ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第27話 ― 国立銀行条例

 結局は人次第なのでしょう。
 いかに優れた法を整備したところが、その法を運用する人間が邪悪で愚かならば、優れたはずの法が民衆を苦しめます。逆にその法が邪悪な意思に基づいた危険な法であっても、その法を運用する人間が誠実で賢明ならば、危険な法のはずが、民衆を豊かにも幸福にも導けます。
 次の1万円札の肖像となる渋沢栄一翁は、「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」という言葉に表れるように、道徳と経済を合一した思想を実践した人物だったようです。
 米国では、民衆を借金奴隷から解放させられる政府紙幣・グリーンバックスが発行された翌年に、逆に米国民を永遠の借金奴隷に仕上げる「国立銀行法」が調印されます。
 日本でも三岡八郎(由利公正)の奮闘によって、明治初年(1868年)に政府紙幣「太政官札」が発行されます。ところが明治5年(1872年)末には、米国の国立銀行法を雛形にした国立銀行条例が制定されたのです。猛毒が仕込まれた危険な法が制定されたといえるでしょう。
 …しかしその猛毒は作用せず、逆に日本の殖産興業は活気づいていきます。なぜか?
 …猛毒が仕込まれた国立銀行条例を実地で運用したのが、渋沢栄一翁だったからです。結局はやはり人次第なのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第27話 ― 国立銀行条例


日本通貨の背後にはロスチャイルドが 〜早々に政府から退去に至った三岡八郎


三岡八郎(由利公正)
第4代東京府知事
Wikimedia Commons [Public Domain]

日本最初の「政府紙幣」の発行、「太政官札(だじょうかんさつ)(小額紙幣として「民部省札」も後に発行されます。)の発行は、三岡八郎(由利公正)が政府内の多くの反対を押し切って断行されたものです。故丹羽春喜教授の論文を参照されれば、明治新政府を滑り出させ、“明治維新”を成功させた“切り札”となったのが「太政官札」だと言って間違いないでしょう。金銀の担保も不要、「何ら費用を負担することなく資金を供給できる」日本通貨が発行されたのです。

明治初年の発行当時は、明治政府は極めて脆弱で不安定な状態でした。内戦である戊辰戦争を戦っていたのですから当然です。しかし明治政府がやがて安定し軌道に乗り、その安定した状態で政府紙幣が発行され続けたならば、明治政府下の日本も、やがて世界で最も裕福で、強大な独立国家として世界に認識される位置に立てたでしょう。活発な商取引が行われ、日本の民衆の潜在的な生産能力はフルに稼働され、それがさらなる生産能力の向上となっていったはずです。

明治維新は英領日本の完成でもあったのですが、こうなってしまえば、政府紙幣の発行の継続は英領日本からの脱却も意味することになります。

しかし残念ながら、元々明治維新はハルマゲドン計画を進めるためのものであり、日本が民衆と共に豊かな独立国家となることをハルマゲドン計画の計画者並びに実行部隊が許す筈がありません。地上勢力でいえば、政府紙幣の発行をロスチャイルド家がただ指をくわえて傍観しているはずはありません。


早稲田ウィークリーの「日本の通貨はなぜ「円」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一【前編】」記事には以下のようにあります。

幕府は1866年、近代的造幣局を翌々年に設置すると約束したが、新政府もまた、新通貨の制定が課題であることを認識していた。約束の1868年には貨幣司が置かれ、閉鎖されたイギリスの香港造幣局の造幣機械を、イギリス人商人のトーマス・ブレーク・グラバーを通じて購入した。同年中に造幣機械が到着し、大阪にて造幣工場の建設が開始された。

グラバーはロスチャイルドの日本の代理人です。グラバーを通じて造幣機械が購入されたということは、要は幕末から明治における日本の通貨の鋳造と流通において、当然ながらその最初からロスチャイルドの意思が関わっていたということです。

一方、太政官札の発行を断行した三岡八郎(由利公正)ですが、これにロスチャイルドが関与していたかは不明ですが、太政官札発行の翌年の明治2年に早々に三岡八郎は政府を去っているのです。ウィキペディアの彼の記事では「太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至った。」 とある通りです。

太政官札の流通難は、当時日本の内戦である戊辰戦争を戦っていた明治政府の脆弱さが原因であることなどは明白であり、三岡八郎にその責任があるわけでないのは当然でしたが、三岡八郎は責任をとって辞職しているのです。その後の三岡八郎ですが、彼は東京知事に就任。また岩倉使節団に同行して渡欧してもいます。

国立銀行条例の制定 〜伊藤博文が参考にした米国の国立銀行法


三岡八郎(由利公正)が明治政府を去った後、明治政府の金融財政を担ったのが後の大蔵卿の大隈重信です。大隈重信の下「新貨条例」が発布され、日本の通貨単位は両から円に改めることになります。伊藤博文の建白で金本位制を目指したのが新貨条例で、これのもとに発行された紙幣はウィキペディアの「太政官札」記事を読めば、金本位制の兌換紙幣にとれますが、丹羽教授の論文では不換紙幣だということでした。

実際に日本には金(ゴールド)が不足していて、兌換紙幣の発行は無理で、丹羽教授が指摘されたように、新貨条例紙幣も不換紙幣だったのが事実でしょう。

さて、問題は1872年12月に制定された国立銀行条例です。この「国立銀行条例」にこそロスチャイルドの意思が明瞭に見て取れます。ウィキペディア「国立銀行条例」記事には以下のようにあります。

イギリス型の中央銀行制度を推す当時の大蔵少輔吉田清成と、アメリカ型の分権方式銀行制度を推す伊藤博文が論争した。結局、アメリカにおいて1864年に財務長官サーモン・チェイス(Salmon Chase)によって制定された国法銀行法を参考に、1872年(明治5年)国立銀行条例が制定された。

編集者註:国法銀行法(National Bank Act)。現在では「National Bank」を「国立銀行」ではなく「国法銀行」と訳すことが多い。「国立銀行」という場合、「法によっててられた銀行」という意味で、国が設立して経営した銀行ではないことに注意。

そしてこれは、

1870年に、当時の大蔵少輔(おおくらしょうゆう。次官)であった伊藤博文がアメリカ合衆国の首都ワシントンで銀行制度を視察し、その成果を反映した。

ということになっています。要は伊藤博文が米国の国立銀行法を見習って「国立銀行条例」を制定したということです。

この件について先ず伊藤博文ですが、彼は少年期に長州ファイブの一人として渡欧しています。長州ファイブとは別名マセソン・ボーイズです。マセソンもロスチャイルドの代理人です。マセソン・ボーイズとは「ロスチャイルドのお人形の少年たち」を意味します。

長州ファイブ(マセソン・ボーイズ)
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:造幣局(大阪本局)は明治元年(1868年)に建設が始まり、明治4年(1871年)に操業を開始。その初期には、上記の井上馨井上勝伊藤博文が交代でトップ(当時の役職名は造幣頭)を務め、その後、遠藤謹助が第10代のトップ(造幣局長)となった。

更に最大の注意が必要なのが、伊藤博文が参考にした米国の「国立銀行法」です。名称は国立銀行でもそれは国立公的銀行ではなく、私有銀行が国家を喰い物にするもので、「国立銀行法」とは制定した財務長官サーモン・チェイス自身が「私の一生涯の大変な誤り」と悔いた法です。国家を銀行の奴隷にする猛毒の法律だったのです。

セリフは「反ロスチャイルド同盟」より
Wikimedia Commons [Public Domain]

外伝48に記していますが、「国立銀行法」では、ドルを発行するためには政府債を同時に発行しなくてはいけないので、「同法の成立で未来永遠に米政府はドル発行のたび同額の債務を負い利子に追われることになったのです。借金でしかドルは発行できなくなったのです」。国立銀行法でロスチャイルドは米国を飲み込んだのです。


猛毒が作動しなかった国立銀行条例 〜同法を運用したのが渋沢栄一翁


米国と日本、両国は国家が形成されていった歴史や過程は全く異なり、全く異質な国家です。ただし、政府紙幣発行のその後に関しては同様の過程を踏むことになります。

米国で政府紙幣が、つまりグリーンバックスがリンカーンによって発行されたのが1862年です。しかし翌年の1863年には、猛毒の国立銀行法にリンカーンは調印せざるを得なかったのです。

一方日本では、政府紙幣の太政官札が明治初年の1868年と翌年、さらに小額紙幣の民部省札が発行されます。その中、日本では1872年末に国立銀行法を雛形にした国立銀行条例が制定されているのです。米国と日本が同様に政府紙幣発行から国立銀行法成立への流れです。


米国における国立銀行法の制定は極めて重要です。同法の制定はロスチャイルドの意図であり、同法の設定によって米国は永遠にロスチャイルドの銀行の借金奴隷となることが基本的には決定づけられたからです。

この米国の国立銀行法を雛形にした国立銀行条例が伊藤博文の働きによって制定されたということは、日本もまたロスチャイルドを筆頭にした国際銀行家の借金奴隷になる猛毒の仕組みが、日本国家の中に仕込まれたことを意味するでしょう。ウィキペディア記事に以下のようにある通り、日本の国立銀行も、名称は国立でも国立公的銀行ではなく民間銀行です。

国立銀行条例により、渋沢栄一が1873年(明治6年)に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現:みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間によって数多く(制限が掛かった1879年の時点で全153行)の国立銀行が設立された。

しかし日本の場合は、民間銀行である国立銀行が紙幣を発行する点は米国と同様ではありますが、国立銀行が日本政府の債務を担保として紙幣を発行するような、日本政府を喰い物にするというようなことは事実として起きませんでした。米国で起きたことがそのまま日本に反映されたわけではなかったのです。

国立銀行条例の目的の一つであった兌換紙幣の発行、これは日本には金銀が不足していて機能せず、国立銀行で不換紙幣発行になったのもあります。しかし一番大きかったのが、第一国立銀行(現:みずほ銀行)を設立したのが渋沢栄一翁であったことによるでしょう。

国立銀行条例には、日本を借金奴隷にしてがんじがらめにコントロールしようとのロスチャイルドの意図が内蔵されていたのですが、それは発動しませんでした。実地に国立銀行条例という法を運用した渋沢栄一翁は殖産興業の発展を、豊かな日本民衆となることをただ願い、実践したからです。

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Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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