で検索すればすぐに「イシュタルの神殿」と出てきます。イシュタルが「聖婚」を司る原型となった女神?です。そしてイシュタルがイースターの名前の由来なのです。
メソポタミア神話に登場するイシュタル
Wikimedia Commons [Public Domain]
これが愛に育つか、野心になるか、そのどちらかなのです。
実は、この種は性欲です。
この単なる性欲を愛に昇華することができるのです。
夫婦の愛というのは、調和した性生活でしか育ちません。
セックス自体を根本的に悪・罪と否定していたら、育ちようが無く、
全て野心になってしまいます。
それは名誉欲や支配欲に化けてしまうのです。
『ぴ・よ・こ・と2』のこの一文がやはり全てだろうと思えます。
性欲とは、性エネルギーで生命エネルギーに他なりません。性エネルギーと宗教は実は切り離せないのですが、不幸なことに、現在まで人類は誤った性エネルギーの取り扱い方しか教えられてきませんでした。
一つは、性エネルギー・生命エネルギーである性欲を始めから悪・罪と否定する姿勢です。これは仏教やキリスト教、そしてヒンドゥー教のある程度の勢力がそうで、こちらは顕教になります。
そしてもう一つがこれは秘教になるのですが、性を利用対象にするが故に、それを非常に不浄で醜悪にしてしまう扱いです。
エネルギー自体には善悪も美醜もありません。しかしどんなエネルギーでもそうですが、その取り扱い方次第では、それは幸福をもたらすもの、逆に不幸をもたらすもの、どちらにでも化けます。
性エネルギーも同様です。慎重に大切に扱い育てれば、それは崇高で極めて美しくもなり、逆に誤った扱いは、性エネルギーを極めて穢れた醜悪なものにもさせます。残念ながら私たちの文明は、その最初から性の扱いを間違えたようです。
今回は近・現代編の枠からは全く外れているので(しかし現在に直結もしていますが)、特殊稿として誤りの起源を追ってみます。