[竹下雅敏氏]ホツマの神の血筋である石上氏 と イスラエル10支族のマナセ族にみる血筋の入れ替えの典型パターン

竹下雅敏氏からの情報です。
 ホツマツタヱによると、ニギハヤヒノミコトとミカシヤヒメの子がウマシマジノミコトです。その子孫が物部氏と言われています。系図を見ると、物部氏の後裔として石上氏があります。
 石上氏の説明で、“石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある”とのこと。系図を見ていて大変不思議に感じることがあります。系図の赤字の部分ですが、石川乙麻呂、石上宅嗣は、確かにウマシマジノミコトの子孫なのですが、石上息嗣はそうではないのです。もちろんこうしたことは文献に残っているはずはないので、私の直観に依っています。
 おかしいので少し調べてみると、この息嗣はイスラエルの10支族であるマナセ族の末裔なのです。従って現在の石上神宮の社家は、マナセ族の末裔だということになります。先の乙麻呂、宅嗣にはイスラエル、あるいはユダヤの血はまったく入っていないので、これは奇妙なことです。 
 そこで乙麻呂を見てみると、“藤原宇合の妻で女官であった久米若売(若女)との姦通の罪を問われて土佐国に配流”とあります。乙麻呂と若女は関係があったようで、彼女がどうやら乙麻呂の子供をマナセ族の子と取り替えたようです。当時の貴族は両親が子供を育てないので、取り替えるのはたやすいことだと思います。ただ若女はマナセ族ではないので、この陰謀に手を貸しただけのようです。彼女自身も下総に流されていますが、翌年大赦されています。その後出世していますので、計画通り事が運んだのだと思います。
 今回のケースは血筋を入れ替える際の典型のパターンではないかと思います。最近では英国ウイリアム王子の第1子がすり替えられていますが、こうしたことは王族階級では頻繁に起こっているようです。またこのようなことが歴史書に、しかも公に記述されているはずがないので、その家系に伝わる秘密の系図でも公開されない限り、真相が世に出ることはありません。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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物部氏
転載元より抜粋)
名称未設定 2物部氏(もののべうじ)は、「物部」をの名とする氏族

河内国哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。

石上氏
686年朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[3]

石上麻呂朝臣が与えられて、708年和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位位階を贈られた。息子の石上乙麻呂孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館芸亭を創設した。

石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[4]

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石上乙麻呂
転載元より抜粋)
石上 乙麻呂(いそのかみ の おとまろ、生年不詳 - 天平勝宝2年9月1日750年10月9日))は、奈良時代公卿文人左大臣石上麻呂の子。官位従三位中納言

 

経歴

天平11年739年藤原宇合の妻で女官であった久米若売との姦通の罪を問われて土佐国配流に処せられた(若売は下総国に配流)。これは一説には中央政界内部の争いによる冤罪であるともいわれている。

まもなく赦免されて、天平15年(743年)従四位上に叙せられる。

天平勝宝2年(750年)9月1日薨去。最終官位は中納言従三位兼中務卿。

 

系譜


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石上宅嗣
転載元より抜粋)
石上宅嗣/『前賢故実』より

石上宅嗣/『前賢故実』より

石上 宅嗣(いそのかみ の やかつぐ、天平元年(729年) - 天応元年6月24日781年7月23日))は、奈良時代後期の公卿文人中納言石上乙麻呂の子。官位は正三位大納言正二位

系譜


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石上息嗣
転載元より抜粋)
石上 息嗣(いそのかみ の おきつぐ、生没年不詳)は、奈良時代貴族中納言石上乙麻呂の子。官位従四位上大宰大弐

 

系譜

息嗣の子として振麻呂がいたとし、その子孫を石上神宮祠官家につなげる系図がある

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久米若女
転載元より抜粋)
久米 若女(くめ の わかめ、生年不詳 - 宝亀11年6月24日780年7月30日))は、奈良時代の女性。藤原百川の母。

藤原宇合と結婚し百川を生むが、天平9年(737年)に宇合に先立たれた。

天平11年739年)3月、石上乙麻呂と関係して和姦の罪で下総に流された。この事件は石上乙麻呂の失脚を狙う陰謀とも言われている。天平12年740年)6月、大赦によって京都に召し返され、神護景雲元年(767年)、従五位、累進して従四位下となった。宝亀11年(780年)6月、死去。

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