アーカイブ: 血筋の入れ替え

[竹下雅敏氏]高皇産霊命を祖とする宇佐神宮の宮司家系・到津氏における血筋の入れ替え

竹下雅敏氏からの情報です。
 宇佐神宮の宮司家は、高皇産霊命(たかみむすびのみこと)の曾孫・莬狭津彦命を祖とする古くは宇佐国造家とのこと。系図でもそのことがよくわかります。ここでの高皇産霊命というのは、豊受大神の子である八十杵命の子の高杵命のことです。ホツマツタヱによると、高杵命は七代高皇産霊となっています。現在の宇佐神宮の宮司職は、到津家が継承し祭祀を行っていたとのこと。
 ところが2009年に神社本庁が人事に介入して、到津家の到津克子氏が宮司に就任出来なくなったということです。到津克子氏は、確かに莬狭津彦命の子孫です。系図上で血筋が入れ替えられた気配はありません。ところが神社本庁は、彼女を免職し神宮から解雇します。代わりに特任宮司に任命された穴井伸久氏(現宮司)は、イスラエルの失われた十支族のゼブルン族の末裔です。宇佐神宮に関しては、神社本庁による強引な手法が取られています。
彼らは自分たちのやっていることがわかっているはずです。このような暴挙はホツマの神の怒りを買います。彼らをこれまで保護して来た応神天皇、サナット・クマーラ、マイトレーヤは、すでに天界の改革で滅ぼされ存在しません。神々の怒りが自分たちの上に爆発する前に、このような愚かな行為を速やかに止める必要があるでしょう。
 警告を軽んじない方が良いでしょう。贋の裏天皇に仕えていた八咫烏たちがどうなったかを、この連中は知っているはずです。速やかに行動で示さなければ、同じことが起こるだろうと予測されます。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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宇佐神宮
転載元より抜粋)
2014.12.31-2132-99056
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。

祭神

主祭神は以下の3柱。

一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ)
     誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ)
     宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)
     別名として息長足姫命とも
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《高皇産霊尊裔氏族綱要》
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【宇佐氏】
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《宇佐大宮司家》
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《宇佐大宮司家(公通以降)》
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[竹下雅敏氏]天忍人命の子孫で熱田神宮大宮司家の尾張氏にみる血筋の入れ替え

竹下雅敏氏からの情報です。
 今日は尾張氏を調べてみようと思います。ウィキペディアによると、尾張氏は天忍人命の子孫で、後裔は熱田神宮大宮司を代々務めています。尾張氏の場合は系図があるので、考察は容易です。もちろんどこで宮司家がイスラエルの末裔と入れ替わったかは、文献などがあるはずもなく、すべて私の直観に基づいていますが、今回のケースはかなりわかりやすいものです。
 まず、最初の系図の乎止与命までの人物は、すべてホツマの神(天津神)です。尾張国造家の建稲種命から稲置までの人物は国津神です。尾張姓熱田大宮司家の稲置見から員職までの人物は人間です。ところが員職の子・職子は、国津神です。ここまでの人物は天忍人命の子孫になります。
 ところが熱田大宮司家が藤原姓に変化した時から、血筋が入れ替わったようです。藤原季兼の子・季範は天忍人命の子孫ではなく、イスラエルの失われた十支族のシメオン族の末裔です。父は季兼ですが、母は職子ではありません。子供をすり替えたようです。その後季範、範信、憲朝まではシメオン族ですが、それ以降はイスラエルの末裔ではあるものの、シメオン族ではないようです。最後に季隆、季考、季頼は、再びシメオン族に戻ります。
 ユダヤ人は母親がユダヤ人でなければならないので、血筋を保つには相当な苦労があるだろうと思います。藤原氏が熱田大宮司家を乗っ取った時に仕込まれた種が、現代に実を結ぶように計画されて来たのだと思います。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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尾張氏
転載元より抜粋)
スクリーンショット 2014-12-30 22.01.39尾張氏(おわりうじ)は、「尾張」をの名とする氏族

日本書紀』巻第二の一書(第六第八)によると天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神とし天忍人命から始まるとされる。本貫地は諸説あり不明。

美濃飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となる。倭武の時代には、熱田の南に拠点を移し、その後裔は熱田神宮大宮司を代々務めた。また同族に住吉大社大阪市住吉区)の社家津守氏、そして籠神社京都府宮津市)の社家海部氏(国宝『海部氏系図』による)がある。

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[竹下雅敏氏]籠神社の祭神がいつどのように入れ替えられたのか

竹下雅敏氏からの情報です。
 籠神社の社家、海部氏に伝わる系図があり、尾張氏系図と比較すると酷似していることがわかります。
 12月11日の記事で、籠神社の祭神は本来、櫛玉火明命(ホノアカリテルヒコ)で、この人物はオシホミミの子でニニキネの兄であることを示しましたが、今回取り上げた記事で、それが間違いないということがわかると思います。日本書紀では“ホアカリをニニギノミコトの兄”と記述されており、“ホアカリを天照国照彦火明命としている”とあります。先の記事の籠神社の主祭神に同じ名があることから、籠神社の本来の祭神は、櫛玉火明命であることは明らかです。
 前回に続いて、祭神がいつどのように入れ替えられたのかを見てみようと思いますが、“続きはこちらから”以降で詳しく説明したいと思います。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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海部氏系図
転載元より抜粋)
海部氏系図(本系図)巻頭

海部氏系図(本系図)巻頭

海部氏系図(あまべしけいず)は京都府宮津市に鎮座する籠神社社家海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。

本系図

成立年代については、標記中に「従四位下籠名神」とあることから、籠神社が「従四位下」であった期間、すなわち貞観13年(871年6月8日を上限とし、元慶元年(877年12月14日を下限とするが、下述「勘注系図」の注記にも貞観年中(859-77年)の成立とある。作者は当時の当主である第33世(以下、世数は「勘注系図」による)海部直稲雄であると見られている。

始祖彦火明命から第32世の田雄まで、各世1名の直系子孫のみを記したきわめて簡略なもので

  • 始祖から第19世健振熊宿祢までのを有さない上代部。途中、2・3世と第5世から第18世までを欠いているため、わずか3人(神)を記すのみである。
  • 第20世都比から第24世勲尼までの、「海部直」の姓を持ち、伴造として丹波国(当時は丹後国を含んでいた)の海部(海人集団)を率いていたと思われる海部管掌時代。
  • 第25世伍佰道から貞観時代の第32世田雄までの、「海部直」の姓を持つとともに名前の下に「祝」字を付け、籠神社のとしての奉仕年数を注記する祝部時代。

勘注系図

「本系図」に細かく注記を施したもので、竪系図の形式を襲うが、現存のものは江戸時代初期の写本であり、原本は仁和年中(885年 - 889年)に編纂された『丹波国造海部直等氏之本記』であると伝える。

  • 推古天皇朝に丹波国造であった海部直止羅宿祢等が『丹波国造本記』を撰述。
  • 上記『国造本記』撰述から3世を経た養老5年(721年)、丹波国造海部直千嶋(第27世)とその弟である千足千成等が『籠宮祝部氏之本記』を修撰(一説に養老6年(722年)8月ともある)。
  • 貞観年中に、第32世の田雄等が勅を奉じて、上記『養老本記』を基にその後の数代を増補する形で本系帳としての『籠名神社祝部氏系図』(現在の「本系図」)を撰進。
  • 仁和年中に、「本系図」が神代のことや上祖の歴名を載せておらず、本記の体をなしていなかったため、第33世の稲雄等が往古の所伝を追補して『丹波国造海部直等氏之本記』を撰述。

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1-2 同じ伝承を持つ尾張氏系譜
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[竹下雅敏氏]ホツマの神の血筋である石上氏 と イスラエル10支族のマナセ族にみる血筋の入れ替えの典型パターン

竹下雅敏氏からの情報です。
 ホツマツタヱによると、ニギハヤヒノミコトとミカシヤヒメの子がウマシマジノミコトです。その子孫が物部氏と言われています。系図を見ると、物部氏の後裔として石上氏があります。
 石上氏の説明で、“石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある”とのこと。系図を見ていて大変不思議に感じることがあります。系図の赤字の部分ですが、石川乙麻呂、石上宅嗣は、確かにウマシマジノミコトの子孫なのですが、石上息嗣はそうではないのです。もちろんこうしたことは文献に残っているはずはないので、私の直観に依っています。
 おかしいので少し調べてみると、この息嗣はイスラエルの10支族であるマナセ族の末裔なのです。従って現在の石上神宮の社家は、マナセ族の末裔だということになります。先の乙麻呂、宅嗣にはイスラエル、あるいはユダヤの血はまったく入っていないので、これは奇妙なことです。 
 そこで乙麻呂を見てみると、“藤原宇合の妻で女官であった久米若売(若女)との姦通の罪を問われて土佐国に配流”とあります。乙麻呂と若女は関係があったようで、彼女がどうやら乙麻呂の子供をマナセ族の子と取り替えたようです。当時の貴族は両親が子供を育てないので、取り替えるのはたやすいことだと思います。ただ若女はマナセ族ではないので、この陰謀に手を貸しただけのようです。彼女自身も下総に流されていますが、翌年大赦されています。その後出世していますので、計画通り事が運んだのだと思います。
 今回のケースは血筋を入れ替える際の典型のパターンではないかと思います。最近では英国ウイリアム王子の第1子がすり替えられていますが、こうしたことは王族階級では頻繁に起こっているようです。またこのようなことが歴史書に、しかも公に記述されているはずがないので、その家系に伝わる秘密の系図でも公開されない限り、真相が世に出ることはありません。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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物部氏
転載元より抜粋)
名称未設定 2物部氏(もののべうじ)は、「物部」をの名とする氏族

河内国哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。

石上氏
686年朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[3]

石上麻呂朝臣が与えられて、708年和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位位階を贈られた。息子の石上乙麻呂孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館芸亭を創設した。

石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[4]

スクリーンショット 2014-12-27 21.32.54
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