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天忠党の魁となった中山愛親 〜天忠党の同盟者たち
天皇を、そして朝廷も左右し、日本全国の志士たちなども動かした天忠党。天忠党総督は光格天皇の皇子であったとされる中山忠伊であったことを前回見ました。東吉野村のホームページに興味深いことが記されています。天忠党の正体が示唆されているのです。
1863年8月の孝明天皇大和行幸の勅をうけて決起挙兵したのが「天誅組」で、天忠党の下部組織です。この天誅組の大幹部で総裁の一人であったのが藤本鉄石です。東吉野村のホームページには、藤本鉄石が壮絶な討ち死にをする前日に残した辞世の句となった3首を載せています。その一つが次です。
「八咫烏 みちびけよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため」
5・7調の句の切り方が合っているかは分からないのですが。この句の意味はごく簡単には「八咫烏よ、導いてくだされよ。天皇に尽くすべく立ち上げたこの皇軍を。」でしょう。
つまり、天忠党はどうやら八咫烏に所属する組織であったようなのです。そして彼らは朝敵とされたので皮肉ではありますが、自分たちを皇軍と認識していたようなのです。彼らは占領した五条の地を「天朝直轄地」と称しています。
この天誅組が朝敵とされ壊滅したのが要因となって天忠党総督中山忠伊は自刃するのですが、貴嶺会の情報(2段目後半)によれば中山忠伊が自刃したのは平野郷の坂上一族の邸宅。日時は1864年2月10日との情報が別にあります。
貴嶺会の天忠党図によると「諸国同士」と記され同盟関係を結んでいたであろう人物図があります。筆頭には水戸の徳川斉昭、次いで薩摩の島津斉彬、そして次に坂上一族とあります。
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倒幕勢力の本体で明治維新の核になった組織が天忠党であり、その筆頭の同盟者が水戸の徳川斉昭であり、次いでの同盟者が大奥を掌握していた篤姫の義父の島津斉彬だったわけです。徳川幕府内に討幕の中心勢力があったのです。そして同盟者の坂上一族とは征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、大阪平野郷をその本拠地としており、朱印船貿易を取り仕切っていたようです。
貴嶺会の天忠党図を見れば天忠党の本部は朝廷内に決起した討幕の軍隊組織だったと見えます。その天忠党の総督の初代、もしくは天忠党組織の魁となった人物が中山愛親だと分かります。この座を中山家の忠尹、忠頼、忠伊が引き継ぎ、忠英(秀)へ引き渡されたのが記されています。
初代総督もしくは討幕運動の魁となった中山愛親は光格天皇の側近であり、江戸幕府に赴き「中山問答」と呼ばれる討議を幕府と展開した人物です。貴嶺会の情報によれば中山愛親はその後に光格天皇から「討幕の内勅」を受け、ここから討幕運動が展開されるのです。
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公史上では、この1867年1月にすでに孝明天皇は崩御していて、密勅を下すのは睦仁親王が即位した明治天皇のはずですが、この時は明治天皇はまだ15歳の少年です。おまけに睦仁親王はその3年前の1864年秋に「禁門の変」で、朝敵とされることになった長州勢から自分の住居の御所に発砲され、その騒ぎの中で卒倒もしているのです。
この睦仁親王が、自分の意志で朝敵であった長州などに討幕令を下すなど考えられないのです。更に署名した中山忠能なども密勅書に押印していません。1867年の討幕の密勅は偽造と見るのが当然なのです。
それでは天皇からの徳川幕府の討幕の勅が存在していなかったか?といえば、「密勅はあった」のです。中山家に、中山忠能の曽祖父である中山愛親に、光格天皇から密かに討幕の密勅が下されていたのです。この密勅が後に倒幕の王政復古としての明治維新へと繋がるのです。
逆に言うと明治維新への展開や維新の中核組織天忠党のその後の展開を見れば、“①光格天皇から中山愛親らへ「討幕の密勅」が下された ②天忠党総督の中山忠伊は光格天皇が中山家に養子に出した自分の皇子”。このことは事実と見る以外にないのです。そうでないと明治維新に関わる事物の辻褄や整合性がとれないのです。