ベルリンの壁はどこにあったの?
ベルリンの壁がどこにある? と聞いてみると
多くの方が、ああ、勘違い!しているので、今回は、そんなことを
詳しくお話ししたいと思います。
ベルリンは東西統一後もお金はない街だけれど、セクシーな街である(Berlin is poor but sexy)とよく言われています。
セクシーとは、そのセクシーではなくて、アートや芸術、文化が盛んな魅力的な街という意味です。
ベルリンは歴史的にみても、西スラブ系の方が多く住んでいて、
語学学校の先生のご両親もお父さんはルーマニア出身でお母さんは
ポーランド出身で西ドイツに避難してきたといっていました。
多くの方が東側の国からの移民背景がある方が多いのです。
そして、ああ、勘違いについて説明します!
そして、ベルリンはどこにあるか、また、ベルリンの壁はどこにあったのか、描くことができますでしょうか?
私も同じこと思っていました!
— Digital Gene (@digital_gene) 2019年8月14日
アプリ作るために勉強しなおした時に初めて知ったので、実はいい大人になるまで勘違いしていたのですが‥‥‥ pic.twitter.com/x2nhvDkLQP
ベルリンの壁ってのは東西ドイツの境界にあったんじゃないんですね!そもそもベルリン自体が旧東ドイツ領内の都市なんですね! Newsweekに掲載されていた地図を見て、初めて知りました。orz http://t.co/RdVuRbhA1Z pic.twitter.com/kGuC86Llx1
— にしし/西村文宏 (@nishishi) November 19, 2014
簡単にいうと、ベルリンは冷戦時代には、
東ドイツの真ん中あたりに離れ小島のように街が存在していたのです。
東ドイツの中を通って、西ドイツの西ベルリンに行く時は、
東の中でも車が許可される幹線道路があったのです。
東ベルリンに入国できた検問所がベルリンの中心部にあり
チェックポイントチャーリーといいますが、私も1988年には
バスの中でパスポート検査を受けて、こちらから東ベルリンに入国しました。
現在では観光スポットになっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/チェックポイント・チャーリー
チェックポイントチャーリーの名前が可愛いと思いませんか?
綴りはCheckpoint Charlieと記し、チェックポイントCとも呼ばれます。
そしてチェックポイントA、チェックポイントBもあるのです。
チェックポイントAは、チェックポイントアルファ(Checkpoint Alpha)だったのです。
現在は、グーグルマップでは、チェックポイントAlphaは、Gedenkstätte Deutsche Teilung Marienbornと記載されています。
・ https://www.google.com/maps/place/Gedenkstätte+Deutsche+Teilung+Marienborn/@52.2148581,10.5220268,9z/data=!4m5!3m4!1s0x47af802f6eda228d:0x2483869640ff423d!8m2!3d52.2148136!4d11.0828089
・ https://www.centralberlin.de/blog/checkpoint-charlie-und-alpha-und-bravo/?lang=de
チェックポイントBは、チェックポイントブラボー(Checkpoint Bravo)だったのです。
・ https://www.google.com/maps/place/Checkpoint+Bravo/@52.415361,13.1870638,15z/data=!4m5!3m4!1s0x47a8593f77ccff09:0x6ab4c8214a68b75d!8m2!3d52.4163837!4d13.1965551
・ https://www.checkpoint-bravo.de
ベルリンの壁については、勘違いをしていた方も多いので、ここにまとめますね!
ベルリン自体が、東ドイツの中にあり、西ドイツの飛び地になっていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリン#/media/ファイル:Berlin_in_Germany_and_EU.png
そのベルリンがさらに、4カ国(米英仏ソ)の分割統治の結果、冷戦で東西に別れ、西ベルリンの周りに壁を作った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリン#/media/ファイル:Occupied_Berlin.svg
その壁の周辺にある検問ポイント。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリンの壁#/media/ファイル:Berlin-wall-map_en.svg
こんな感じ。
— 🇮🇱猫谷蒼@VTuber準備中/ニコ町10/19一般🇮🇱 (@w_inari) 2019年8月14日
東ドイツの領地の中にあるベルリンが東と西で分割されてた pic.twitter.com/uLM1h1gcSt
名前は可愛いですが、このように国境、境界線を
あえて作り、いがみ合いの元を作り、本当に面倒くさいなと思います。
ベルリンはドイツではなくて、ベルリン
現在のベルリン市の外側には、ブランデンブルグ州があります。
ブランデンブルグ州の真ん中にベルリン市があり、ベルリン市は特別地区ベルリンなのです。ブランデンブルグ州ではないのです。
ドイツの中では、ハンブルグ、ブレーメン、ベルリンの3つは、
特別で、州ではなくて、市だけで、行政地区を作っている状態になります。
ドイツは日本と違い、地方分権なので、ベルリンは首都でも、政治機能は
いまだに、ボンに少し残されていますし、裁判関連は、カールスルーエにて
機能しています。
良いところは、日本のように一極集中ではないので、それぞれの州に任されていて、
教育制度も、祝日もバラバラで、ビザの取得の仕方もバラバラなので、
混雑していないところです。
実は、ドイツ・・といっても、どこのドイツ? 何州?と考える必要があるのです。
南のミュンヘンがあるバイエルン州は、独立したい??(バイエルン自由共和国)みたいな話もあります。
昔はバイエルン王国だったからです。
ミュンヘンはベルリンよりウィーンが競争相手なようです・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/バイエルン州
プロイセン王国時代は、南のバイエルン州などは、入っていませんでした。
ブランデンブルグ州では、右派のAfDの勢力が強いのです。
ドイツでの欧州議会選挙,緑の党の躍進がもっぱら話題だが,その一方でブランデンブルク州19.9%,ザクセン州で25.3%と東側2州でAfDが第1党になったことを忘れてはならない。この2つの州では今秋州議会選挙がある。なぜ東でAfDが強いのか。そこには東西格差をめぐる根深い原因があるようだ。https://t.co/B17CtybVxM
— 佐藤成基 (@ssbasis) May 30, 2019
ブランデンブルグ州の南、ドレスデンがある州はザクセン州になります。
こちらでは、前からペギーダという右派の活動拠点があるのです。
ザクセン州もAfDが強い州になります。
先日、CDUのリュプケ氏が難民を擁護する発言をして、銃殺されるという事件もありました。
極右によるCDUの政治家リュプケの銃殺事件に対するペギーダ参加者たちの反応を取材した番組からの1コマ。
— 佐藤成基 (@ssbasis) July 5, 2019
その銃殺行為を「人間的な反応だ」と言ったり,ドイツ人よりも難民を優先するようなリュプケを「人民の裏切り者」と呼んだり,被害者に対する同情や追悼の感情は全く感じられない。 https://t.co/tSJRf2cpDB
最近の極右暴力事件の実行犯についてルポ。
— 佐藤成基 (@ssbasis) June 20, 2019
1990年代に極右・ネオナチの活動をしていた者がその後の通常の市民生活に退き,近年の時代状況のなかで(ネットの影響も受け)「自分たちの時代が来た」とばかりに再び活動を始めているという。
一 https://t.co/6GqMuBYmKR
6/2に自宅で銃殺されたカッセルの元行政管区長官リュプケ(CDU)。2015年10月,難民収容施設建設の住民説明会で「この価値を支持しない者はいつでもこの国を去るがよい。それは個々のドイツ人の自由だ」と述べ,住民からの激しいブーイングを呼んでいる(0:45-0:55)。 https://t.co/I2nOol8o2h
— 佐藤成基 (@ssbasis) June 19, 2019
ベルリンの壁が崩れて30年近くになりますが、いまだに
東西の価値観の差は解消されていないのです。
「東ドイツの人々は国家が自分たちの面倒を見てくれというより大きな期待をもっている。それはDDRの遺産である。」それが東部ドイツ人が「取り残された」という感覚をより強く持つ原因であるという社会学者レンクフェルトの分析。https://t.co/Mg0KUauYyi
— 佐藤成基 (@ssbasis) June 22, 2019
ベルリンは魅力的で自由な感じの街になりますが、
まわりにAfD勢力が強い州に囲まれていますので、さあ大変!
『ベルリンはドイツではなくて、ベルリンだね・・』
以前、ドイツ人の方がそう言っていました。
これも、セクシーの広義の意味かな・・
世界の中でも西の感覚と東の感覚を同時に感じることができる
興味深い場所だと思います。
また、ベルリンはトルコ人のケバブサンドの発祥地、
レバノンやシリアの方がシャバルマを持ち込み、
ベトナム人が東の時代からベトナム料理を持ち込んでいるという
西洋の国なのに、中東やアジアの食文化もB級グルメレベルで堪能できる面白い街なのです。
映画『ベルリン天使の詩』でも、天使が舞い降りる街として表現されました。
こちらの橋で実際に『ベルリン天使の詩』を撮影したようで、
ブルーノガンツさんが亡くなられた後、
当時の思い出の写真が橋に貼られていましたので、思わず写真に収めました。
ドイツといえば、ジャガイモを連想される方も・・。
ジャガイモはドイツの国民食です。
南米発祥で、欧州に渡ってきました。ジャガイモをドイツに広めたのが、プロイセン王国のフリードリヒ2世(1712−1786)です。
ジャガイモは、当時見かけも悪く人気もありませんでしたが、寒冷地でも育つジャガイモ栽培をひろめて、ドイツの国民食に定着させたのが、フリードリヒ2世です。ドイツ人の質素な生活の基本形のようなものです。
ベルリンの少し南、ポツダム市にあるサンスーシー宮殿には、フィリードリヒ2世のお墓があり、よくジャガイモが添えられているのです。
ジャガイモは、当時見かけも悪く人気もありませんでしたが、寒冷地でも育つジャガイモ栽培をひろめて、ドイツの国民食に定着させたのです。
ドイツ人はジャガイモを煮て、つぶして食べるという習慣があるので、戦争時代、フランスにドイツ人がスパイとして乗り込んだ時、
ジャガイモをつぶしてしまい・・バレてしまったという笑い話もあるとか・・
ジャガイモを煮て食べるのは、もさもさした食感のため、若い方、男性にはあまり人気がなく、ドイツでも外国人にはあまり人気がないようです。やはり、炒めたり、揚げたりする方が人気です。
我が家でもジャガイモやかぼちゃの煮物の夕食の時は、主人は会社から帰ってくるなり身体全体からショパンの葬送行進曲が流れていました。
豚の生姜焼きの時などは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番が流れているのに・・
ドイツでは、ジャガイモをお団子状にして食べる名物料理、クヌーデル、クロースもあります。
ドイツの生活は、ベルリン以外では、もさもさしたジャガイモとの戦いになりますが、
ベルリンでは、ケバブサンドがありますので、男性にとっては嬉しいようです・・
カレーブルストもベルリン発祥で非常に人気があります!
アメリカの35代大統領JFKも、ベルリンを気に入っていたのかな・・・
当該箇所は、"Two thousand years ago, the proudest boast was 'civis romanus sum '. Today, in the world of freedom, the proudest boast is 'Ich bin ein Berliner '."「2000年前は、最も誇り高き言葉は『私はローマ市民だ』であった。今日、この自由な世界において、最も誇り高き言葉は『私はベルリン市民だ』である。」と、キケロに由来するとされる”civis romanus sum”との対比で用いられた。
「Berliner」には、「ベルリン市民」と言う意味の他に、「ジャム入りの揚げパン」とも受け止められるため、「私はジャムドーナッツである」と通訳されたという都市伝説が英語圏では有名である。この都市伝説は、ドイツ語では職業や出身地を言うときには不定冠詞のeinをつけずに「Ich bin Berliner」ということから来ている。ケネディが英語の文法に引きずられて不定冠詞をつけてしまったために「ベルリン市民」の意味にならなかった、というわけである。しかし実際には、この文脈ではケネディは自分を実際のベルリン市民と言っているわけではなく、ベルリン市民と心を共有することを比喩的に言っているのであるから、einはむしろ必要である。
(ベルリナーという揚げパンは、大晦日の日に食べる縁担ぎの揚げパンで、日本の年越しそばのような感じですね・・)
私はすでにドイツの都市をいくつか知っていて、
ライン川沿いは古城もあり素敵でしたが、
ボン、ケルン、日本人街のあるデュッセルドルフあたりも
ルール工業地帯で、つまらないのかなとも思い、
クリスマスで有名なニュルンベルグにもまいりましたが、
ロマンチックなドイツでも飽きるのかなと思い・・
ドイツの南方面は白人優先なのかなとも思ったり、
個人的には、ミヒャエルエンデの出身地、
オーストリア国境近くのパルミッシュガルテンキルヒエン
ドイツで一番高い山のツークシュピッエ あたりの山小屋にでも住むことができたらいいなと想いを巡らしますが、
子供のことを考えたら、もっと色々な移民の方がいる中で
日本人として紛れ込むのがよいのかなと思ったのです。
第43楽章は、ああ、勘違い!ベルリンの壁はどこにあった?です。