まったく疑問の余地なく、“マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(人間)は相似形”だと納得している状態が「悟り」

竹下雅敏氏からの情報です。
 冒頭の非常に印象的な動画をご覧ください。Wikipediaの画像にあるハート型のお尻をしたダニのような形のマンデルブロ集合を、私は“ヤツ”と呼んでいます。動画をご覧になると、ヤツの形状は非常に複雑で、小さな部分を拡大して見ると、自己相似形になっているのがわかると思います。
 動画の20秒辺りをご覧になると、小さなヤツが何匹も出てきます。しかし、彼らは、原初の巨大なヤツと細い糸で“繋がっている”のです。単に繋がっているだけではなく、数学的には「単連結」であることが知られています。要するに、非常に複雑な形をしていても、円盤が変形しているに過ぎないというわけです。
 “続きはこちらから”をご覧ください。これは、別班マンさんのツイートにリンクされていた記事です。「悟り」を非常に見事に表現した文章で、これほど見事なものは、そうそう見られるものではありません。
 「永遠の一者」=「神」=「それ」は、“永遠に知られざるもの”であることを多くの人が認めると思いますが、実は、「それ」=「自己」なのだということを、わかりやすく説明しています。
 私の家、私の服、私の財布という言い方をした場合、「私」と家、服、財布は別であることを意味します。同様に、私の体と言った場合、「私」と体は別であることを意味します。ならば、その「私は誰か?」
 「私」は、自身の想念に気づくことができ、心を見つめることができます。なので、想念や心は「私」ではありません。だとすれば、「私は誰か?」
 このように、私でないものを次々に否定すれば、最後に残るのが、“純粋な観照者”である「私」です。要するに、「私」とは、純粋な観照者である「自己」のことなのです。
 冒頭の動画の小さな「ヤツ」が、あなたの「自己(ジヴァ・アートマン/モナド)」です。それは、他のあらゆる存在の「自己」と繋がっており、宇宙の自己(パラマ・アートマン)と相似形なのです。
 現れとしての私、すなわち姿形は様々でも、「内在する自己」は「神」と自己相似形であり、「神」そのものなのです。このことを完全に体得した状態を、「悟り」と言います。
 私たちは、日常生活で「私」という言葉を使う時、以上に述べた「自己」としての私ではなく、「私」の所有物と混同して使っています。「偽りの私」を次々に排除して、「真の私」=「自己」=「神」を認識することが、「悟り」なのです。
 インドの聖者ラマナ・マハリシは、 「私は誰か?」と問いかけます。答えは、「私は私」です。
 以上の哲学問答がすんなりとわかる人は、「悟り」を得ていると言えるでしょう。知的に理解することは、少しも難しいことではありません。しかし、知的に理解することと、それが腑に落ちていることは違います。まったく疑問の余地なく、“マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(人間)は相似形”だと納得している状態が、「悟り」なのです。東洋の哲学では、これを実に簡潔な言葉で表現します。「汝それなり」。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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FractalNet HD - Slow deep Mandelbrot zoom
配信元)
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マンデルブロ集合

Author:Wolfgang Beyer[CC BY-SA]

マンデルブロ集合
数学、特に複素力学系に於けるマンデルブロ集合は、 充填ジュリア集合に対する指標として提唱された集合である。数学者ブノワ・マンデルブロの名に因む。

定義
次の漸化式
で定義される複素数列 {zn}n∈N∪{0} が n → ∞ の極限で無限大に発散しないという条件を満たす複素数 c 全体が作る集合がマンデルブロ集合である。


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"I am that I am"とは?
引用元)
「神」というのは人間が「それ」に対して与えた名前であって、「それ」自体は自分を「神」と名乗ったことは一度もなく、「それ」は永遠に知られざるものです。ところが、人間としてはそれでは納得がいかない。パラドックスのままではどうにも気持ちがスッキリしない。そこで人間は「神」を自分の外側に創り、これを崇め奉ったのです。
 
これが、過去2000年間、地中海史の基調を彩ることになった「一神教」の始まりです。ご承知のように「一神教」では「偶像崇拝」を禁じています。しかし「偶像崇拝」の本当の意味は、像に「神」を刻むことではありません。「一神教」そのものが、人間が創ったもの、つまり「偶像崇拝」に他ならないのです。
(中略)
『旧約聖書』の出エジプト記3章14節に、意味不明とされる次の言葉があります。(中略)… 英訳では、"I am that I am" と書かれています。ところが、日本語訳になったときに、これが「我は在りて有る者である」と訳されているのです。
在りて有る者? まったく意味不明です。実は、これは完全な誤訳なのです。
この本当の意味は、こうなのです。
 
最初の「I am that」の「that」は関係代名詞で、後に続く文、「I am」を表しています。ところがこの「I am」の後ろにあるもう一つの「that」が、重なるために省略されているのです。つまり本当は、
 
"I am that /I am(that)" 
(中略)
これらから、"I am that I am" の意味は、次のようになります。
「私は、《それ》と呼ばれているところの者、それである」
 
これは実に意味深で巧みな表現です。(中略)… これは相似形を表しているのです。つまり、ヘルメス文書にある「下なるものは上の如く、上なるものは下の如し」という「全一の法則」を、この一文が余すところなく表現しているのです。
(中略)
さらに言えば、このことから、誰もがそのように宣言してよいということもまた表しています。なぜなら、万物が一つのものから分かれたかけらであり、なおかつ繋がっているからです。(中略)… マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(人間)は相似形なのです。
 
ですから、堂々と宣言してください。
"I am that I am" 「私は私です」と。

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