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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝30 ― ミニットマンたちの戦闘
アメリカ植民地側を指揮指導したフリーメーソン ~最高司令官にワシントンが着任
1745年の反乱が鎮圧されて英国内での勢力を失ったジャコバイト派、つまり、シンクレア家が深く関わる悪魔崇拝でないポジティブなテンプル騎士団の流れのフリーメーソンたち、彼らが仲間と英国からアメリカに移住していくのは自然でしょう。もともと14世紀の末からアメリカに最初に移植を開始したのはシンクレア家の一団だったのですから。
北アメリカのスコットランドの植民地
Author:Cene Ketcham [CC-BY-SA]
またシンクレア家の本拠はスコットランドで、シンクレア家がスコットランドの代々フリーメーソンのグランドマスターだったのですが、ウィキペディアの「スコットランドによるアメリカ大陸の植民地化」の記事を読めば、アメリカには、スコットランドからの多くの移住があったことが分かります。彼らポジティブなテンプル騎士団の流れのフリーメーソンたちが、アメリカでの指導層の主流にいたのです。
フリーメーソンがアメリカを指導したことは、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン(1732―99)がフリーメーソンのメンバーだったことから見て取れます。またその後のアメリカ代々の大統領は、ほとんどがフリーメーソンです。
On August 4th, President George Washington became a Master Mason. Read more about Brother Washington and more #Masonichistory here: https://t.co/1bTfPj7Nxt pic.twitter.com/zS1seQGHUa
— ScottishRiteNMJ (@ScottishRiteNMJ) 2018年9月29日
フリーメーソンの正装をしたジョージ・ワシントン
そのフリーメーソンも、建国当時からしばらくはポジティブなテンプル騎士団の流れのフリーメーソンだったわけです。彼らが革命戦争でイギリス東インド会社のイギリス側と戦ったのです。
革命戦争の引き金となった「ボストン茶会事件」には、ボストンに設立された「聖アンデレ・ロッジ」が大きく関わっている様子を『テンプル騎士団とフリーメーソン』の411~416頁に描かれています。同書によると、「聖アンデレ・ロッジ」はスコットランドのグランド・ロッジの認証を受けています。つまり、ポジティブなテンプル騎士団の流れのフリーメーソングループに属すると見なせます。
I love beautiful Lodge buildings. This is the Lodge of St. Andrew 4683 in Hull, UK#freemasonry #masonic I wanna visit! pic.twitter.com/PDV9CmmJ
— A Brother Mason (@ABrotherMason) 2012年6月5日
聖アンデレ・ロッジのホールの様子
更に同書の419頁には、対イギリス側への全面的な軍事蜂起が許可された1775年5月の第2回大陸会議の議長が、「聖アンデレ・ロッジ」所属のジョン・ハンコックと記しています。この第2回大陸会議でジョージ・ワシントンがアメリカ植民地側の最高司令官に任命されています。
イギリス東インド会社は、黒い貴族のレバント会社とテンプル騎士団のドレーク海賊団が合流して立ち上がっています。ポジティブなテンプル騎士団から転じたアメリカのフリーメーソントップたちは、イギリス東インド会社の所有者とそのやり口は熟知していたでしょう。彼らは十字軍遠征からの関わりで、共に地中海を収め、貿易を取り仕切り、国際金融業を行っていたのですから。
これは想像に過ぎませんが、アメリカフリーメーソントップたちは、イギリス東インド会社のインドや清国などの蹂躙の事実を踏まえ、このまま座して力を見せなければ自分たちも蹂躙されるとして、対決する腹を固めて、ボストン茶会事件に踏み切ったように思えるのです。
アメリカ植民地側の軍隊は民兵組織 ~アメリカ革命戦争の状況
アメリカ植民地側の軍隊は常備軍ではありませんでした。普段は他の仕事に従事していて、いざ戦闘となると緊急招集される民兵組織でした。彼らはミニットマンと呼ばれていました。
Wikimedia Commons [Public Domain]
ミニットマンについては、『世界史の窓』の「アメリカ独立戦争」記事の中に「開戦」として次のようにあります。
「1775年4月、イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとしてマサチューセッツのコンコードに部隊を派遣した。警戒していた植民地人は、イギリス軍がレキシントンの町にさしかかったときに一斉に銃撃、さらにボストンに撤退するイギリス軍を追撃してゲリラ戦でその多くを殺した。このレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まった。この時の植民地側民兵は、服装もまちまちで、銃一丁を手に、数分で戦う準備ができたので、ミニットマンと言われた。」
前大統領オバマを始め、アメリカの為政者たちが日本で言う「刀狩り」に相当するアメリカ民衆の「銃規制」を幾度も幾度も画策してきました。しかし、この試みはいずれも失敗に終わっています。
それはこの革命戦争での、本来は戦闘の素人の民がミニットマンとして戦闘のプロ集団相手に戦った記憶が、アメリカ民衆の中に深く刻まれているのが主因だと思えます。即ち、アメリカ民衆はいざとなれば圧制者や略奪者に対しては、臆すること無く自らが銃を持って立ち上がり戦ったとの気概の記憶です。
さて、土地を知悉し戦意の高かったミニットマンたち植民地側民兵でしたが、兵員、装備、訓練、組織的戦闘能力など全体的な兵力では、やはりイギリス側が当然勝っており、アメリカ植民地側は大苦戦に陥ります。兵員は当初から7割も大幅に削減され、3割程度しか残らない状況になっていたようです。植民地側の敗退は必至ともいえる状況でしょう。
それでも、イギリス側が植民地側にとどめを刺すのが可能な状態になったにも関わらず、それをなさなかった様子を『テンプル騎士団とフリーメーソン』に描写されています。可能なはずであるのにイギリス側がとどめを刺さなかった、この一つの要因にイギリス側の戦意の低さはあるでしょう。
この革命戦争の本質は、アメリカ植民地と英国本国の戦闘では無く、アメリカフリーメーソンとイギリス東インド会社の抗争です。実際のところ英国本国の人々の間では、植民地側に対しての同情する空気が占めていたようなのです。
また実は、植民地側民兵が戦闘した相手は、英国兵よりもその大半以上がドイツ人傭兵部隊だったのです。
ヘシアンと呼ばれたドイツ人傭兵
Wikimedia Commons [Public Domain]
戦争状況の分岐点となったフランス参戦 ~一連の世界的事件での勝利者
大苦戦を強いられ、兵力を大幅に削減された植民地側でしたが粘ります。そして潮目が変わります。『世界史の窓』の「アメリカ独立戦争」記事では以下のようにあります。
「1777年10月、バーゴイン将軍に率いられカナダから南下したイギリス軍を迎え撃ったアメリカ軍はサラトガの戦いで大勝し、戦局は転換した。それまでフランスはラファイエットのような個人的な参戦の他は、アメリカに対する密かな武器・弾薬の支援にとどまっていたが、このアメリカ軍の勝利を知り、78年2月、ルイ16世が正式にフランスの参戦を宣言した。」
記事のラファイエットはフランスの貴族で、フリーメーソンで建国の父の一人であるベンジャミン・フランクリンの演説に感動し、フリーメーソンに入会し、義勇兵として個人的に革命戦争に参戦したのです。
そして、フランス参戦に大きく寄与したのはフランスのフリーメーソンたちであろうことは想像に難くありません。フランスのフリーメーソンの主流派はジャコバイト派、つまりポジティブなテンプル騎士団で、アメリカのフリーメーソンの仲間たちだったのです。
フランス参戦の影響は多大で、フランス参戦後にはスペイン、オランダがアメリカ側で参戦するなど、戦局はアメリカ側に傾きます。そして1781年に戦闘は終了し、アメリカは独立国としてのスタートに立ったのです。
Author:Connormah [CC BY-SA]
Author:Rob984 [CC BY-SA]
理想国家建設に燃えて懸命に戦ったアメリカフリーメーソンと、それを助けたフランスの仲間たちとの勝利の構図がここに浮き上がります。これは紛れもない事実です。
・・・しかし・・・革命戦争にはアメリカ側以外の勝利者がいるようにも私には見えます。そもそもイギリス東インド会社は、世界中にその手を拡げていたこともあってか、アメリカ植民地側との戦闘の勝利に“本気”であったようには見えないのです。そして戦争で勝利するのはいつでも銀行家です。
アメリカ革命戦争、そしてその後のフランス革命とそれに引き継ぐナポレオン戦争、この一連の世界的事件で莫大な利益をあげ続け、急速にその支配力を増大した人物がいます。マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド初代ロスチャイルド当主です。そしてその息子ネイサンたちです。
アメリカ革命戦争で植民地民兵が戦闘した相手のドイツ人傭兵部隊は、ヘッセン=カッセル方伯が自領から貸し出した兵士たちです。傭兵貸出でヘッセン=カッセル方伯は莫大な収益を手に入れます。そして既にこの頃に資産運営等のヘッセン=カッセル方伯のマネージャー役はマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドだったのです。ロスチャイルド家はこの頃からめきめきと頭角を現し、世界支配層の中心存在に変貌していったのです。
Wikimedia Commons [Public Domain]
現在のアメリカの革命は成功を収めつつあるようですが、この原点は、1775年に開始されたアメリカの革命戦争に求められるでしょう。この革命戦争も、イギリス東インド会社の所有者相手、つまりこれも悪魔崇拝主義者たちとの闘争でした。
この時指揮をとったのが、ジャコバイト派とも呼称されたポジティブなテンプル騎士団の流れのフリーメーソンたちです。実際に戦闘に参加したのはミニットマンと呼ばれた民兵たちです。民兵ですからもとを質せば素人軍団です。それが自ら銃を手にして立ち上がり、プロの軍団相手に戦ったのです。
悪魔崇拝主義の支配からの解放を求める死にものぐるい闘争で、この姿勢が功を奏したのか、フランスの仲間の助力もあり、戦闘に関しては植民地側が勝利を収めます。植民地アメリカの独立成功の勝利です。
・・・ただ、しかし、戦闘だけ見れば確かにこの構図となりますが、もう少し長い目で眺めると、このアメリカ独立革命戦争において影に隠れた本当の勝者、最も利益を獲得した男の姿も垣間見えても来るのです。
この男はこの当時、既にオレンジ家やハノーヴァー朝とも血縁関係の深いヘッセン=カッセル方伯のマネージャーになっていました。