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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝50 ― 明治維新の英雄の影の存在
南北戦争の兵器が日本に 〜明治維新の裏にロスチャイルド
南北戦争は、その後のアメリカの命運を決定づけるような大きな影響を与えたのですが、その影響を受けたのはアメリカだけではなく、世界各地も同様です。日本も実はそうだったのです。
南北戦争の頃、日本は幕末から明治維新へと移行する時期でした。南北戦争の落とし物というべきか、南北戦争で使用されて余った兵器は日本に送り込まれ、明治維新の戊辰戦争などに使用されたのです。もちろんこの背後には武器商人が、さらにその背後には国際銀行家の暗躍がありました。
歴史教科書では明治維新の際、薩長にはイギリスが、幕府にはフランスが、それぞれ支援していたと記述されてあったと思います。事実はその薩長と幕府を支援した国家とされるイギリスとフランスは国家ではなく、それぞれイギリス・ロスチャイルド家とフランス・ロスチャイルド家です。
それぞれ薩長と幕府に武器弾薬の兵器を売りつけ、金を貸付けて戦争を煽っていたのです。明治維新の黒幕にはロスチャイルドの存在も大きくあったわけです。
Wikimedia Commons [Public Domain]
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Author:Mukai [CC BY-SA]
南北戦争はロスチャイルドの意図のもと起こされたのですが、同時並行的に日本に対する侵略攻撃をロスチャイルドは本格的に具体化していったのです。
1600年以降、世界侵略を実行していったのは大英帝国ではなくイギリス東インド会社だったのですが、ネイサン・ロスチャイルドの頃からロスチャイルドは東インド会社の支配的地位についていっており、その東インド会社は既にインドおよび中国を蹂躙していました。その矛先が日本に向かうのは当然の流れだったのです。
1851年には東インド艦隊のペリーが来航し1854年に日米和親条約、1858年には江戸幕府が米国総領事ハリスとの間に日米修好通商条約の不平等条約を調印。同年ほぼ同じ内容の条約を蘭・露・英・仏と結ばされていました。またこの1858年は1857年のインド大反乱を経てムガール帝国が滅亡し、イギリス東インド会社が解散しています。
こういった状況下、南北戦争の最中の1863年、生麦事件を受けて薩英戦争が起きます。薩英戦争は痛み分けとなりましたが、西洋科学文明の力を思い知った薩摩藩は洋学校を開設し、イギリスに留学生(薩摩藩遣英使節団)を送ります。またイギリスとの密貿易を開始して、薩摩藩はイギリスとの関係を深めていったのです。
後列左から:畠山丈之助、高見弥一、村橋直衛、東郷愛之進、名越平馬
前列左から:森有礼、市来勘十郎(松村淳蔵)、中村宗見
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薩摩藩第一次英国留学生②
後列左から:田中静洲(朝倉盛明)、町田申四郎、鮫島尚信、寺島宗則、
吉田清成
吉田清成
前列左から:町田清蔵、町田久成、磯永彦助(長沢鼎)
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もちろん、ここでいうイギリスは国家というよりはイギリス・ロスチャイルド家と見るべきです。東インド会社は解散はしていましたが1863年といえばその解散から5年しかたっておらず、薩摩藩と砲火を交えたイギリス艦隊はもともと東インド会社の艦隊であったでしょう。そしてこの東インド会社を動かしていたのがロスチャイルド家だからです。
維新の英雄坂本龍馬 〜竜馬の背後にはグラバーとマセソン
明治維新の英雄といえば坂本龍馬がいの一番に挙げられるでしょう。竜馬に関しては『fm VenusのブログⅡ』の「明治維新の裏側「ロスチャイルドと田布施の関係」」という記事の次の部分がわかりやすいです。
「龍馬は1862年に幕臣勝海舟の門下に入り、その3年後の1865年には海援隊の前進となる亀山社中(株式会社)を設立し、歴史の表舞台に姿を現しました。そしてそのわずか3か月後には第1回目の買い付けとなる7800挺の銃が海外から到着したのです。普通に考えても当時20代の青年にこれだけの武器購入資金が集められた事自体不自然であり、また情報伝達や物資輸送には今では考えられない程の時間がかかった時代にわずか3か月間で7800挺の銃を輸入出来たことは驚きです。間違いなく何らかの後ろ盾があった筈です。(アメリカの南北戦争で大量に余った銃が輸入されたと言われています。)
ご存知のように坂本龍馬は薩摩藩と長州藩を結び付けた薩長同盟を作ったことが大きな功績として語り継がれています。
当時、長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器を増強したいと考えていましたが、幕府による厳しい監視が続いており、表立って長崎で取引をすることはできませんでした。そこで1865年5月龍馬は薩摩藩名義で長州藩の軍艦や武器を購入する事にしたのです。
坂本龍馬とおかね(長州藩の武器購入額92,400両)|日本銀行高知支店
これだけの事を成し遂げることが出来た龍馬の背後にはトーマス・グラバーというフリーメイソンの武器商人の存在があったからこそ可能であったのです。
グラバーはロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員でしたが、長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。そして、龍馬を使って薩長を結び付け、倒幕派を相手に武器や弾薬を売り、幕府を転覆させる事がグラバーの計画だったのです。」
ご存知のように坂本龍馬は薩摩藩と長州藩を結び付けた薩長同盟を作ったことが大きな功績として語り継がれています。
当時、長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器を増強したいと考えていましたが、幕府による厳しい監視が続いており、表立って長崎で取引をすることはできませんでした。そこで1865年5月龍馬は薩摩藩名義で長州藩の軍艦や武器を購入する事にしたのです。
坂本龍馬とおかね(長州藩の武器購入額92,400両)|日本銀行高知支店
これだけの事を成し遂げることが出来た龍馬の背後にはトーマス・グラバーというフリーメイソンの武器商人の存在があったからこそ可能であったのです。
グラバーはロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員でしたが、長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。そして、龍馬を使って薩長を結び付け、倒幕派を相手に武器や弾薬を売り、幕府を転覆させる事がグラバーの計画だったのです。」
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竜馬のバックには武器商人グラバー、そしてマセソン社があり、そのさらなる裏にはロスチャイルド家があり、彼らの策謀によって竜馬は動かされていた、ということです。そしてこれは事実でしょう。
ただし、日本国内での大戦争での武器売買で大儲けを企んでいたグラバーたちの思惑と反し、竜馬は日本人同士の大流血を避けようとしました。この意味でグラバーたちにとって竜馬は邪魔者となったわけで、これが竜馬暗殺に繋がったように思えます。
渡英した長州ファイブ 〜長州ファイブの裏にロスチャイルド
薩長同盟の薩摩は英国に使節団を送りますが、一方の長州もそれに先立って留学生を送り込んでいました。これは長州ファイブとして有名でもありますが、ウィキペディアの記事では以下のようにあります。
「長州五傑(ちょうしゅうごけつ)は、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。
駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。
イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。」
駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。
イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。」
長州ファイブ(長州五傑)もまた、グラバーとマセソン社が強く絡んでいたのです。同記事では「井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。」 とあるように、伊藤博文は総理大臣、井上馨は外務大臣といった具合に、長州ファイブのそれぞれは明治新政府で非常に重要な指導者としての地位を占めたのです。
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ところがその長州ファイブは、英国ロンドンの現地では「マセソン・ボーイズ」と呼ばれていたのです。マセソンの玩具の少年です。そしてそのマセソン社のオーナー、この当時のイギリス・ロスチャイルド家の当主はネイサンの息子ライオネル・ロスチャイルドです。
長州ファイブの面々にその自覚があったかは不明ですが、ロスチャイルドやマセソンにとっては長州ファイブなどは日本の現地エージェントです。自分たちが支配し略奪しようとする国や地域に現地エージェントを置くのは彼らの常套手段です。
なお、遅れてロンドンに訪れてきた薩摩使節団と、長州ファイブのうち先に帰国した井上と伊藤を除く3名は現地で交流しています。日本国内では犬猿の仲とされた長州と薩摩ですが、坂本龍馬が仲介する以前にロンドンの地、ロスチャイルドの手の中で両藩の交流は既になされていたのです。
これからどちらに向かって舵を切っていくかを選択するには、現在位置がどこにあり、それがいかなる経緯をたどってここにあるのかを認識する必要があるでしょう。
日本がどうして現在このような姿になってしまったのか? どうすればよいのか? それを知るにはその経緯を知る必要があるわけです。
日本の近・現代史を語る上でよく指摘されるのが、2つのターニングポイントです。一つは明治維新、もう一つは太平洋戦争とその敗戦です。この2つのターニングポイントは、どちらも知らされていない複雑で深い闇の部分が大きいのです。
その明治維新ですが、幕末から明治維新は南北戦争の時期と重なり、その落とし物というべきか影響を受けています。いや、もっと正確に表現すれば、明治維新の裏にもやはりロスチャイルドの存在があったのです。
幕末から明治維新の動きとは、ロスチャイルドが日本に対する密かな侵略の攻撃を具現化させた動きだとの表現も間違いでないのです。
この頃の歴史の表舞台では、坂本龍馬など明治維新の英雄や、薩長の数多くの維新の志士たちが輩出されています。ところがその彼らは、武器商人を通じてなどしてロスチャイルドの影響下にあったのです。