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ドイツでのトルコの影響
戦後、1950年ごろ、高度経済成長した
当時の西ドイツは労働力不足でした。
外国人の労働力に期待をするしかなかったのです。
1955年にイタリア、1961年にトルコ、
1968年に旧ユーゴスラビアとの労働協定を結びました。
その後、トルコ人の外国人労働者が一番多くなったのです。
現在、ドイツの人口が8000万人のうち、
外国人が8.2% で、そのうちトルコ人が25%
で、300万人くらいと言われています。
ドイツのベルリン発祥のドネルケバブサンド。
しかし、ケバブは、トルコ料理です。
1960年にトルコから移民したヌルマンさんが
1972年にベルリンでケバブサンドを屋台で売ったのが
はじまりです。
ベルリンには、1000以上のドネルケバブサンドの
お店があり、とても人気ですが、
これは、トルコ移民が頑張ってきた賜物です。
あるトルコ人の方に質問を投げかけてみました。
Q・ベルリンで生まれたのですか?
A・自分の親世代の前のおじいさん、おばあさんの世代が
トルコからベルリンにやってきた。
だから、ベルリンで生まれて、ベルリンで育った。
トルコから移民して3世代目です。
Q・ドイツで育ってきて、どうでしたか?
A・良い点と悪い点がある。ドイツ語、英語、トルコ語を
すべてネイティブに話せることが良い点だが、
自分はドイツ人なのか、トルコ人なのかわからないことがある。
Q・人種差別などを感じますか?
A・私は特に感じないが、人種差別の感じ方は、
環境によって、人それぞれだと思う。就職などで、
あるといえば、あると思う。
A・自分の親世代の前のおじいさん、おばあさんの世代が
トルコからベルリンにやってきた。
だから、ベルリンで生まれて、ベルリンで育った。
トルコから移民して3世代目です。
Q・ドイツで育ってきて、どうでしたか?
A・良い点と悪い点がある。ドイツ語、英語、トルコ語を
すべてネイティブに話せることが良い点だが、
自分はドイツ人なのか、トルコ人なのかわからないことがある。
Q・人種差別などを感じますか?
A・私は特に感じないが、人種差別の感じ方は、
環境によって、人それぞれだと思う。就職などで、
あるといえば、あると思う。
このような率直な回答が返ってきました。
質問をさせていただいたトルコ人の方は、
トルコの第3の都市イズミルの出身。
トルコの首都は、アンカラで、第1の都市は、
イスタンブールになります。
第3の都市イズミルは、地中海に面し、
現在、シリアの難民たちのボートの出発点でもあります。
イタリアのような雰囲気で、オリーブオイルを
ふんだんに使う料理がたくさんあるようです。
トルコ料理とギリシャ料理の起源争いもあるそうです。
欧州に多大な影響を与えたオスマン帝国
トルコ料理は、フランス料理、中国料理と並ぶ
世界三大料理の1つです。そして、イタリア料理の
元になったのです。
トルコ料理(トルコりょうり)は、トルコのトルコ民族の郷土料理であり、世界三大料理の一つである。
特徴として、
・中央アジアの食文化である羊を中心とした肉料理
・ヨーグルトやナッツ類を料理に使う
・黒海、地中海などの海産物を利用する
・冷菜には地中海周辺で取れるオリーブ・オイルを使用する(温菜にはバターが好まれる)
・アラビア周辺から広がった小麦粉とアジアの主食である米の両方を使う
など、東西の食文化を融合させた多彩な素材、味、調理法を持つことが挙げられる。
特徴として、
・中央アジアの食文化である羊を中心とした肉料理
・ヨーグルトやナッツ類を料理に使う
・黒海、地中海などの海産物を利用する
・冷菜には地中海周辺で取れるオリーブ・オイルを使用する(温菜にはバターが好まれる)
・アラビア周辺から広がった小麦粉とアジアの主食である米の両方を使う
など、東西の食文化を融合させた多彩な素材、味、調理法を持つことが挙げられる。
カフェの発祥は、トルコ・イスタンブールで、
オスマン帝国時代に遡ります。
ヨーグルトもトルコ発祥。
トルコアイスであるドンドルマは、ラン科の植物を
加わり、粘り気が出て、のびるのです。
トルコの伝統的なドンドゥルマは、砂糖、羊乳、サーレップ(salep)などが特徴的な原料となる。サーレップは、トルコ山岳部に自生するラン科オルキス属の植物Orchis mascula(オルキス・マスクラ)などの塊根を乾燥して粉砕した粉を湯に溶かし、成分を抽出した液で、砂糖などを加えて飲用にされる。このサーレップに乳と砂糖を加え、いったん沸騰させた後、弱火で1時間ほど絶えずかき混ぜながらヨーグルト状の固さまで煮つめ、冷して固まった後に長時間練り上げ、繰り返し空気を含ませながら伸ばすことで餅のような粘りを生じさせる。気温の高い地方でドンドゥルマが溶けて垂れるのを防ぐために粘度を上げる必要があり、増粘剤としてサーレップが使用される。
トルコは、親日国でもあります。
1889年にトルコのエルトゥールル号が
和歌山県沖で沈没して、和歌山県の日本人が助けたのです。
これは、トルコの小学校の教科書にも載っているそうで、
そのお返しとして、1985年のイラン・イラク戦争の際に
イランに残された日本人215人をトルコ航空が
迎えに行ったとか・・。
トルコの歴史を遡ると
勢力を拡大したオスマン帝国にたどりつきます。
このオスマン帝国が欧州の文化、建築、芸術などに
多大な影響をもたらしているのです。
オーストリアザルツブルグのホーエンザルツブルグ城に
展示してある調度品は、すべてオスマン帝国時代の
ものでした。
王家が使用していたベッドや棚なども。
オスマン帝国時代のトルコ風楽器、
トルコ行進曲の最後に出てくるトルコの鈴のような
楽器も展示してありました。
欧州の食文化、建築、芸術などは、
オスマン帝国時代400年の
影響をなくしては、発展しなかった
のではないでしょうか・・。
しかしながら、第二次世界大戦後、
高度成長したドイツでは、
トルコ人は外国人労働者として
最底辺の仕事に従事してきたのです・
西ドイツ時代、1985年ごろのベストセラーに
最底辺 Ganz unten
トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ
ギュンター・ヴァルラフ著
マサコ・シェーンエック翻訳
こちらの本から、
当時のトルコ人の実態を知ることができます。
オスマン帝国による2度のウィーン包囲(特に1683年の第二次ウィーン包囲)に随行した軍楽隊メフテルによる影響で、18世紀頃西欧にはトルコ趣味が流行していた。
モーツァルトの『ピアノソナタ第11番』は18世紀後半に作られたが、具体的な年代は不詳である。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第100番『軍隊』は、1793年から1794年にかけて作曲された。
ベートーヴェンの「トルコ行進曲」はアウグスト・フォン・コツェブーの戯曲『アテネの廃墟』の付随音楽として、1811年秋から1812年にかけて作曲された。
モーツァルトの『ピアノソナタ第11番』は18世紀後半に作られたが、具体的な年代は不詳である。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第100番『軍隊』は、1793年から1794年にかけて作曲された。
ベートーヴェンの「トルコ行進曲」はアウグスト・フォン・コツェブーの戯曲『アテネの廃墟』の付随音楽として、1811年秋から1812年にかけて作曲された。
メフテル(トルコ語: Mehter)とは、オスマン帝国とトルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽のことで、オスマン軍楽、トルコ軍楽とも称される。また、軍楽隊をメフテルハーネ (Mehterhane) と言う。
こちらの曲トルコ軍楽、ジェッディン・デデンは、
1980年放送の日本のNHKドラマ、阿修羅のごとくの
テーマ曲でしたね。印象的だった記憶が・・。
古い世代の方は、ご記憶があるのでは・・。
第7楽章のトルコ人外国人労働者も、2世代目、3世代目です。
ドイツのベルリンには、トルコ人が多く住む
地域がいくつかあります。
トルコ人は、人数が多いので、コミュニティーが発達して
集団で固まっている傾向があるのです。