竹下雅敏氏からの情報です。
注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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物部氏
転載元より抜粋)
物部氏(もののべうじ)は、「物部」を氏の名とする氏族。
河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
石上氏
686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[3]。
石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[4]。
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河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
石上氏
686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[3]。
石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[4]。
石上氏の説明で、“石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある”とのこと。系図を見ていて大変不思議に感じることがあります。系図の赤字の部分ですが、石川乙麻呂、石上宅嗣は、確かにウマシマジノミコトの子孫なのですが、石上息嗣はそうではないのです。もちろんこうしたことは文献に残っているはずはないので、私の直観に依っています。
おかしいので少し調べてみると、この息嗣はイスラエルの10支族であるマナセ族の末裔なのです。従って現在の石上神宮の社家は、マナセ族の末裔だということになります。先の乙麻呂、宅嗣にはイスラエル、あるいはユダヤの血はまったく入っていないので、これは奇妙なことです。
そこで乙麻呂を見てみると、“藤原宇合の妻で女官であった久米若売(若女)との姦通の罪を問われて土佐国に配流”とあります。乙麻呂と若女は関係があったようで、彼女がどうやら乙麻呂の子供をマナセ族の子と取り替えたようです。当時の貴族は両親が子供を育てないので、取り替えるのはたやすいことだと思います。ただ若女はマナセ族ではないので、この陰謀に手を貸しただけのようです。彼女自身も下総に流されていますが、翌年大赦されています。その後出世していますので、計画通り事が運んだのだと思います。
今回のケースは血筋を入れ替える際の典型のパターンではないかと思います。最近では英国ウイリアム王子の第1子がすり替えられていますが、こうしたことは王族階級では頻繁に起こっているようです。またこのようなことが歴史書に、しかも公に記述されているはずがないので、その家系に伝わる秘密の系図でも公開されない限り、真相が世に出ることはありません。