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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝51 ― 中央銀行、日本銀行の誕生
知られたくない事柄 〜グリーンバックスと国立銀行法
南北戦争の流れの視点からの明治維新を前回から見ています。
南北戦争、そしてリンカーンがなした最大の功績が政府紙幣グリーンバックスの発行であったことを外伝47で見ました。ところがウィキペディアの日本版記事では「グリーンバックス」の項目での記事はないのです。
それと同様にウィキペディアの日本版記事には、南北戦争時に成立した大変重要な出来事「国立銀行法」の項目での記事がないのです。
ドルの発行をアメリカの国家債務とセットにして、ドルを発行するたびにアメリカ国債が増加するという、アメリカを「借金奴隷」に決定づけた「国立銀行法」。
セリフは「反ロスチャイルド同盟」より
Wikimedia Commons [Public Domain]
1863年にリンカーンが署名して成立した「国立銀行法」も政府紙幣グリーンバックス同様に非常に重要であるに関わらず、ウィキペディアの日本版記事にないということは、世界支配層にとってはそれだけ一般人に「知ってもらっては困る」という事項なのだろう、と思えます。
国立銀行法が実は日本の金融制度の方向を決定づけていく強い影響を与えています。しかしウィキペディアではアメリカで成立した「国立銀行法」を明治新政府で制定した「国立銀行条例」の中で次の程度のみでしか触れられていません。
「イギリス型の中央銀行制度を推す当時の大蔵少輔吉田清成と、アメリカ型の分権方式銀行制度を推す伊藤博文が論争した。結局、アメリカにおいて1864年に財務長官サーモン・チェイス(Salmon Chase)によって制定された国法銀行法を参考に、1872年(明治5年)国立銀行条例が制定された。」
伊藤博文によってアメリカの国立銀行法から「国立銀行条例」が制定されたのはうかがえますが、この記述のみではその中身が分かりません。
まず「国立銀行条例」の留意点ですが、日本の初代総理大臣となる「マセソン・ボーイズ」の一人であった伊藤博文が中心となって、訪米後に「新貨条例」に続いて「国立銀行条例」を制定させている点です。伊藤博文は1870年に、そして1871年にも「岩倉使節団」の一人として訪米していたのです。
Wikimedia Commons [Public Domain]
ロスチャイルドの意図のもとにアメリカの「国立銀行法」が制定されたように、「新貨条例」と「国立銀行条例」制定にはロスチャイルドの意図があったでしょう。
訪米時に伊藤博文がその司令を受け取っていたとしても何らの驚きはありません。そして「新貨条例」と「国立銀行条例」設立目的は「日本の通貨の統一」でしょう。
明治新政府の成立初期、当時は当然ながら日本での貨幣制度は大混乱をきたしていました。この頃は江戸時代の金貨、銀貨、銅貨それに地域通貨である各藩各種の藩札が流通もしていました。
それに初期明治政府は政府紙幣(不換紙幣である太政官札と民部省札)も発行していました。これら種々雑多の貨幣を廃止した貨幣制度の統一が新政府に求められたのです。
香港上海銀行の設立 〜日本の銀行群設立を導く
通貨の統一がその国や世界の統一政府と直結します。明治政府が貨幣制度を統一することによって中央集権国家が成立していきます。
アメリカの「国立銀行法」とは、アメリカ国債を担保として営利目的に民間銀行がドルを発行するシステムでした。日本では「国立銀行条例」の制定で、渋沢栄一によって第一国立銀行が開設。民間銀行が銀行券を殖産興業を目的に発行し出します。
国立銀行条例は渋沢の発案で作られたとされる。渋沢は単に「日本で最初の銀行」を作ったというだけではない。「発券機能を持つ民間銀行」を作ったのである。発券機能はイングランド銀行やFRBなど「中央銀行」の本質的機能である。この点では発券主体が複数競合するナショナルバンク制度と同じである。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年4月10日
第一国立銀行発行の十円兌換券(1873年)
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この資料にあるように、当初の日本の国立銀行はアメリカのそれとは異なった部分がありましたが、「1876(明治9)年の条例改正により、国債を引き当てとする銀行券発行に改められたこと」で基本的な性格は同様となります。そしてこの1876年の条例改定以降、次々と国立銀行が開設されるようになります。
日本に本格的に銀行が設立されるようになったのですが、それを導き、モデルとなるアジアにおける銀行が先立って設立されていました。1865年開設の香港上海銀行(HSBC)です。ウィキペディアの同記事ではこのようにあります。
「日本政府への協力 設立翌年の1866年には日本支店を横浜に設立し、その後神戸、大阪、長崎にも次々に支店を開設した。日本政府の貿易金融政策の顧問業務を担い、大阪造幣局における金銀通貨の造幣にも協力した。横浜正金銀行(後の東京銀行→東京三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)がその体制を作る際には、香港上海銀行がモデルとなったし、香港上海銀行も支援した。」
この香港上海銀行は、『ヘブライの館』の「アヘン戦争の舞台裏」で詳しく記されていますが、サッスーン社とジャーディン・マセソン社が中心になって設立されています。両者は当時中国に進出していた巨大貿易企業です。
参考:「世界史の窓」
Wikimedia_Commons [Public Domain]
Author:Rob984 [CC BY-SA]
サッスーン社のデイヴィッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれたロスチャイルド一族の代理人であり、サッスーン家はロスチャイルドの血族です。ジャーディン・マセソン社は前回見たように坂本龍馬や薩摩使節団、長州ファイブなどのバックにあった存在で、ロスチャイルド系の武器商社でありアヘン貿易にも深く関わっていたのです。
無論両者はアヘン戦争と深く関連します。彼らはアヘン貿易でプールした資金を安全に保管しながらアヘン貿易をスムーズに展開し、さらなる巨利を得るのを目的に香港上海銀行を設立したのです。このロスチャイルドの銀行と言ってよい香港上海銀行が日本の銀行設立を導き、そのモデルとなっているのです。
@SenJeffMerkley HSBC Bank: Secret Origins To Laundering The World's Drug Money https://t.co/h7JBA9rmXq pic.twitter.com/KKcultPch7
— Marco-Hans VD Willik (@mhwillik) 2016年2月17日
編集者註:世界の麻薬取引の資金洗浄をしている香港上海銀行(HSBC)。麻薬取引が盛んに行われている地域にはHSBCがある。
日本の貨幣制度の統一 〜流通していた紙幣を焼却処分
日本で貨幣制度が統一できたのは1882年です。薩摩藩出身で大蔵卿であった松方正義によって中央銀行である日本銀行が設立されたのです。
松方正義
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1882年日本銀行条例を発布し日本銀行を設立した松方は、翌年1883年に国立銀行条例を改定し、流通していた紙幣を回収し処分していきます。それは強引で乱暴な方法でした。
1877年に西南戦争があった関係で大量の不換紙幣である太政官札や国立銀行券が市中に出回って流通していました。インフレ状態です。松方はこれらの紙幣を回収し片端から焼却処分(償却でない)したのです。
松方は日本銀行券以外の紙幣を決して認めず、使用できないようにしたのです。政府紙幣を廃止し、国立銀行から通貨発行権を奪ったのです。そして銀本位制による日本銀行券を流通させます。
これで貨幣制度が統一できたといえばそうなります。無論しかしこれには大きな副作用があります。市中に流通していたお金を力ずくで大量に消し去っていったのです。当然お金が市中から不足し、深刻なデフレとなります。これが「松方デフレ」です。
この日本銀行設立には前段があります。ウィキペディアの松方正義の記事で以下のようにあります。
「松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から3つの助言を得る。
第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、を勧められた。また、当時欧米の主要国が銀本位制から金本位制に移行しつつあったことを踏まえて、日本も金本位制を採用することを勧められた。
フランス滞在中に、松方はレオン・セイの紹介により、パリ・ロチルド家第二代当主アルフォンス・ド・ロチルドと面会していたとされる。レオン・セイはアルフォンスの招きでロスチャイルド家の所有する北部鉄道会社に入社して役員となり、後に政治家・蔵相となって金融ブルジョワジーや鉄道会社の利益を代弁・擁護した人物であり、謂わばロスチャイルド家の家臣であった。」
第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、を勧められた。また、当時欧米の主要国が銀本位制から金本位制に移行しつつあったことを踏まえて、日本も金本位制を採用することを勧められた。
フランス滞在中に、松方はレオン・セイの紹介により、パリ・ロチルド家第二代当主アルフォンス・ド・ロチルドと面会していたとされる。レオン・セイはアルフォンスの招きでロスチャイルド家の所有する北部鉄道会社に入社して役員となり、後に政治家・蔵相となって金融ブルジョワジーや鉄道会社の利益を代弁・擁護した人物であり、謂わばロスチャイルド家の家臣であった。」
要は、日本銀行もロスチャイルドの意向で創設されたということです。
結論:1872年国立銀行条例制定。1877年松方正義パリ留学。ロスチャイルド・パリ家2代目当主アルフォンス・ド・ロチルドの教示を得る。1881年松方正義大蔵卿が中央銀行制度を整備。1882年松方正義総理が民営の日本銀行創設。現在も40%個人株主。通貨発行権を取り戻さなきゃ。https://t.co/RvA5f5Q3k4
— 𓅐別班マン𓆃 (@beppanman) 2019年4月4日
ジャーディン・マセソン社は明治維新の英雄たちのバックにあった存在でしたが、武器商社であると同時に麻薬組織でもあったのです。マセソン社の社員であったトーマス・グラバーも、単に武器兵器だけ扱っていたのか?は大いに疑問です。
香港上海銀行の創設を見るにつけ感じるのは、金融と戦争、そして麻薬貿易と人身売買、これらはセットになっていることです。この4つのセットで関係者は巨利を得るのです。
中国を蹂躙したイギリス東インド会社の所有者たちは、日本にその矛先を向けて、その協力工作者・現地エージェントを立てていきます。日本銀行創設者の薩摩藩出身の松方正義も(単純にそうとは言い切れないところもあるのですが)その主要な一人と見ることができます。
松方は、渡欧中にどうやらロスチャイルド本人から直に秘法「信用創造」の仕組みを教えられた模様です。