國部克彦氏の「軽々しく利他を口にする人たち」〜「思いやりワクチン」は「利他」ではなく、最も「利己的な行為」、自分を大切にすることが他人をそして社会を大切にすることにつながる

読者の方からの情報です。
 医療専門家達が非専門領域での傲慢さを発揮する事は由々しき問題ではありますが(判断は主観的にしかできないし、因果関係は科学的には特定できないにも関わらず)専門家の話を鵜呑みにしてしまう市民にも問題があります。
 政府・メディアの常套手段である「社会のために〇〇しましょう(例えば「あなたとあなたの大切な人を守るためにも、ワクチン接種をご検討ください)」というフレーズや宣伝は「私のためのワクチンを打て」と言っていることと同値であると言うことは、とても示唆的です。
 メディアにも大きな責任はありますが、メディアを信じるのも市民ですので、やはり、市民全員に責任があります。
"地獄への道は善意で敷き詰められている"は正しく、その様に感じます。
しかし、世界の流れは必ずしも悲観的ではない動きも多々あることは一抹の希望を抱けます。
(あうわ)
 持病もなく健康だったご家族がワクチンを打った後に急逝されたという嘆きが後を絶ちません。1回目の接種できつい副反応があったのをがまんして、「周りの人に迷惑をかけたくない」「ワクチンを打つのは国民の義務」という責任感から2回目の接種を受けて亡くなった男性のご家族が「息子は国のために国を信じて打ったけれども、副反応がある場合は接種を控えるようアナウンスがあれば亡くならずにすんだ。」と声を詰まらせていました。「周りの人のため」という自己犠牲の考えにやるせなさを感じていたところに、読者さんから國部克彦氏の論説が届きました。「軽々しく利他を口にする人たち」というズバリのタイトルに驚きました。“ワクチンに疑問を訴えるのは非国民”という空気に覆われていた2021年にすでにこのような主張をされていたんだ。他人のためにワクチンを打てというのは「利他」どころか、最も「利己的な行為」だと解かれています。こちらの動画では、29:25あたりで「自分を大切にすることが他人をそして社会を大切にすることにつながる」と利他の本質を語っておられました。「思いやりワクチン」というキャンペーンの腹立たしい胡散臭さの原因はこれだったんだ!と腑に落ちました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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配信元)
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宗教化するワクチン論争(7)軽々しく利他を口にする人たち
引用元)
(前略)
 「他人のために自分にとってのリスクを許容する」という精神を「利他」と誤解する単純な思考の人々が,同じような発言をメディアで次々発信して,この問題を一層増幅させています。先日この欄で取り上げた忽那賢志医師も,子どもへのワクチン接種を利他の点から進めるべきと堂々と述べています。しかし,他者のために,相手に対してリスクを許容せよというのは,自分も相手には他者の一人なので,利他的どころか,最も利己的な行為です

 もしも,子どもたちが大人を守るために,自らリスクを引き受けてワクチンを打とうとするならば,大人たちは,自分のためにならないなら(コロナでは子どもはほとんど重症化しません),ワクチンを打つ必要はないと言わなければなりません。それこそが子どもを思う利他の精神です。

 したがって,「社会のために〇〇しましょう」ということを「利他」の名で語っている人たちは,他者を利用しようとしていることに気づかなければなりません。ところが,厄介なことに,この本末転倒した「利他」の考えを,本気で信じている素朴な善人が本当に多すぎます。本人には悪意はないのでしょうが,放っておくと,「地獄への道は善意で敷き詰められている」というヨーロッパの格言どおりの世界になってしまいます。
(以下略)

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